『能狂言』中89 聟女狂言 かゞみをとこ
▲シテ「《謡》帰る嬉しき古郷に、帰る嬉しき古郷に、急いで妻子に逢はうよ。
これは、越後の国、松の山家の者でござる。某、訴訟の事あつて、永々在京致す処に、訴訟思ひの儘に叶うてござるによつて、国元へ下らうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、国元ではこの様な事は知らいで、今日か明日かと待ち兼ねて居るでござらう。戻つて、この様子を皆の者どもに話いたならば、さぞ悦ぶでござらう。扨、某も、一門どもやめ子どもへ、何ぞ土産を調へて下らうと存じてござるが、永々の在京なれば、皆遣ひ切つて、あたひがござらぬによつて、何も求めて下りませぬ。さりながら、女共へは何より重宝な宝物を調へてござる。則ち、この鏡でござる。昔は神物で、中々人間の手へ渡る物ではござらねども、今は都にはあまたござるによつて、某も一つ買ひ取つてござる。これにつき、色々仔細のある事でござる。その仔細は、人皇十一代垂仁天皇の皇女倭姫の尊、忝くも御神鏡を戴き、国々を御巡りありしに、伊勢の国二見の浦より、田作の翁の御案内者にて、御鎮座の定まりたると申す。その時、戴かせられたる御神鏡と申すも、則ち、この鏡の事ぢやと申す。扨、何程の宝でも、奇特がなければ役に立ちませぬが、この鏡程、奇特のある宝物はござるまい。総じて人間が、我と我が姿を見る事はならねども、この鏡に向かへば、あれ。あの如く、我が姿がありありと見えまする。又、女のためにはいよいよ重宝でござるは、まづこの鏡に向かひ、我が顔の良し悪しを知り、顔にはおしろいを塗り、紅、鉄漿を付け、頭には油を付けて髪を結へば、いかな悪女も十位はたちくらゐも美しう見えまする。すれば、女のためにはこれに上越す宝はござるまい。扨又、男にも重宝でござるは、この鏡に向かつて、十九やはたちの麗しい顔を見ては勇み悦び、又、中年に及んだ顔を見ては諸事分別をし、扨又、年寄り老いかゞまり、かしらには雪を戴き、顔には四海の浪を湛へ、腰に梓の弓を張りたる姿を見ては、後生をも願ふ。すれば、後生をも前生をも取り外すまいは、この鏡でござる。さらば、某も路次の慰みに、ちと見ようと存ずる。扨も扨も、奇特な事ぢや。我と我が姿が、曇り霞みもなう、ありありと見ゆる事ぢや。扨々、機嫌の良い顔かな。これは、正身の北野の笑ひ仏を見る様な。はあ。今度は、ちと腹の立つた顔を見たいものぢやが。これは何ぞ、腹の立つ事を思ひ出さずばなるまい。あゝ。何やら腹の立つ事があつたが。をゝ。それそれ。なう。恐ろしや恐ろしや。その儘、画に書いた鬼のつらに見ゆる。はあ。これについて、思ひ出いた事がござる。在京の内、さる寺へ参つて説法を承つてござるが、地獄へ落つるも心から。又、極楽へ行くも心から。地獄も極楽も目の前にあるとお説きやつたが、これで得道致いた。今、某が腹を立てた顔は、その儘の鬼ぢや。これを思へば、聊爾に腹を立てう事ではござらぬ。さらば又、機嫌を直いて、うるはしい顔を見ようと存ずる。扨も扨も、機嫌の良い顔でござる。《笑うて》
いや。余念もなう鏡に見入つて居て、時刻が移る。さらば、まづ鏡を仕舞うて、急いで国元へ罷り帰らう。誠に、この鏡を女共に取らせたならば、定めて殊ない悦びでござらう。何かと申す内に、国元へ戻り着いた。則ち、これが某が内ぢや。
なうなう。これのは内に居さしますか。今戻つておりやる。
▲女「やあやあ。これのは戻らせられてござるか。
▲シテ「中々。今、都から戻つておりやる。
▲女「やれやれ。早う帰らせられた。まづこなたも御息災で、近頃めでたうござる。
▲シテ「いかにも。身共も随分息災で戻つたが、そなたも変る事もなうて、めでたうおりやる。
▲女「何が扨、妾も変る事もござらぬ。扨、こなたの御訴訟の事は、何となりましてござるぞ。
▲シテ「さればその事ぢや。訴訟も思ひの儘に叶うておりやる程に、そなたも悦うでくれさしめ。
▲女「それは、近頃めでたい事でござる。妾も、殊の外案じて居りましたが、こなたの思し召す儘に叶うて、妾も嬉しう思ひまする。
▲シテ「扨、一門どもやそなたへも、何ぞ土産を求めて下りたう思うたが、長々の在京なれば、遣ひ切つて価がなさに、何もえ求めて参らなんだ。
▲女「何が扨、こなたの息災で帰らせらるゝが、何よりの土産でござる程に、他に何がいりませうぞ。
▲シテ「さりながら、そなたへおまさうと思うて、つゝと重宝な宝物を求めて参つた。則ち、これでおりやる。これは、鏡と云うて、昔は神々の持て扱はせらるゝ物で、中々人間の手へ渡る物ではなけれども、今では都にあまた出来てある物ぢやによつて、これをそなたへ遣らうと思うて求めて参つた。
▲女「今も申す通り、こなたの御息災で戻らせられたが何よりの土産で、他には何もいりませぬが、折角こなたのお志でござるによつて、申し受けませう。扨、これは何になる物でござる。
▲シテ「総じて人間が、我と我が顔形を見る事はならねども、この鏡に向かへば、我が姿がありありと映る。総じて、女はこの鏡に向かひ、顔の良しあしを知り、けはひ化粧と云うて、顔には白粉を塗り、べにかねを付け、油を付けて髪を結へば、いかな悪女も十位も廿位も美しう見ゆるによつて、女のためにはこれ程の宝はない程に、まづそれをあけて見さしめ。
▲女「やれやれ。それは忝うござる。すれば、何よりの宝でござる。さらば、急いで見ませう。
▲シテ「早うお見やれ。
▲女「やい。わ男。在京の内、女を抱へて置いて、ようこれまで連れて来居つたな。何としてくれうぞ。なう。腹立ちや腹立ちや。
▲シテ「これこれ。そなた、むさとした事を云ふ。つひに鏡を見た事がないによつて、鏡の訳を知らぬ。その中に見ゆるが、則ち、そなたの顔でおりやる。
▲女「ゑゝ。まだそのつれな事を仰しやる。妾が腹を立つれば、同じ様に腹を立てゝ、妾に噛み付く様に致す。何としてくれうぞ。
▲シテ「これはいかな事。さすが、松の山家の者ぢや。鏡を見た事がない処で、下らぬ事を申す。
これこれ。女共。その様にわゝしう云はずとも、まづ、心を静めてようお見やれ。これ。手を映せば手が映る。扇子を映せば扇子が映る。身共が傍へ寄れば、某が映る。何なりとも、その鏡に向かへば映るによつての宝でおりやる。則ち、和御料が腹を立てゝ見るによつて、そなたの顔がその鏡に映るのでおりやるが、合点が行かぬか。
▲女「なう。腹立ちや腹立ちや。何のかのと云うて、この女の傍へ寄つて、妾をたらさうと云ふ事か。中々聊爾にたらさるゝ事ではない。所詮、この様な物は打ち砕いてのけう。
▲シテ「あゝ。これこれ。まづ待たしめ。その様な事を云うて。和御料がいらずば、他の者に遣つて仕舞はう。こちへおこさしめ。
▲女「やい。わ男。その女を連れてどれへ行くぞ。やるまいぞやるまいぞ。
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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