『能狂言』中88 聟女狂言 ちぎりき
▲亭主「これは、この辺りに住居致す者でござる。某、辺りの若い衆と寄り合うて、連歌の初心講を取り結んでござれば、則ち、今日は某が頭に当たつてござる。やうやう時分も良うござるによつて、太郎冠者を呼び出し、いづれもへ使ひに遣はさうと存ずる。《常の如く呼び出して》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。やうやう時分も良いによつて、いづれもへ使ひに行て来い。
▲冠者「畏つてござる。
▲亭主「行て云はうは、もはや時分も良うござるによつて、いづれも御出なされて下されいと云うて、呼びまして来い。
▲冠者「畏つてござる。
▲亭主「扨、いつも太郎が方へも人を遣るが、きやつが来ると、姦しう云うて連歌がしまぬと云うて、いづれも嫌がらせらるゝ程に、太郎がゝたへは寄るな。
▲冠者「心得ました。
▲亭主「内も忙しい。早う戻れ。
▲冠者「畏つてござる。
▲亭主「ゑい。
▲冠者「はあ。
扨も扨も、今日は、こちの頼うだ人の、連歌のとうに当たらせられてござる。それにつき、いづれもへ使ひに行けと仰せ付けられたが、誰殿へ参らうぞ。下の町の誰殿が近い。まづ、これから参らう。まづ急いで参らう。誠に、かう参つても、お宿にござれば良うござるが。お約束の事ぢやによつて、定めてござらぬ事はござるまい。いや。参る程にこれぢや。まづ、案内を乞はう。
物申。案内申。
▲立頭「表に物申とある。案内とは誰そ。どなたでござる。
▲冠者「私でござる。
▲立頭「そちならば案内に及ばうか。なぜにつゝと通りはせなんだぞ。
▲冠者「左様には存じてござれども、もしお客ばしござらうかと存じて、それ故案内を乞ひましてござる。
▲立頭「それは念の入つた事ぢや。扨、今は何と思うて来たぞ。
▲冠者「只今参るも、別なる事でもござらぬ。頼うだ者の使ひに参りました。
▲立頭「何と云うておこされた。
▲冠者「頼うだ者、申しまする。やうやう時分も良うござるによつて、御出なされて下されうならば、忝うござると申し越しましてござる。
▲立頭「それは近頃、念の入つた事ぢや。いづれも御左右が遅いとあつて、某が方に寄り合うてござる程に、追つ付けそれへ同道せうぞ。
▲冠者「すれば、銘々に参るには及びませぬか。
▲立頭「中々。銘々に行くには及ばぬ程に、汝は先へ戻れ。
▲冠者「その儀ならば、お先へ参りませう。
▲立頭「それが良からう。
申し。いづれもござりまするか。
▲立衆「これに居りまする。
▲立頭「誰殿から人が参りました。いざ、参りませう。
▲立衆一「一段と。
▲立衆「良うござらう。
▲立頭「さあさあ。ござれござれ。
▲立衆「参りまする、参りまする。
▲立頭「今日は、太郎が方へは寄らずに参りませう。
▲立一「それが。
▲立衆「良うござらう。
《この内、太郎冠者》
▲冠者「なうなう。嬉しや嬉しや。足を助かつた。
申し。ござりまするか。
▲亭主「何事ぢや。
▲冠者「誰殿へ参りましてござれば、皆あれに寄り合うてござつて、追つ付けこれへ御出なさるゝ筈で。
▲亭主「何ぢや。皆あれに寄り合うてござつた。
▲冠者「中々。いや。早これへ御出なされてござる。
▲立頭「お頭。
▲立皆「めでたうござる。
▲亭主「これは、いづれもお揃ひなされて御出下されて、近頃忝う存じまする。
▲立頭「御さうが遅いとあつて、皆私の方に寄り合うてござつて、それ故一緒に参りましてござる。
▲亭主「扨、今日は、太郎が参ると姦しう申しまするによつて、沙汰なしに致いてござる。
▲立頭「いづれも門前は通りましたれども、誘ひませなんだ。
▲亭主「それは一段でござる。
▲立頭「扨、御発句を承りたうござる。
▲亭主「いや。いづれもの御発句を承りませう。
▲立頭「いづれも、まだ出ませぬ。
▲亭主「その儀ならば、出合ひに致しませう。
▲立頭「それが。
▲立皆「良うござらう。
▲シテ「これは、この辺りに住居致す、太郎と申す者でござる。今日は、誰が方に連歌の会がござるが、いつも人をおこしまするが、今日はおこしませぬ。憎さも憎し、つゝかけて参らうと存ずる。
《と云うて、舞台の真ん中へ、どつかと安座して》
お頭、めでたうおりやる。
▲亭主「太郎。おりやつたか。
▲シテ「何ぢや。太郎。おりやつたか。
▲亭主「中々。
▲シテ「なう。こゝな人。
▲亭主「何事ぢや。
▲シテ「初心な時分には宗匠に頼うで、今日はなぜに人をもくれられぬ。
▲亭主「いや。太郎冠者をやつた。
▲シテ「やい。太郎冠者。なぜに某が方へは寄らぬぞ。
▲冠者「はつたと忘れた。
▲シテ「主の云ひ付くる事を、忘るゝといふ事があるものか。又、いづれもいづれもぢや。某が門前を通らぬ事はあるまいに、なぜに誘うてはくれられぬぞ。
▲立頭「いづれも。
▲立皆「忘れた。
▲シテ「いづれも揃うて忘るゝといふ事があるものか。それはともあれ、発句を承らう。
▲亭主「まだ出ぬ。
▲シテ「何ぢや。まだ出ぬ。
▲亭主「中々。
▲シテ「今まで出ぬといふ事があるものか。はあ。あの花は、誰が活けた。
▲亭主「身共が活けた。
▲シテ「あれは、悉皆つかみざしといふものぢや。さあさあ。発句を承りたい。
▲亭主「まだ出ぬ。
▲シテ「今まで出ぬといふ事があるものか。
▲亭主「なう。太郎。こちへおりやれ。
▲シテ「何事ぢや。
▲亭主「そなたがあれに居て、姦しう仰しやつては、いづれも迷惑がらるゝ程に、発句が出たならば、左右をせう。その間、勝手へ行てくれさしめ。
▲シテ「いやいや。身共は宗匠に参つた。宗匠を勝手へ行けと云ふ事があるものか。出ねばならぬ。さあさあ。発句が聞きたい。
▲立頭「まだ出ぬ。
▲シテ「何ぢや。まだ出ぬ。
▲立頭「中々。
▲シテ「いや。なう。今まで発句が出ぬといふ事があるものか。はあ。あの掛け物は、誰が掛けた。
▲立頭「亭主の掛けられた。
▲亭主「あれ程歪うで居るが、いづれもの目には見えぬか。扨々、気の毒な。総じて、歌、連歌などゝいふものは、この様な事が肝要でおりやるぞや。
《この言葉の内に》
▲亭主「太郎冠者。こちへ来い。
▲冠者「何事でござる。
▲亭主「太郎に云はうは、料理が出来たならば、さうをせう程に、勝手へ行て居よと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
なう。太郎。こちへおりやれ。
▲シテ「何事ぢや。
▲冠者「頼うだ人の仰せらるゝは、料理が出来たならば左右をせう程に、勝手へ行て居よと仰せらるゝ。
▲シテ「おのれが何を知つて。すつこんで居おろ。
《この内に》
▲亭主「申し。いづれも。今度、太郎が座敷へ参つたならば、打擲致いてやりませう。
▲立頭「それが。
▲立皆「良うござらう。
▲シテ「なう。御亭主。
▲亭主「何事ぢや。
▲シテ「今、太郎冠者が申すは、料理が出来たならば、左右をせう程に、勝手へ行て居よと申す。某は宗匠にこそ来たれ、料理喰ひには参らぬぞや。
▲亭主「そのつれな事を云うて。勝手へ行かずば、ために悪からう。
▲シテ「ために悪からうと云うて、何と召さる。
▲亭主「目に物を見せう。
▲シテ「それは、誰が。
▲亭主「いづれも。
▲立皆「大勢が。
▲シテ「いづれもは大勢、身共はいち人ぢやと思うて、侮つて仰しやるが、恐らくいづれも大勢なりとも、負くる太郎ではおりないぞ。
▲亭主「ていとさう云ふか。
▲シテ「おんでもない事。
▲亭主「悔やまうぞよ。
▲シテ「何の悔やむものぢや。
▲亭主「たつた今、目に物を見せてやらう。
いづれも、太郎を打擲致しませう。
▲皆々「おのれ、憎いやつの。
▲シテ「これは、何と召さるぞ。
▲亭主「何とすると云うて、性こはな事を云ふ。おのれ、散々に打擲してくれう。
《と云うて、大勢立ち掛かり、太郎をとらへ、打擲して、踏み付くる体する》
▲亭主「これで良うござる。これへ寄つてござれ。
▲立皆「心得ました。
▲女「やあやあ。それは誠か。真実か。扨々、苦々しい事かな。これのはどれに居らるゝ事ぢや知らぬ。さればこそ、これに居らるゝ。
申し。このなりは、何とした事でござるぞ。
▲シテ「以来はふつと参るまい。真つ平、命を助けて下されい。
▲女「これはいかな事。妾でござる、妾でござる。
▲シテ「何ぢや。わらは。
▲女「中々。
▲シテ「妾といふは、女共か。
▲女「妾でござるが。まづ、このなりは、何とした事でござるぞ。
▲シテ「そなたはこれへ、何しに来た。
▲女「はて。何しにと云ふ事があるものでござるか。こなたの打擲にあはせらるゝと承つて、取る物も取りあへず参つたが、まづ、何とした事でござるぞ。
▲シテ「こゝな者は、むさとした。男が打擲にあうて良いものか。
▲女「ゑゝ。腹立ちや。まだその様な事を云うてか。これ。これは何でござるぞ、何でござるぞ。
▲シテ「はゝあ。これか。
▲女「中々。
▲シテ「いづれもの仰しやるは、太郎は定まる紋{*1}がないによつて、これを定紋{*2}にせいと仰しやつた。
▲女「ゑゝ。物狂やぶつきやうや。男が、人の足跡が定紋{*3}になるものでござるか。討ち果たいてござれ、討ち果たいてござれ。
▲シテ「あゝ。扨々、そなたはわゝしい人ぢや。討ち果たせば、命がおりない。
▲女「それは、知れた事でござる。打擲されて、只居らるゝものでござるか。命を捨つるとも、討ち果たいてござれと申すに。
▲シテ「はあ。和御料はけなげな人ぢや。何とぞ、身共が名代に、そなた行て、討ち果たいて来てくれさしめ。
▲女「なう。腹立ちや腹立ちや。男ありながら、何と女が討ち果たしに行かるゝものでござるぞ。討ち果たいてござらねば、宿へと云うては寄せませぬぞ。
▲シテ「やあやあ。何と仰しやる。討ち果たさねば、宿へ寄せぬと仰しやるか。
▲女「中々。
▲シテ「はあ。それならば、討ち果たしに行かうか。そなたも来てくるゝか。
▲女「妾も行かいで何とするものでござるぞ。
▲シテ「いゑ。それならば、行て討ち果たいて参らう。
▲女「なうなう。けなげやけなげや。それでこそ、妾が男なれ。かやうの事がござらうかと存じて、刀を差いて参つた。
▲シテ「扨々、気の付いた人ぢや。
▲女「これ。この棒も持つて参つた。これで討ち果たいてござれ。
▲シテ「はあ。そなたは男勝りな人ぢや。
▲女「扨、今日の頭屋は誰でござるぞ。
▲シテ「今日の頭屋は誰であつた。
▲女「はあ。あの誰といふ者は、常々から憎いやつでござる。早々行て、討ち果たさせられい。
▲シテ「心得た。さあさあ。おりやれおりやれ。
▲女「参る参る。
▲シテ「はあ。今日、そなたと同道したならば、この様な不覚はとるまいものを。
▲女「妾が参つたならば、中々指でも指さする事ではござらぬものを。
▲シテ「いや。なうなう。来る程に、これでおりやる。
▲女「これでござるか。
▲シテ「中々。
▲女「さあさあ。早う踏み込うで、討ち果たさせられい。
▲シテ「そなたはわゝしい人ぢや。まづ、静かに召され。
物申。頼みませう。
▲女「なう。そこな人。
▲シテ「何事ぢや。
▲女「今討ち果たすに、物申す処か。なぜに踏み込うで勝負をなされぬぞ。
▲シテ「はて。男は辞儀に余れと云ふ。まづ、某次第に召され。
物申。誰殿はお宿にござりまするか。
▲亭主「留守。
▲シテ「やい。女共。留守ぢやと云ふわ。
▲女「留守ぢやと云ひまするか。
▲シテ「おのれ。留守ならば、出て見居れ。この棒をかう持つて、づる処を、胸板をほうど突き、たぢたぢたぢとする処を、おつ取り直いて諸すねを、打つて打つて打ちなやいてやらうものを。
▲女「なうなう。けなげやけなげや。扨、誰でござる。
▲シテ「今度は誰であつた。
▲女「あの誰といふ者は、年に似合はぬ根性の悪い者でござる。さあさあ。早うござれ。
▲シテ「心得た。さあさあ。おりやれおりやれ。
▲女「参る参る。
▲シテ「扨、あの誰といふ者は、つゝと気の早い者ぢやによつて、必ず今の様にわゝしう仰しやるな。
▲女「又、こなたも、今の様な事ではなりませぬ程に、踏み込うで討ち果たさせられい。
▲シテ「心得た。なうなう。これでおりやるわ。
▲女「さあさあ。早う踏み込うで討ち果たさせられい。
▲シテ「はて扨。静かにせいと云ふに。
物申。誰殿は。
▲女「なう。そこな人。誰殿どころか。なぜに、めと仰しやらぬぞ。
▲シテ「扨々、そなたはわゝしい人ぢや。誰殿のお出やつたかと思うて、よい肝を潰いた。
▲女「その出た処を討ち果たさしめ。
▲シテ「そこが、男は辞儀に余れぢや。
▲女「いかに辞儀に余れと云うて、あゝ。もどかしい事ではあるぞ。
▲シテ「物申。誰殿はお宿でござりまするか。
▲立頭「留守。
▲シテ「やい。女共。又、留守ぢやと云ふわ。
▲女「又、留守ぢやと云ひまするか。
▲シテ「おのれ。留守ならば、出て見居れ。この刀をするりと抜いて、右のかひなを打ち落とし、左の腕も打ち落とし、返す刀で諸すねを、薙いでないで、手も足もないものにしてやらうものを。
▲女「なうなう。けなげやけなげや。扨、これからは誰でござるぞ。
▲シテ「残りの衆は、皆某をいたはつてくれられたによつて、行くには及ばぬ事ぢや。
▲女「それならば、妾が礼に参りませう。
▲シテ「それが良からう。扨、某が手柄をした事は、もはや世上にぱつと、隠れはあるまい。
▲女「隠れはござるまい。
▲シテ「とてもの事に、この由を謡うて戻らう。
▲女「それが良うござらう。
▲シテ「《謡》こゝを訪へども、留守と云ふ。
▲皆々「《謡》かしこを訪へども、留守と云ふ。これかや、事のたとへにも、いさかひ果てゝの契り木とは、いさかひ果てゝの契り木とは、かゝる事をや申すらん。
ゑいゑい。あう。
▲女「なう。愛しの人{*4}。こちへござれ、こちへござれ。
▲シテ「心得た、心得た。
校訂者注
1~3:底本は、「役」。岩波書店『狂言鑑賞案内』(1990)に従い改めた
4:底本は、「なういとうしの人」。
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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