『能狂言』中87 聟女狂言 かはらたらう

▲女「これは、この辺りに住居致す、太郎と申す者の妻でござる。妾は毎年、酒を造つて商売致しまする。則ち、今日は河原の市でござるによつて、あれへ参り、商売致さうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、いつもとは申しながら、当年は殊の外酒がよう出来て、この様な嬉しい事はござらぬ。いや。参る程に河原へ参つた。扨も扨も、今日は天気が良いによつて、夥しい市立ちゞや。この辺りが良さゝうな。さらば、これへ店を出さう。
《腰桶を置き、内より錫{*1}を出し、酒林を立て掛け、五度土器も出して置く》
やあやあ。太郎が酒は、これでござる。御用があらば、こなたへ仰せられいや。《と云うて、座付く》
▲シテ「これは、この辺りに住居致す、太郎と申す者でござる。某が女共は、毎年酒を造つて商売致しまする。則ち、当年も造つてござる。それにつき、夜前試みを致さうと申してござれば、明日河原へ参れと申したによつて、これより河原へ参り、ねだつてたべうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、今日は一段の天気でござるによつて、定めて市立ちもあまたござらうと存ずる。何かと申す内に、河原ぢや。扨も扨も、夥しい市立ちゞや。今日は良い天気ぢやによつて、やがて人もあまたづるでござらう。扨、女共は、どこ元へ店を出いた事ぢや知らぬ。いや。さればこそ、これに居る。
なうなう。女共。早うお出やつたの。
▲女「いゑ。これのは出させられてござるか。
▲シテ「今日は天気が良いによつて、夥しい市立ちでおりやるよ。
▲女「中々。夥しい人でござる。扨、こなたは何と思うて出させられてござるぞ。
▲シテ「その事ぢや。夜前も試みをせうと云うたれば、明日河原へ来いと仰しやつたによつて、それ故参つた。
▲女「やれやれ。ようこそ出させられたれ。さりながら、今朝からまだ売り初めを致さぬによつて、後にござれ。
▲シテ「扨々、そなたは悪い合点ぢや。身共が試みをしたいと云ふも、別の事ではない。酒が良う出来たか悪しう出来たか心元ないによつて、きいて見ようといふ事でおりやる。
▲女「その分ならば、お気遣ひをなさるゝな。いつもとは申しながら、当年は、取り分き風味が良う出来てござる。
▲シテ「いやいや。そなたばかり良う出来たと云うて、身共がきいて見ねば知れぬ。その上、万一悪しい酒を市立ちの衆へ進ぜては、重ねてから、太郎が酒は悪しいなどゝ仰せらるれば、以来商売の邪魔になる事ぢやによつて、呑みたうはなけれども、少しばかりきかせてくれさしめ。
▲女「近頃尤ではござれども、その分は必ずお気遣ひなさるゝな。妾も、いつもの旦那衆でござる程に、中々悪しい酒を進ずる事ではござらぬによつて、こなたのきいて見させらるゝには及ばぬ事でござる。
▲シテ「その上、甘い酒を好く衆もあり、又、辛いを参る衆もある処で、とかく某がきいて見ねば知れぬ。深しう呑みはすまい。只一つ、きかせてくれさしめ。
▲女「いやいや。何程に仰せられても、売り初めをせぬ内は、進ずる事はなりませぬぞ。
▲シテ「いかに売り初めをせぬと云うて、他の者ではなし、身共に呑まするは、則ち、売り初めも同じ事でおりやる。
▲女「妾は、お足を取らねば売り初めとは思ひませぬ。
▲シテ「扨々、そなたは義理の堅い事を仰しやる。たとへ、売り初めをせぬ内に、人に振舞うたとて、売るゝ酒ならば売れうず。又、売れぬものならば売れまいまでよ。
▲女「なう。腹立ちや腹立ちや。こなたは、この酒を誰が物ぢやと思うて、その様なさきの悪い事を仰しやるぞ。
▲シテ「総じて、商ひは吉相と云ふが、そなたの様にきつい事を云うたならば、え売れはすまいぞ。
▲女「いよいよさきの悪い事を仰しやる。その様に仰しやつたならば、尚々酒を振舞ふ事はなりませぬぞ。
▲シテ「すれば、これ程に云うても、振舞ふ事はならぬか。
▲女「中々。なりませぬ。
▲シテ「置き居れ。呑むまい。おのれ。後程来て、酒が売れずば仕様があるぞ。《と云うて、立つて》
扨々、憎い奴でござる。散々に打擲致さうと存じてござれども、人多ければ、外聞もいかゞぢやと存じて、堪忍を致いたが、何と致さうぞ。いや。思ひ出いた。致し様がござる。《と云うて、太鼓座へ引つ込む》
▲立頭「申し。いづれもござるか。
▲立衆「これに居りまする。
▲立頭「今日は、河原の市でござるによつて、参つて市立ちを見物致し、又、例の太郎が酒をたべうではござらぬか。
▲立衆一「一段と。
▲立衆「良うござらう。
▲立頭「それならば、いづれも、さあさあござれござれ。
▲立衆「参りまする、参りまする。
▲立頭「今日は、天気も良うござるによつて、夥しい市立ちでござらう。
▲立一「誠に、夥しい市立ちでござらう。
《立衆、出るを見て、太郎、笠を着て、一の松より、さし扇にて招く》
▲立頭「誰やら呼びまする。
▲立一「誰やら呼びまする。
▲立頭「行て参りませう。
▲立一「それが。
▲立衆「良うござらう。
▲立頭「誰ぢや。
▲シテ「私でござる。
▲立頭「ゑい。太郎か。今、そちが所へ行く処であつた。
▲シテ「私も左様に存じて、これまで出迎ひましてござる。
▲立頭「それは又、いかやうの事でおりやるぞ。
▲シテ「さればその事でござる。当年は、何と致いてやら、私の酒を散々造り損なうて、中々召し上がらるゝ御酒ではござらぬ程に、女共に、な持つて出そと申してござれども、女のはかなさは、それをも承らいで、持つて出ましてござる程に、必ず召し上がられて下さるゝな。
▲立頭「扨々、それは気の毒な事ぢや。さりながら、皆いつも寄りつけた事ぢやによつて、少しづゝなりとも呑うでやらう。
▲シテ「いかないかな。甘う酸う苦う辛うて、ひと口も召し上がらるゝ酒ではござらぬ程に、平に御無用でござる。
▲立頭「扨々、そちは正直な者ぢや。総じて、悪しい物をも良いと云うてこそ売るに、扨々、そちは奇特な者ぢや。
▲シテ「私も売りたうはござれども、いつもの旦那衆へ、あしい酒を進ぜては、以来が売れませぬによつて、かやうに申しまする。又、良う出来た時分には、左右を致しませう程に、皆、御出なされて召し上がられて下されい。
▲立頭「何が扨、さうをしたならば、皆行て呑うでやらうぞ。
▲シテ「それは忝うござる。
▲立頭「それならば、是非に及びませぬ。戻りませう。
▲立一「それが。
▲立衆「良うござらう。
▲立頭「さあさあ。ござれござれ。
▲立衆「参る参る。
▲立頭「今日は、太郎が酒が悪しうて、散々でござる。
▲立一「左様でござる。
《立衆、一遍廻るを、女、見つけて》
▲女「申し申し。いつもの太郎が酒は、これでござる。いづれも、これへ寄つて参りませい。
▲立頭「いやいや。その様な酸い酒は嫌ぢや。
▲女「いや。殊の外、良う出来ましてござるぞや。
▲立一「その様な辛い酒は嫌ぢや。
▲立二「苦い酒は嫌ぢや。
《など云うて、引つ込む》
▲女「はて、合点の行かぬ。いつも寄らるゝ衆が、皆寄られぬ。《と云うて、又、座付く》
▲シテ「なうなう。嬉しや。まんまと調儀致いて、いつもの旦那衆は、皆戻いた。他に珍しい人は、え参るまい。さらば、あれへ行てねだらうと存ずる。
いや。なうなう。今日は天気が良いによつて、夥しい市立ちゞや。定めて酒も、もはや売り切れたであらうと思うて、迎へに参つた。
▲女「なう。腹立ちや腹立ちや。そなたは、いつもの旦那衆へ何やら云うて、ようお帰しやつたの。
▲シテ「こゝな者は、何事を云ふぞ。何しに身共がその様な事をするものぢや。その上最前、試みをせうと云へば、売り初めをせぬと云うて、振舞はなんだ程に、定めて夥しう売れたであらう。鳥目もあまたあらう。これへお出しやれ。某が繋いでやらう。
▲女「ゑゝ。腹立ちや腹立ちや。我が酒を散々に悪口し、売れぬ様にするといふ事があるものか。こゝな男畜生めが。
▲シテ「何ぢや。畜生ぢや。
▲女「中々。
▲シテ「おのれ。云はせて置けば、方領もない。藁で束ねても、男は男ぢやに。夫に向かうて、男畜生と云ふ事があるものか。
▲女「でも、我が物を売れぬ様にするは、畜生も同じ事ではないか。
▲シテ「言葉甘う云うて置けば、勝ちに乗つて色々の事をぬかす。おのれ。散々に打擲してやらう。
《「やつとな」と云うて、酒ばやしを取りて打擲する。女、迷惑がりて、酒壺を突き出す》
おのれ。その酒壺を身共にさしつけたというて、某は呑みたうはない。おのれ。腰の骨を打ち折つてやらう。
《又、さしつくる》
何程さし出いたというても、呑む事ではない。おのれ。酒壺ともに、打ち砕かう。
《又、しきりにさしつくる》
最前から、しきりにその酒壺を身共にさしつくるが、それは真実、某に呑ませうと思うてさし出すか。但し、打たるゝが迷惑さにさし出すか。
▲女「真実、こなたに進じませうと存じて出しまする。
▲シテ「何ぢや。真実振舞ふ心でさし出すと云ふか。
▲女「中々。
▲シテ「それ程に思ふ事ならば、呑みたうはなけれども、是非に及ばぬ。堪忍して呑うでやらうか。
▲女「それは忝うござる。何とぞ了簡をして、呑うで下されい。
▲シテ「その儀ならば、まづ下に居よう。
▲女「それが良うござらう。さあさあ。これで、一つ参れ。《五度かはらけを出す》
▲シテ「呑うでやらう程に、これへつがしめ。
▲女「心得ました。
▲シテ「をゝ。恰度ある。
▲女「ちやうどござる。扨、風味は何とござるぞ。
▲シテ「風味の。
▲女「中々。
▲シテ「ありやうは、今朝から呑みたい呑みたいと思ふ処へ、つゝかけて呑うだによつて、只冷やりとばかりして、風味を覚えぬ。今一つ呑うで、風味を覚えう。
▲女「それが良うござらう。
▲シテ「又、つがしめ。
▲女「心得ました。
▲シテ「恰度ある。
▲女「又、恰度ござる。
▲シテ「いや。なうなう。
▲女「何事でござる。
▲シテ「誠に、そなたの自慢をする程あつて、いつもとは云ひながら、取り分き良う出来ておりやるわ。
▲女「中々。殊の外、良う出来てござる。扨、今一つ参りませぬか。
▲シテ「むゝ。今一つ呑まうか。とてもの事に、その酒壺の蓋で呑まう。
▲女「何でなりとも参りませい。
▲シテ「又、つがしめ。
▲女「心得ました。
▲シテ「扨も扨も、呑めば呑む程、旨い酒ぢや。扨、そなたにちと願ひがある。
▲女「それは、いかやうの事でござるぞ。
▲シテ「某も、今まで色々として呑うだれども、まだ滝呑みをした事がない程に、滝呑みをさせてくれさしめ。
▲女「何が扨、こなたの酒でござるによつて、いかやうにしてなりとも参れ。
▲シテ「それは近頃、満足した。さあさあ。これへついでくれさしめ。
▲女「心得ました。
▲シテ「さらば、呑む程に、この盃の中に、酒の絶えぬ様につがしめ。
▲女「心得ました。つぎまするぞ。
▲シテ「さあさあ。つがしめ、つがしめ。むゝ。扨々、旨い事ぢや。
《女、顔へ酒を掛くる》
やい。こゝな者。なぜに、顔へ酒をつぎかけたぞ。
▲女「今のは、妾が粗相で掛けました。許させられい。
▲シテ「それならば許す。今度は顔へ掛からぬ様に、ついでくれさしめ。
▲女「心得ました。
▲シテ「むゝ。扨も扨も、気味の良い事ぢや。
▲女「さあさあ。参れ参れ。
《と云ひながら、又、顔へ掛くる》
▲シテ「これは何とするぞ。
▲女「さあさあ。呑ませられい、呑ませられい。
▲シテ「これは、何とするぞ。
▲女「さあさあ。参れ参れ。
▲シテ「あゝ。許さしめ、許さしめ。
▲女「どれへござるぞ。こなたの存分に参れ。
《と云うて、女、後から注ぎ掛けながら、追ひ入りにする》

《又、酒を注ぎ掛くる時、「おのれ、憎い奴の。顔へ酒を掛くるといふ事があるものか」と云うて、又、酒林にて追ひ入り、女、「許させられい、許させられい」と云うて、逃げ入りにも》

校訂者注
 1:底本は、「鍋」。『狂言全集』(1903)及び、底本「作物」に「錫大瓶子一」とあるのに従い改めた。

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

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