『能狂言』中94 聟女狂言 ぬし
▲師匠「これは、都に住居致す塗師でござる。只今、都には塗師の上手があまたござり、その上、何事も当世様、当世様と申して、我ら如きの昔細工は流行りませぬによつて、渡世を致さう様がなうて、迷惑致す事でござる。それにつき、越前の国北の庄に、平六と申して弟子がござるが、かねがね都で塗師が流行らずば、越前へ下れと申し越してござる程に、平六を頼みに北の庄へ下らうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、花の都を振り捨てゝ越前へ下ると申すは、本意にはござらねども、これも浮世の習ひなれば、是非もない事でござる。いや。参る程に北の庄ぢや。
いや。申し申し。この辺りに、塗師の平六と申す者はござらぬか。やあやあ。これぢやと仰せらるゝか。
やれやれ。嬉しや嬉しや。尋ねかねうと存じてござれば、早速知れて、この様な悦ばしい事はござらぬ。まづ案内を乞はう。
物申。案内申。
▲女「いや。表に物申とある。案内とは誰そ。どなたでござる。
▲師匠「これは、都に住居致す、平六が師匠でござるが、かねがね平六の申し越しまするは、都で塗師が流行らずば、越前へ下れと申し越しましてござるが、今では都には塗師の上手があまた出来、その上何事も当世様、当世様と申して、我ら如きの昔細工は、頼む人もござらぬによつて、渡世を送らう様がなうて迷惑致し、平六を頼みに遥々下りましてござる。何とぞ平六に逢はせて下されい。
▲女「やれやれ。それは、ようこそ下らせられてござる。まづ、かう通らせられい。
▲師匠「心得ました。
▲女「それにゆるりと御出なされい。
▲師匠「心得ました。
▲女「これはいかな事。あれへ参られたは、平六殿のお師匠ぢやと申されてござるが、お師匠ならば、定めて塗師も上手でござらう。左様ならば、この所にござつては、平六殿の細工の妨げにもなりませう程に、偽りを申し、戻らるゝ様に致さうと存ずる。《女、泣きながら、行て座る》
▲師匠「いや。申し申し。こなたは何を嘆かせらるゝぞ。
▲女「妾はこなたを見まするにつけても、平六殿の事が思ひ出されて、悲しうござる。
▲師匠「はあ。扨、平六は何と致いてござるぞ。
▲女「さればその事でござる。平六殿は三とせ以前に空しうなられてござる。
▲師匠「やあやあ。何と仰せらるゝ。平六は三とせ以前に空しうなつたと仰せらるゝか。
▲女「中々。その通りでござる。
▲師匠「扨も扨も、それはゝかない事でござる。かねて達者な者でござつたによつて、中々、今なと空しうならうとは存ぜなんだが。それは気の毒な事でござる。私も遥々、平六を頼みにこれまで下りましたに、近頃残念な事を致いてござる。
▲女「平六殿も、かねがねこなたにお目に掛かりたい、お目に掛かりたいと申されてござるが、息災で居られましたならば、さぞ悦ばるゝでござらう。
《この言葉の内に》
▲シテ「やいやい。女共。女共はどちへ行たぞ。花漆の上塗り刷毛は、どこ元に置いたぞ。
▲女「あゝ。申し申し。その様に物を声高に仰せらるゝな。
▲シテ「それは又、何とした事ぢや。
▲女「都より、こなたのお師匠の下らせられてござる。
▲シテ「や。何ぢや。都より、お師匠の下らせられた。
▲女「中々。
▲シテ「やれやれ。それはお懐かしや。どれにござるぞ。早うお目に掛からせてくれさしめ。
▲女「いや。こなたをお師匠様へ逢はせまする事はなりませぬ。
▲シテ「それは又、なぜにぢや。
▲女「さればその事でござる。妾の存じまするは、こなたのお師匠ならば、細工も上手でござらう。さうあれば、この所にござつては、こなたの細工の邪魔になりませうと存じて、こなたには、三年以前に空しうならせられたと申しました程に、あれへ出させらるゝ事はなりませぬ。
▲シテ「扨々、そちは、むさとした事を云ふものぢや。今この所で塗師の平六、塗師の平六と云はるゝは、誰が蔭ぢやと思ふ。皆、お師匠の蔭ではないか。それに、遥々と身共を頼みに下らせられたものを、何とお目に掛からずに居らるゝものぢや。そこをのかしめ。あれへ行てお目に掛かる。
▲女「まづ待たせられい。
▲シテ「待てとは。
▲女「近頃尤ではござれども、妾もこなたのためを思うて偽りを申した事でござる程に、こゝを聞き分けて、お目に掛からせらるゝ事を思ひ止まつて下されい。
▲シテ「まだそのつれな事を云ふか。七尺去つて師の影を踏むなといふ事がある。その上某も、幼少の時分より取り立てられたお師匠ぢやによつて、かねがね、都で塗師が流行らずば、越前へ下らせられい、ともどもに稼ぎませうと云うて進ぜたによつて、某を頼みに下らせられたものを、いかにためにならぬと云うて、これがお目に掛からずに居らるゝものか。どうあつてもお目に掛からねばならぬ。
▲女「さりとては、聞き分けのない事を仰せらるゝ。すれば、どうあつてもお目に掛からせられねばなりませぬか。
▲シテ「はて。お目に掛からいで、何とするものぢや。
▲女「それならば、是非に及びませぬ。妾に暇を下されい。
▲シテ「それは、なぜにぢや。
▲女「はて。こなたもよう思うても見させられい。一旦こなたは空しうならせられたと申したものが、あれへ出させられて、何と妾が生きて顔が合はさるゝものでござるぞ。淵川へなりとも身を投げて、死にまする。
▲シテ「何ぢや。身を投げて死ぬる。
▲女「中々。
▲シテ「むゝ。誠に尤ぢや。扨々、これは苦々しい事ではあるぞ。身共がお師匠へお目に掛からうと云へば、そなたが身を投ぐると云ふ。又、お目に掛からねば、本意になし。これはまづ、何としたものであらうぞ。
▲女「誠に、何とぞして、こなたの今一度お目に掛からせらるゝ仕様が、ありさうなものでござるが。
▲シテ「とかく身共は途方に暮れて、分別にあたはぬ。そなた、良い様に了簡をしてくれさしめ。
▲女「されば、何と致いて良うござらうぞ。
▲シテ「何として良からうぞ。
▲女「いゑ。良い事がござる。最前お師匠へ、平六殿の常々懐かしう存じて、今一度お目に掛かりたい、お目に掛かりたいと申されてござると云うて置きましたによつて、こなたは幽霊になつて、今一度お目に掛からせられい。
▲シテ「これは良からうが、某も今まで色々のものになつたが、つひに幽霊になつた事はおりない。
▲女「又、むさとした事を仰せらるゝ。誰しも幽霊になつた者はござらねども、昔語りにも聞き及ばせられたでござらう程に、幽霊らしう取り繕うて、あの風炉の陰から出させられい。
▲シテ「それならば、幽霊らしう取り繕うて、あの風炉の陰から出よう処で、お師匠の、傍へ寄らせられぬ様にしてくれさしめ。
▲女「何が扨、心得ました。早う出させられい。
▲シテ「追つ付け出ようぞ。
《中入》《女、又、泣きながら行く》
▲女「はて。合点の行かぬ事ぢや。
▲師匠「申し申し。何事を仰せらるゝぞ。
▲女「さればその事でござる。只今、平六殿の声が致いた様にござつたと存じて、あれへ参つて見てござれば、人影もさしませぬ。
▲師匠「誠に今、平六の声が致いた様にござつたが。すれば、人影もさしませぬか。
▲女「中々。それについて、妾の存じまするは、最前も申す通り、平六殿の、常々こなたをお懐かしう存ぜられて、今一度お目に掛かりたい、お目に掛かりたいと申されてござるが、こなたのお下りなされたを嬉しう思うて、もし平六殿の幽霊ばし、出ましたものでござらうと存じまする。
▲師匠「すれば、疑ひもない。平六が幽霊でござらう。私も、弟子もあまたござつたが、中にもあの平六は、幼少より取り立てた者でござるによつて、定めて懐かしう存じて、幻に出たものでござらう。
▲女「扨、こなたもお草臥れにはござらうが、又、余の者の回向とも違ひまして、平六殿も悦ばれませう程に、今夜は何とぞ泊まらせられて、夜と共に、後を弔うて下されい。
▲師匠「いかさま。私も遥々下つた事でござるによつて、今夜はこゝ元に泊まりまして、夜もすがら後を弔ひませう程に、鉦鼓があらば貸して下されい。
▲女「心得ました。さらば鉦鼓を上げまする。
▲師匠「これへ下されい。
▲女「心得ました。
▲師匠「扨、念仏は、俗在出家の差別はござらぬと申す程に、夜もすがら念仏を申して、後を弔ひませう。
▲女「それが良うござらう。
▲師匠「こなたもこれへ寄つて、念仏を申させられい。
▲女「心得ました。
▲師匠「《謡》旅人は、鉦鼓を鳴らし女房と。
▲両人「《謡》念仏申し平六が、亡き後いざや弔はん、亡き後いざや弔はん。
▲シテ「《謡》ありがたや。のりの漆のえにしあれば、再び閻浮に帰るなりけり。
▲師匠「不思議やな。平六が姿、影の如くに見えけるは、念仏の功力か。ありがたや。
▲シテ「我、平六が幽霊なるが、御弔ひのありがたさに、これまで顕はれ出でゝ候ふ。
▲師匠「《謡》都にて見し時よりも、面影の。《イロ》衰へ果つる無残さよ。
▲シテ「《イロ》会ふ昔は花漆。《謡》今は年長け蝋色の。
▲師匠「《謡》漆のばちの当たりけるか。《イロ》職のありさま懺悔せよ。
▲シテ「《謡》いでいでさらば、語り申さんと、恥づかしながら餓鬼道の。《打ち切り》
▲地「《謡》恥づかしながら餓鬼道の、ぬしとなつて、青漆の如くなる、淵に臨んで漆漉しに、水を入れて飲まんとすれば、程なく火焔と燃え上がつて、身は焼け漆となりたるぞや、身は焼け漆となりたるぞや。又ある時は布に巻かれ、捩木を入れて、ひたねぢに捩ぢ詰めらるれば、あら心漆刷毛の、ばけ損なはゞいかならんと、風炉の小蔭に入りにけり。塗り込め他行といふ事も、塗籠他行といふ事も、この時よりこそ始まりけれ。
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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