『能狂言』中90 聟女狂言 ひつくゝり
▲シテ「これは、この辺りに住居致す者でござる。某、女共を持つてござるが、殊の外わゝしうござるによつて、いつぞは暇を遣はさうと存ずる処に、この間親里へ逗留に参つてござる程に、後からいとまの状を持たせて遣はさうと存ずる。《常の如く呼び出し》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。そちも知る通り、女共は殊の外わゝしうてならぬによつて、いつぞは暇をやらうやらうと思ふ処に、幸ひこの間、親里へ逗留に行た程に、汝はこの暇の状を持つて行てくれい。
▲冠者「畏つてはござりまするが、これは何とぞ御免なされて下されい。
▲シテ「それはなぜに。
▲冠者「あのおかみ様は、余のおかみ様と違ひまして、殊の外わゝしうござる程に、その状を見させられたならば、さぞお腹立ちでござらう。何とぞ御免なされて下されい。
▲シテ「むゝ。すれば、山の神は怖し、身共は怖うないな。
▲冠者「いや。左様ではござらねども、幾重にもご許されて下されい。
▲シテ「ようおりやる。
▲冠者「はあ。
▲シテ「総別、この間甘やかいて置くによつて、方領もない。この上は、行くとも行かずとも行かせうが、ていとおりやるまいか。
▲冠者「まづ、ものを云はせられい。
▲シテ「ものを云はせいとは。
▲冠者「参りませう。
▲シテ「いや。おりやるまいものを。
▲冠者「いや。参りませう。
▲シテ「それは誠か。
▲冠者「誠でござる。
▲シテ「真実か。
▲冠者「一定でござる。
▲シテ「これは戯れ事。使ひに行て貰ひたさの儘ぢや。
▲冠者「怖いおざれ事でござる。
▲シテ「扨、汝はこの状を女共に渡いたならば、見ぬ内に早う戻れ。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「ゑい。
▲冠者「はあ。
扨も扨も、迷惑な事を仰せ付けられた。さりながら、参らずばなるまい。誠に、あのおかみ様は殊の外わゝしいお方でござるによつて、この状を見させられたならば、さぞ腹を立たせらるゝでござらう。いや。参る程にこれぢや。まづ案内を乞はう。物申。案内申。
▲女「いや。表に聞き馴れた声で物申とある。案内とは誰そ。
▲冠者「私でござる。
▲女「ゑい。太郎冠者。そちならば、よそよそしい案内に及ばうか。なぜにつゝと通りはせぬぞ。
▲冠者「左様には存じてござれども、もしお客ばしござらうかと存じて、それ故案内を乞ひましてござる。
▲女「それは念の入つた事ぢや。扨、頼うだ人は、変らせらるゝ事もないか。
▲冠者「随分変らせらるゝ事もござりませぬ。
▲女「それは一段の事ぢや。妾も早う帰りたう思へども、まだちと用の事があつて、それ故戻らぬ。近々には戻るであらうぞ。
▲冠者「何が扨、ごゆるりと御用を仕舞はせられて、その上でお帰りなされたが良うござる。
▲女「扨、今は何と思うて来たぞ。
▲冠者「頼うだ人よりお文を遣はされましてござる。
▲女「何ぢや。お文を遣はされた。
▲冠者「中々。
▲女「やれやれ。ようこそ文を下された。早う見せい。
▲冠者「はあ。これでござる。
▲女「これへおこせい。
▲冠者「扨、私はかう参りまする。
▲女「まづ待て。今、文を見て、返事を遣らう。
▲冠者「いや。頼うだ人の、お返事には及ばぬと仰せられてござる程に、置いて参りませう。
▲女「いやいや。まづ待て。妾が用の事がある。
▲冠者「その儀ならば、畏つてござる。
▲女「や。これはいかな事。やい。太郎冠者。おのれは憎い奴の。これは暇の状ぢや。これを持つて来るといふ事があるものか。おのれ、引き裂いてのけうか。喰ひ裂いてくれうか。
▲冠者「いや。私は何とも存じませぬが、頼うだ人の、持つて参る様に仰せ付けられましたによつて、それ故持つて参りました。
▲女「まだそのつれな事を云ふ。おのれが知らいで何とするものぢや。あり様に云はずば、只置く事ではないぞ。
▲冠者「はあ。申し申し。それならば、ありやうに申しませう。私もまづ、かうござらうと存じて、色々とお断りを申してござれども、持つて参らぬにおいてはお手討になされうとのお事でござるによつて、背に腹は替へられず、持つて参りました。私に御恨みはござりますまい。
▲女「何ぢや。手討にせうと云うたか。
▲冠者「中々。
▲女「すれば、汝に咎はない。そちも、よう思うても見よ。あの様な男は、薮を蹴ても五人や七人は蹴出さうが、去られたと思へば、身が燃ゆる様に腹が立ついやい。
▲冠者「近頃、御尤でござる。
▲女「扨、戻つてさう云うてくれい。ようこそお文を下されて、忝うござる。追つ付けそれへ参つて、ご返事を申すでござらうと云へ。
▲冠者「畏つてござる。それならば、私はお先へ参りまする。
▲女「早う行け。
▲冠者「心得ました。
《女は太鼓座へ座り着いて、袋を懐へ入れて、良い時分を見合はせて立つ》
なうなう。恐ろしや、恐ろしや。早う戻らう。
いや。申し。頼うだ人。ござりまするか。太郎冠者が戻りましてござる。
▲シテ「ゑい。太郎冠者が戻つたさうな。太郎冠者。戻つたか戻つたか。
▲冠者「ござりまするか、ござりまするか。
▲シテ「ゑい。戻つたか。
▲冠者「只今戻りました。
▲シテ「扨、文を置いて来たか。
▲冠者「さればその事でござる。私も、お文を上げまして、その儘戻らうと致いてござれば、用があると仰せられて私を止めさせられ、その内にお文を見させられて、殊ないお腹立ちでござつて、追つ付けそれへ行て返事を云ふ程に、先へ戻れと仰せられてござる。
▲シテ「扨々、それは苦々しい事ぢや。女共がこれへ来て良いものか。それ故、渡いたならば、その儘戻れと云うたに。何としたものであらうぞ。
▲冠者「何となされて良うござらうぞ。
《と云ふ内に、女、立つて》
▲女「やい。わ男。妾を誑いて親里へ遣つて、よう後から暇の状をおこし居つたな。おのれ、何としてくれうぞ。
▲シテ「いや。なうなう。女共。扨々、そちはむさとした者ぢや。男が暇を遣つたに、これへ来るものか。
▲女「まだそのつれな事を仰しやる。そなたの様な男は、薮を蹴ても五人や七人は蹴出さうが、去られたと思へばいよいよ腹が立つ。それに、ありやうに云うたならば、出て行くまいものでもないに、誑いて去られたと思へば、いよいよ腹が立つ。おのれ、何としてくれうぞ。喰ひ裂かうか。引き裂かうか。
▲シテ「扨々、わゝしい女ぢや。男が暇を遣るに、出て行くまいと云ふ事があるものか。
▲女「いや。出て行くまいではない。出て行かうが、出て行くには、塵を結んでなりとも、しるしを取るものぢやと云ふ程に、印をおくりやつたならば、出て行かう。
▲シテ「それこそ易い事なれ。どりやどりや。塵を結んでやらう。さあさあ。これを遣る程に、早う出て行け。
▲女「なう。腹立ちや腹立ちや。それは言葉でこそあれ。身に付いた物をおこさしめ。
▲シテ「扨々、そちは欲の深い者ぢや。さりながら、暇を遣る女に何が惜しからう。何なりとも、そちが好きな物を遣る程に、それを持つて早う出て行け。
▲女「すれば、妾が欲しい物を何なりと下さるゝか。
▲シテ「中々。何なりとも遣らう。
▲女「それならば、妾はあれが欲しうござる。《と云ひながら、袋を出し》
▲シテ「あれとは。
▲女「これが欲しうござる。《と云うて、男の首へ袋を打ち掛け、引いて行く》
▲シテ「これは何とするぞ。
▲女「妾が欲しい物は、これでござる。
▲シテ「これは何とするぞ。《と云ひながら、袋を外して逃げ入る》
あゝ。許いてくれい、許いてくれい。
▲女「やい。わ男。どれへ逃ぐるぞ。あの横着者。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。
《又、シヤギリ留めにもする》
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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