『能狂言』中92 聟女狂言 いもじ
▲主「これは、この辺りに住居致す者でござる。恥づかしい申し事ではござるが、某、未だ似合はしい妻がござらぬ。それにつき、清水の観世音は験仏者ぢやと申すによつて、妻乞ひに参らうと存ずる。まづ、太郎冠者を呼び出いて、申し付けう。《常の如く呼び出し》
汝を呼び出すも、別なる事でもない。汝も知る通り、某も、いまだ似合はしい妻もない。それにつき、清水の観世音は隠れもない験仏者ぢやによつて、今から妻乞ひに清水へ参らうと思ふが、何とあらうぞ。
▲冠者「これは、一段と良うござりませう。
▲主「その儀ならば、追つ付けて行かう。さあさあ。来い来い。
▲冠者「参りまする、参りまする。
▲主「あの観世音は験仏者ぢやによつて、定めて良い妻を授けて下さるゝであらうぞ。
▲冠者「仰せらるゝ通り、良い妻を授けさせられぬと申す事はござるまい。
▲主「いや。来る程にお前ぢや。
▲冠者「誠に、お前でござる。
▲主「汝もそれへ寄つて拝め。
▲冠者「畏つてござる。
▲主「《拝みて》いつ参つても森々とした、殊勝なお前ぢやなあ。
▲冠者「誠に、殊勝なお前でござる。
▲主「今夜はこれに通夜をせう。汝もそれへ寄つて休め。
▲冠者「畏つてござる。
▲主「はあはあ。
あら、ありがたや。あらたに御霊夢を蒙つた。
やいやい。太郎冠者。はや夜が明けた。
▲冠者「はあ。誠に夜が明けましてござる。
▲主「扨、夜前、あらたに御霊夢を蒙つた。
▲冠者「それはめでたい事でござるが、何と申す御霊夢でござるぞ。
▲主「西門の一のきざ橋に立つたを、汝が妻に定めいとのお事ぢや。
▲冠者「扨々、それはあらたな御霊夢でござる。
▲主「急いで西門へ行かう。
▲冠者「それが良うござらう。
▲主「さあさあ。来い来い。
▲冠者「参りまする、参りまする。
▲主「扨々、奇特な事ぢや。定めて御夢想の事ぢやによつて、良い妻を授けて下さるゝであらう。
▲冠者「いかにも左様でござらう。
▲主「やいやい。来る程に、西門ぢや。
▲冠者「誠に、西門でござる。
▲主「この辺りに立たせられてはないか。
▲冠者「いや。この辺りにはござりませぬ。申し申し。あれに何やら、やんごとない御姿で立つてござりまする。
▲主「誠に、その通りぢや。急いで行て問うて来い。
▲冠者「畏つてござるが、こなたのお妻でござる程に、こなた、直々問はせられい。
▲主「こゝな者は。何と、某が直々問はるゝものぢや。汝、行て問へ。
▲冠者「私は恥づかしうござる。平にこなた、問うて下されい。
▲主「扨々、むさとした事を云ふ。汝を連るゝは何のためぢや。この様な時のためではないか。平に問うて来い。
▲冠者「その儀ならば、畏つてござる。
あゝ。これは迷惑な事ぢや。問うて見ずばなるまい。
はあ。それに立たせられましたは、頼うだ人の。《笑うて》
あゝ。申し申し。恥づかしうて問はれませぬ。こなた、行て問はせられい。
▲主「これはいかな事。何と、自身行て問はるゝものぢや。早う行て問うて来い。
▲冠者「それならば、畏つてござる。
はあ。それに立たせられましたは、頼うだ人の御夢想の。《笑うて》
いかないかな。恥づかしうて、問はるゝ事ではない。何としたものであらうぞ。をゝ。それそれ。男の心と大仏の柱は、太うても太かれと申す。何の、思ひ切つて問ふに、問はれぬ事はあるまい。今度こそ、思ひ切つて問うて見よう。
申し。それに立たせられましたは、頼うだ人の御夢想のお妻ではござりませぬか。《うなづく》
申し申し。問うて見ましたれば、うなづかせられまする。
▲主「すれば、疑ひもない、御夢想のお妻ぢや。行て云はうは、お迎ひを進じませうが、お宿はどこ元でござると云うて、問うて来い。
▲冠者「畏つてござる。申し申し。お迎ひを進じませうが、お宿はどこ元でござると申しまする。
▲シテ「《謡》恋しくば訪うても来たれ伊勢の国伊勢寺本に住むぞわらはゝ。《と云うて、引つ込む》
▲冠者「申し申し。これはいかなこと。はや、どちへやら行かせられた。
▲主「やいやい。お宿を聞いたか。
▲冠者「さればその事でござる。お宿を問ひましてござれば、何やら歌の様な事を仰せられて、その儘どちへやら行かせられてござる。
▲主「扨々、それは苦々しい事ぢや。扨、その歌は何といふ歌ぢや。
▲冠者「恋しくば訪うても来たれ。い。
とまでは承つてござるが、後を忘れました。
▲主「これはいかな事。その後を忘れては、お宿が知れいで、お迎ひを遣らう様がない。扨々、これは苦々しい事ぢやが。何としたものであらうぞ。
▲冠者「それならば、良い致し様がござる。
▲主「何とするぞ。
▲冠者「この所に関を据ゑて、往き来の人を留めて、この後を付けさせませうが、何とでござらう。
▲主「こゝな者は、むさとした。このご政道正しい御世に、何と新関が据ゑらるゝものぢや。
▲冠者「これは歌関でござるによつて、少しも苦しうござるまい。
▲主「いかさま。歌関ぢやによつて、苦しうあるまい。急いで据ゑい。
▲冠者「畏つてござる。
《と云うて、太鼓座より、腰桶と綱を持つて出て》
まづ、これにお腰を掛けさせられい。
▲主「心得た。
▲冠者「扨、この綱を持つて、ゆきゝの者を止めさせられい。
▲主「心得た。
▲後シテ「なうなう。忙しや忙しや。頼うだ人の御用で、急なお使ひに参る。まづ、急いで参らうと存ずる。
▲冠者「それや。掛かつた。
▲後シ「これは何事ぢや。
▲冠者「関ぢや、関ぢや。
▲後シ「このご政道正しい御世に、関といふ事があるものか。
▲冠者「いや。これは歌関でおりやる。
▲後シ「それには仔細でもあるか。
▲冠者「中々。仔細がある。云うて聞かせう。よう聞かしめ。
▲後シ「心得た。
▲冠者「まづ、あれに立たせられたは、頼うだ人でおりやるが、今に定まるお妻がないによつて、清水の観世音へ妻乞ひの祈誓をなされた処に、西門の一のきざ橋に立つたを汝が妻に定めいとの御夢相であつた。
▲後シ「ほう。
▲冠者「それ故、西門へ御出なされた処に、やんごとない御姿で立たせられたによつて、問うて見たれば、案の如く御夢相のお妻であつた処で、お宿を問うたれば、何やら歌の様な事を仰せられて、その儘どれへやら行かせられた。その下の句が知れぬによつて、それ故立てた関でおりやる。
▲後シ「仔細を聞けば尤ぢや。扨、その歌は何といふ歌ぢや。
▲冠者「恋しくば訪うても来たれ。い。
とまでは聞いたが、その後をはつたと忘れた程に、この後をつけさしめ。
▲後シ「その使ひには、誰が行たぞ。
▲冠者「身共が行た。
▲後シ「はて。使ひに行たそなたさへ知らぬものを、何として身共が知るものぢや。某は急なお使ひに行かねばならぬ。そこを通さしめ。
▲冠者「いやいや。後を付けねば通す事はならぬ。
▲後シ「それならば、くゞらう。
▲冠者「くゞらする事はならぬ。
▲後シ「その儀ならば、飛び越えて参らう。
▲冠者「いや。飛び越えさする事もならぬ。
▲後シ「それならば、後へ戻らう。
▲冠者「後へも戻さぬ。
▲後シ「是非に及ばぬ。下に居よう。
▲冠者「いやいや。しもにも置かぬ。
▲後シ「扨々、これは迷惑な所へ参り掛かつた。それならば、是非に及ばぬ。後をつけて見ようか。
▲冠者「何とぞ付けておくりやれ。
▲後シ「今の後は定めて、いの字のついた国の名であらう程に、いの字のついた国の名を、一つ二つ云はうによつて、この内にあるならばあると、早う仰しやれ。
▲冠者「心得た。
▲後シ「《謡》思ひも寄らぬ関守に、思ひも寄らぬ関守に、仲人するぞ可笑しき。《地を取る》
いの字のついた国の名、いの字のついた国の名、いの字のついた国の名。いの字のついた国ならば、伊賀の国の事かの。
▲冠者「それにても候はず。いの字のついた国の名、いの字のついた国の名。
▲後シ「これにてもさうずば、扨はどこの国やらん。いの字のついた国の名、いの字のついた国の名、いの字のついた国の名。いの字のついた国ならば、伊予の国の事かの。
▲冠者「それにても候はず。いの字のついた国の名、いの字のついた国の名。
▲後シ「これにてもさうずば、扨はどこの国やらん。いの字のついた国の名、いの字のついた国の名、いの字のついた国の名。いの字のついた国ならば、因幡の国の事かの。
▲冠者「それにても候はず。いの字のついた国の名、いの字のついた国の名。
▲後シ「これにてもさうずば、扨はどこの国やらん。神変や。奇特や。不思議なれや。奇体や。いの字のついた国の名、いの字のついた国の名、いの字のついた国の名。いの字のついた国ならば、伊勢の国の事かの。
▲冠者「をゝ。伊勢の国であつた。
▲後シ「それならば、ちと吟じて見さしめ。
▲冠者「心得た。
▲主冠「《謡》恋しくば訪うても来たれ伊勢の国。い。
▲冠者「又、い、で詰まつた。
▲後シ「何ぢや。又、い、で詰まつた。
▲冠者「中々。
▲後シ「それは定めて、灯心引きの娘であらう。
▲冠者「それはなぜに。
▲後シ「はて。又しても又しても、藺で詰まるわ扨。
▲冠者「いやいや。その様なむさとしたお方ではおりない。
▲後シ「いや。身共は急なお使ひに行かねばならぬ。通してくれさしめ。
▲冠者「あゝ。これこれ。とてもの事に、今の後を付けてくれさしめ。
▲後シ「某は国の名を付けた程に、この後は、後から来る者に付けさせたが良うおりやる。
▲冠者「いや。これこれ。これ程にまで付けておくりやつた事ぢや程に、是非とも後を付けてくれさしめ。
▲後シ「扨々、これは迷惑な事ぢや。それならば、付けても見ようか。
▲冠者「何とぞ付けてくれさしめ。
▲後シ「今の後は、国里といふ事がある程に、定めて里の名であらう。いの字のついた里の名を云はう程に、又、あるならばあると答へさしめ。
▲冠者「心得た。
▲後シ「いの字のついた里の名、いの字のついた里の名、いの字のついた里の名。いの字のついた里ならば、市の本の事かの。
▲冠者「それにても候はず。思ひも寄らぬ里の名、思ひも寄らぬ里の名。
▲後シ「これにてもさうずば、扨はどこの里やらん。いの字のついた里の名。いの字のついた里の名、いの字のついた里の名。いの字のついた里ならば、伊勢寺本の事かの。
▲冠者「をゝ。その伊勢寺本であつた。
▲後シ「それならば、又、吟じて見さしめ。
▲主冠「《謡》恋しくば訪うても来たれ伊勢の国伊勢寺本に住むぞ妾は。
▲冠者「一段と良うおりやる。
▲後シ「《イロ》これまでなりや、関守。さらば、暇申さん。
▲主「《謡》あら。名残惜しやの。
▲後シ「《謡》こなたも名残惜しけれど、明年も通らうよ。
▲主冠「《謡》さ。明年も通らうよ。
▲後シ「《謡》あの日を御らうぜ。
▲主冠「《謡》山の端に掛かつた。
▲後シ「《謡》めいめいざらり。
▲主冠「《謡》ざらりやざらり。
▲後シ「《謡》梅はほろりと落つれども。
▲主冠「鞠は枝にとまつた。
▲後シ「留まつた、とまつた。
▲主冠「とまり留まりとまつた。
▲後シ「とゝ。いや。
《国の名も、伊勢とも、三つ程にて良し。石見・伊豆などあり。差し合ひを考へて云ふべし。里の名も、井手の里、この他何程もあるべし。仕方、色々あり》
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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