『能狂言』中93 聟女狂言 やせまつ

▲シテ「これは、山奥に住んで、人の物を我が物として世を渡る、心もすぐにない者でござる。この間は、打ち続いて仕合せが悪うござるによつて、今朝は、門出を祝うてござる程に、今日は何ぞ仕合せのない事はござるまい。又、いつもの所へ参り、良い者も通らば、調儀致さうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、某いち人づるに、合言葉はいらねども、総じて山賊の言葉に、仕合せの良い時を肥え松と申し、又、仕合せの悪しい事を痩せ松と申すが、今日は何とぞ肥え松に致したい事でござる。いや。参る程に、こゝ元は引場も多し、人遠い良い所でござる。まづ、この辺りに待ち合はせ、良さゝうな者も通らば、調儀致さうと存ずる。
▲女「妾は、この辺りに住む者でござる。山一つあなたに親里を持つてござるが、久しう便りも承らぬによつて、今日は見舞ひに参らうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、山道でござるによつて、人を連れて参らうと存じてござれども、暇がござらぬによつて、暇を待つて居ては殊の外遅うもなりまする程に、妾一人参る事でござる。これは人遠い、淋しい所へ出た。気味の悪い事でござる。
▲シテ「《女、廻る内に見付けて》いや。これへ女が何やら持つて参る。これを調儀致さう。
やいやいやい。おのれ、憎いやつの。逃げたと云うて、逃がさうか。どちへ行くぞ。おのれ、この長刀にのせてくれうぞ。
▲女「あゝ。悲しや悲しや。真つ平命を助けて下されい。
▲シテ「やいやいやい。そこなやつ。
▲女「はあ。
▲シテ「おのれは憎いやつの。女の身として大胆な。この人遠い所を只一人通るは、定めて武辺立てゞあらう。某は、この街道で往き来の者に無心を云うて、口過ぎをする者ぢやいやい。
▲女「私は、山一つあなたに親里がござつて、それへ参りまする。今日は内の者が暇がござらぬによつて、妾一人参りまする。中々武辺立てゞはござらぬ。何とぞ命を助けて下されい。
▲シテ「見れば、汝は何やら袋を持つて居る。それをこちへおこせ。
▲女「これは、妾が手道具で、こなたの取らせられても、何の役に立たぬものでござる。何とぞ許いて下されい。
▲シテ「おのれ、それをおこさずば、この長刀にのせてくるゝぞ。
▲女「あゝ。悲しや悲しや。進じませう、進じませう。
▲シテ「さあさあ。早うおこせ。
▲女「これは何とも迷惑にござるが、是非に及びませぬ。さらば、進じまする。
▲シテ「こちへおこし居れ。これさへ取れば良い。やい。命をば助くる程に、どちへなりとも早う行き居ろ。おのれ。こゝに居たならば、この長刀でひとなでにするぞ。
▲女「あゝ。居よと仰せられても、中々居る事ではござらぬ。
▲シテ「早う行け。
▲女「心得ました。
▲シテ「なうなう。嬉しや嬉しや。一段の仕合せを致いた。この内に何があるか知らぬ。さらばまづ、あけて見よう。これは、結構な小袖がある。これは、良い小袖でござる。この間は打ち続いて仕合せが悪しうて、女共が機嫌が悪しうござつた。これを見せたならば、定めて悦ぶでござらう。
▲女「なうなう。恐ろしや、恐ろしや。あまの命を拾うた。扨、只今のすつぱゝ、どちへ行た事ぢや知らぬ。さればこそ、あれに手道具を取り出いて居る。これはいかな事。あの小袖は、かゝ様へ進じませうと思うたものを。扨々、腹の立つ事ぢや。
▲シテ「はあ。これは何ぢや。これはかもじぢや。扨々、これは良い物でござる。幸ひ、女共が髪が、蛙の尾程ならではないによつて、これを入れて結はせたならば、さぞ悦ぶであらう。
▲女「なう。腹立ちや腹立ちや。かもじを出いて、悦うで居る。扨々、憎い事ぢやが。何とぞして取り戻したいものぢやが。何と致さう。いや。思ひ付いた。致し様がござる。
▲シテ「これは鏡ぢや。これも良いものでござる。紅皿もあり、はあ。これに良い帯がある。扨々、これは結構な帯でござる。これは、色々の物がある。某が女共は、悪女でござるによつて、この道具でけはい化粧を致いたならば、少しは見良うなるでござらう。これは、良い仕合せを致いた。戻つて女共に見せたならば、さぞ悦ぶでござらう。
▲女「がつきめ。やるまいぞ。
▲シテ「やい。何とする。それは切れ物。こちへおこせ。
▲女「何の、切れ物。おのれ、なで斬りにしてくれう。
▲シテ「あゝ。真つ平命を助けてくれい。
▲女「おのれ、妾が物を取つたが良いか。これが良いか。まづ、首を落といてやらう。
▲シテ「あゝ。危ない。聊爾な事をすな。
▲女「真実、命が助かりたいか。
▲シテ「中々。命が助かりたい。
▲女「命が助かりたくば、その差いた物をおこせ。
▲シテ「おのれ、憎いやつの。女の身として、男のひと腰を取らうといふ事があるものか。取られせば{*1}、取つて見居れ。遣る事はならぬ。
▲女「おのれ。おこさずば、胴腹を突いてやるぞ。
▲シテ「あゝ。危ない。やらう、やらう。
▲女「早うおこせ。
▲シテ「扨々、是非に及ばぬ。さあ取れ。
▲女「おのれは心得た出しやうをする。取り直いておこせ。
▲シテ「それ程用心をするならば、な取つそ。
▲女「そのつれな事を云うて。おこさずば、首を落といてやらう。
▲シテ「あゝ。危ない。取り直いてやらう、取り直いてやらう。つゝとそちへのいて居よ。
▲女「心得た。早うおこせ。
▲シテ「さあ取れ。
▲女「こちへおこせ。
▲シテ「危ない事をする。
▲女「これさへ取れば良い。やいやい。
▲シテ「何事ぢや。
▲女「妾がその手道具を返せ。
▲シテ「こゝな者は。某がひと腰を取るさへあるに、何とこれを返さうぞ。戻す事はならぬ。
▲女「おのれ。戻さずば、そりや。突き殺いてやらう。
▲シテ「あゝ。返さう、返さう。さあ取れ。
▲女「こちへおこせ。まだ色々の物がある。皆おこせ。
▲シテ「さあさあ。返す。取れ。
《と云うて、悪い物より段々投げ出す》
▲女「こちへおこせ。その様に少しづゝおこさずと、皆一緒にしておこせ。返さずば、突き殺いてやらう。
▲シテ「あゝ。是非に及ばぬ。皆戻すぞ。
▲女「おのれ、袋ともにおこせ。
▲シテ「後の物は、返す事はならぬ。
▲女「おのれ、袋ともに戻さずば、胴腹へ穴をあけてやるぞ。
▲シテ「あゝ。聊爾な事をすな。袋ともに返す。
▲女「さあさあ。早う返せ。
▲シテ「扨々、そちは大胆な女ぢや。皆戻す程に、その長刀と腰の物を返してくれい。
▲女「をゝ。返さう程に、早う袋ともにおこせ。
▲シテ「心得た。さあ取れ。
▲女「こちへおこせ。これはまづ、妾が物ぢや。扨、とてもの事に、その着て居る小袖をもおこせ。
▲シテ「いや。汝は云ひたい儘な事を云ふ。そちが道具は皆戻いたによつて、何も云ひ分はない筈ぢや。その長刀や腰の物を、それへ置いて行き居れ。
▲女「おのれ、小袖をおこさずば、首を落とすぞ。
▲シテ「あゝ。やらう、やらう。
▲女「早うおこせ。
▲シテ「扨々、これは迷惑な。女ぢやと思うて油断をして、したゝかな目に遇うた。是非もない。さあ取れ。
▲女「こちへおこせ。やいやい。
▲シテ「何事ぢや。
▲女「命は助くる程に、妾が行くかたを見るな。
▲シテ「見る事ではない。
▲女「おのれ。見たならば、なで斬りぢやぞ。
▲シテ「あゝ。見る事ではない。早う行け。
▲女「見るな。
▲シテ「見はせぬ。
▲女「見るな。
▲シテ「見はせぬ。
▲女「そりや、見たわ。おのれ、突き殺いてやるぞ。
▲シテ「あゝ。中々見る事ではない。聊爾な事をすな。
▲女「見るなと云ふに。
▲シテ「見はせぬ。
▲女「見るな。
▲シテ「見はせぬ。
▲女「見るな、見るな、見るな。
一段の仕合せを致いた。急いで参らうと存ずる。
▲シテ「見はせぬ、見はせぬ、見はせぬ。
扨も扨も、恐ろしや、恐ろしや。あまの命を拾うた。何事も、びくがさする{*2}。人の物を取らう取らうと思うて、こちの物を皆取られた。女ぢやと思うて油断をして、散々の目に出合うてござる。この様な所に長居は無用。足元の明かい内、早う戻らう。いや。これに笠を置いて行た。これなりと、着て戻らう。今日は仕合せを致さうと存じてござれば、これは散々の痩せ松になつた。あゝ。しないたるなりかな。

校訂者注
 1:「取られせば」は、底本のまま。
 2:底本は、「び(マゝ)くがさする」。

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

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