『能狂言』中91 聟女狂言 いなばだう

▲シテ「これは、この辺りに住居致す者でござる。某、妻を持つてござるが、いかに致いても、大酒をたべ、世帯の事は少しも構はずに、やゝとも致せば、私をせびらかいて、ほうど迷惑致す処に、この間親里へ逗留に参つたを幸ひに、後から暇の状を遣はしてござる。さりながら、私もいち人ではならぬ身でござるによつて、妻を持たねばなりませぬ。それにつき、五條の因幡堂のお薬師は、験仏者ぢやと申す程に、妻乞ひに参らうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、いつぞはいとまをやらうやらうと存ずる処に、この度は親里へ参つたによつて、後から暇の状を遣はしてござる。あれを見たならば、さぞ肝を潰すでござらう。いや。参る程に、因幡堂ぢや。扨、いつ参つても森々と致いた、殊勝なお前でござる。まづ、拝を致さう。
南無薬師瑠璃光如来、何とぞ良い妻を授けて下されい。南無薬師瑠璃光如来。
扨、今夜はこれに通夜を致さう。《と云うて、寝る》
▲女「なうなう。腹立ちや、腹立ちや。これの男めが、妾が親里へ参つたを幸ひに、後から暇の状をおこいてござる。その上、承れば、因幡堂へ妻乞ひに参つたと申す。聞けば聞く程、腹の立つ事でござる。誠か偽りか、参つて見ようと存ずる。あの様な男は、薮を蹴ても五人や十人は蹴出しまするが、誑いて去られたと思へば腹が立つ。いや。来る程に、因幡堂ぢや。どこ元に居る事ぢや知らぬ。なうなう。腹立ちや、腹立ちや。さればこそ、これに居る。おのれ、喰ひ裂いてのけうか、引き裂いてのけうか。いや。思い出いた。致し様がござる。
やいやい。西門の一のきざ橋に立つたを、汝が妻と定めい。ゑい。
《と云うて、太鼓座へ引つ込み、かつぎをかぶり、一の松へ出る》
▲シテ「はあはあはあ。
あら、ありがたや。御霊夢を下された。西門の一のきざ橋に立つたを、汝が妻に定めいとのお事ぢや。さらば、西門へ行て見よう。誠に、因幡堂のお薬師は験仏者でござる。定めて良い妻を授けて下さるゝでござらう。いや。参る程に西門ぢや。はあ。この辺りには見えぬが。どこ元に居らるゝ事ぢや知らぬ。さればこそ、あれにかつぎをかづいて、つゝくりとして立たせられた。定めてこれであらう。はあ。何とぞ問うて見たいものぢやが。はあ。これと知つたならば、誰そ人を雇うてなりと参れば良うござつたに。中々恥づかしうて、問はるゝ事ではござらぬ。と云うて、問はずには居られまい。思ひ切つて問うて見よう。
はあ。申し。それに立たせられたは、もし御夢想の。《笑うて》
いかないかな。恥づかしうて、問はるゝ事ではござらぬ。はあ。誰そ、人が通つたならば、頼うで問うて貰はうが{*1}。折節、人も通らぬ。是非に及ばぬ。思ひ切つて、今一度問うて見よう。
はあ。それにござるは、もし御夢想の。《笑うて》
扨も扨も、何程に思うても、中々問はるゝ事ではござらぬ。問はいではいつまでも知れぬが、何としたものであらうぞ。をゝ。それそれ。男の心と大仏の柱とは、太うても太かれと云ふ。何の、思い切つて問ふに、問はれぬ事はない。今度こそ、まんまと問うて見せう。
はあ。それに立たせられたは、もし御夢想のお妻ではござらぬか。《うなづく》
《笑うて》扨も扨も、うなづかせらるゝ。すれば、疑ひもない、御夢想のお妻ぢや。はあ。扨、迎ひをやらずばなるまいが、これも問うて見よう。
いや。申し。お迎ひを進じませうが、おかごを進じませうか。《かぶり振る》
嫌ぢや。それならば、馬を進じませうか。《かぶり振る》
嫌ぢや。その儀ならば、某がお手を取つて参りませうか。《うなづく》
《笑うて》扨も扨も、御夢想のお妻は違うたものぢや。身共がお手を取りませうかと云へば、うなづかせらるゝ。
どりやどりや。それならば、お手を取りませう。さあさあ。ござれござれ。はあ。扨、こなたは御夢想のお妻でござるによつて、千年も万年も仲良う添ひませう。扨、かやうになるからは、何も隠す事はござらぬ。私も今まで、女共がないではござらぬが、いかに致しても、たいしゆをたべ、世帯の事は少しも構はずに、やゝとも致せば、私をせびらかいてなりませぬによつて、この間親里へ参つたを幸ひに、暇を遣はしてござる。これからは、こなたを頼みまする程に、何かの世話をして下されい。いや。何かと云ふ内に、これでござる。まづ、つゝと通らせられい。それにゆるりとござれ。追つ付け、盃を致さう。
《腰桶の蓋を持ち、扇開き》
いや。申し申し。総じて、かやうの節で、世にある人は、待ち女郎の何のと云うて、賑やかにござるが、我ら如きの者は、今左様に致いても、後の続かぬ事でござる。その上、私も相応に元手もござつたれども、皆今までの女共が使ひ果たいてござる。さりながら、こなたと二人で精を出いたならば、後にはいかな事なりともなりませうが、まづ今日は、祝儀ばかりに盃を致さう。総じて、婚礼の盃は女から呑うで差すものぢやと申す程に、こなた参つて下されい。それならば、注ぎませうが、一つ参るか。をゝ。恰度ござる。扨、それをこれへ下されい。何ぢや。嫌ぢや。それならば、今一つ参るか。はあ。こなたも一つなると見えました。又ちやうどござる。はゝあ。ひと息に参つた。さらば、これへ下されい。何ぢや。嫌ぢや。それならば、ちと加へて参らう。これはいかな事。只今までの女共が、大酒でござつたによつて、暇を遣はしてござるが、又今度の御夢想のお妻も酒がなりまする。とかく、某には酒を呑む女がふさふと見えた。是非もない事でござる。《と云うて、加へて》扨、加へて参つた。はあ。今一つ参るか。ちと過ぎませうぞ。それならば、注いで進じませう。又、なみなみとござる。今度こそ頂きませう。嫌ぢや。と云うて、いつまで待たるゝものでござる。是非とも頂きませう。《と云うて、無理に取りて》近頃、めでたうござる。さらば、頂きまする。めでたい事でござる程に、某も一つたべませう。扨、めでたうこれは納めませう。
《と云うて、腰桶の蓋を太鼓座へやりて》
扨、盃は済みました程に、そのかつぎを取らせられい。嫌ぢや。成程、恥づかしいは尤でござる。さりながら、これからは千年も万年も連れ添ふ者が、いつまで取らずに居らるゝものでござる。その上、勝手の様子をも見せて置きたうござる程に、平に取らせられい。嫌ぢや。と云うて、いつがいつまで取らずに居らるゝものでござるぞ。それならば、身共が取つて進じませう。《と云うて、かつぎを取る》
▲女「やい。わ男。
▲シテ「女共。おりやつたか。
▲女「おのれは憎いやつの。妾が親里へ行たれば、よう後から暇の状をおこし居つたな。何としてくれうぞ。
▲シテ「あゝ。これこれ。あれは、そなたの安否を問ひにやつた文ぢや。
▲女「ゑゝ、腹立ちや、腹立ちや。まだそのつれな事を云ふ。その上、よう因幡堂へ妻乞ひに行たの。おのれ、喰ひ裂いてのけうか。引き裂いてのけうか。
▲シテ「あれも、そなたの息災な様に、祈誓を掛けに参つた。
▲女「まだそのつれを云ふか。あの横着者。どれへ行くぞ。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。
▲シテ「あゝ。許さしめ、許さしめ。

校訂者注
 1:底本は、「もらうが」。

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

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