『能狂言』中95 鬼山伏狂言 あさひな

▲閻魔「《次第》《謡》地獄のあるじ、閻魔王。地獄の主、閻魔王。囉斎にいざや出でうよ。
これは、地獄の主、閻魔大王です。当代は、人間が利根になり、八宗九宗に宗体を分け、極楽へぞろりぞろりとぞろめくによつて、地獄の飢死、以ての外な。さるによつて、今日は閻魔王自身、六道の辻に出で、良からう罪人も通らば、地獄へ責め落とさばやと存じ候ふ。《謡》《打ち切り。「や」》
住み馴れし、地獄の里を立ち出でゝ、地獄の里を立ち出でゝ、足に任せて行く程に、足に任せて行く程に、六道の辻に着きにけり。
急ぐ間、六道の辻に着いた。まづこの所に休らひ、良からう罪人も通らば、地獄へ責め落とさうと存ずる。
▲シテ「《一声》《謡》力もやうやう朝比奈は、冥途へとてこそ急ぎけれ。
これは、娑婆に隠れもない、朝比奈の三郎義秀です。我、思はずも、無常の風に誘はれ、只今冥途へ赴く。まづそろりそろりと参らうと存ずる。
▲閻魔「くんくん。いや。良い罪人が来たと見えて、人臭うなつた。どこ元ぢや知らぬ。《互に行き会うて》
いや。これへ良い罪人が来つた。急いで地獄へ責め落とさうと存ずる。《謡》
いかに罪人、急げとこそ。《一段責めて》
▲シテ「やいやい。
▲閻魔「何事ぢや。
▲シテ「某が目の前をちらりちらりとちらめくは、何者ぢや。
▲閻魔「身共をえ知らぬか。
▲シテ「いゝや。何とも知らぬ。
▲閻魔「これは、地獄の主、閻魔大王様ぢやわやい。
▲シテ「何ぢや。地獄の主、閻魔大王ぢや。
▲閻魔「中々。
▲シテ「あら。愛しの体やな。娑婆にて聞いてありしは、地獄の主、閻魔大王こそ、玉の冠を着、石の帯をし、金銀をちりばめ、辺りも輝く体と聞いてありしが、一向さうもおりないよ。
▲閻魔「をゝ。その古へは、玉の冠を着、石の帯をし、金銀をちりばめ、辺りも輝くていであつたが、当代は、人間が利根になり、八宗九宗にしゆうたいを分け、極楽へぞろりぞろりとぞろめくによつて、地獄のがし、以ての外な。さるによつて、今日は閻魔王自身、六道の辻に出、罪人も通らば、地獄へ責め落とさうと思ふ処へ、おのれがきたつた。今ひと責め責めて、地獄へ責め落とすぞ。
▲シテ「をゝ。いか程なりともお責めそへ。
▲閻魔「責めいでは。《謡》
それ、地獄遠きにあらず。極楽遥かなり。いかに罪人、急げとこそ。《又一段責めて》
やいやい。
▲シテ「何事ぢや。
▲閻魔「この閻魔王が、秘術を尽くして責むれども、ゆつすりともせぬ。おのれは何者ぢや。
▲シテ「某をえ知らぬか。
▲閻魔「いゝや。何とも知らぬ。
▲シテ「娑婆に隠れもない、朝比奈の三郎義秀よ。
▲閻魔「何ぢや。朝比奈の三郎義秀ぢや。
▲シテ「中々。
▲閻魔「牛に喰らはれ誑された。朝比奈と聞いたならば、責めまいものを。が、朝比奈と聞いて責めねば、地獄の名折れぢや。今ひと責め責めて、地獄へ責め落とすぞ。
▲シテ「いか程なりともお責めそへ。
▲閻魔「《謡》いかに朝比奈、急げとこそ。《又、一段責めて、竹に取り付きなどして宙返りする》
▲シテ「閻魔王。もそつとお責めそへ。
▲閻魔「もう責めたうない。
▲シテ「もそつとお責めそへと云ふに。
▲閻魔「はて。もう責めたうないと云ふに。
▲シテ「さうもおりやるまい。
▲閻魔「いや。思ひ出いた事がある。やいやい。
▲シテ「何事ぢや。
▲閻魔「この土へ来る程の者に、和田軍の起こりを尋ぬれども、贔屓偏頗で定説が知れぬ。汝、真の朝比奈ならば、和田いくさの起こりを知つて居るであらう。語つて聞かせい。
▲シテ「易い事。語つて聞かさう。床机を持て。
▲閻魔「心得た。《床机に掛かつて》さあさあ。語れ語れ。
▲シテ「退き居ろ。
▲閻魔「何とする。
▲シテ「下に居よ。
▲閻魔「扨々、閻魔王当たりの荒い罪人ぢや。
▲シテ「これを見よ。
▲閻魔「むゝ。生臭い。それは何ぢや。
▲シテ「その時、娑婆で手柄をした道具ぢや。
▲閻魔「をゝ。さう見えて、殊の外生臭い。早う語れ。
▲シテ「《語》そもそも和田軍の起こりを尋ぬるに、荏柄の平太胤長と云つし者、碓氷峠にて君に奪はれ、一度ならず両三度まで、鎌倉を引き渡さるゝ。和田の一門九十三騎、平太が縄目の恥を雪がんとて、親にて候ふ義盛、白髪頭に甲を取つて戴けば、誰かはあつて残るべき。中にも五月二日に、鎌倉の南の門に押し寄せ、一度にどつと鬨を作る。
▲閻魔「ほう。
▲シテ「《語》されば、古郡が、筒抜き下げ切り、数を知らず。かう申す朝比奈が、人飛礫、目を驚かす処に、親にて候ふ義盛、使者を立て、何とて朝比奈には門破らぬぞ。急ぎ破れとありしかば、畏つて候ふとて、やがて馬より飛んでおり、ゆらりゆらりと立ち越ゆる。内よりも、すは朝比奈こそ門破れ。破られては叶はじと、八本の高梁を掛け、大釘・大鎹を打ち抜き打ち抜きしたりしは、只さながら、釼の山の如くにてありしよな。
▲閻魔「ほう。
▲シテ「《語》されども朝比奈、何程の事のあるべきと思ひ、門の扉に手を掛け、さらりさらりと撫づれば、鉄はたちまち湯となつて流れぬる。扨その後、金剛力士の力を出し、門の扉に手を掛け、ゑいやと押せば、内よりもゑいやと抱ふ。ゑいやと押せばゑいやと抱へ、ゑいやゑいやつと云うて押したりしは、大地震の揺るゝ如く、揺らめいてありしよな。
▲閻魔「ほう。
▲シテ「《語》されども、朝比奈が力や優りけん、八本の高梁も折れ、閂扉押し落とし、内なる武者三十騎ばかり、押しに打たれて死したりしは、只さながら、鮨押したる如くにてありしよな。
▲閻魔「ほう。その鮨がひと頬張り、頬張りたいなあ。
▲シテ「をゝ。参らせたうこそ候へ。
▲閻魔「面白い。語れ語れ。
▲シテ「《語》かゝつし処に、御所中の強者に、五十嵐の小文次と云つし者、朝比奈が鐙返さんと、目掛けて掛かる。朝比奈、心に思ふ様、何程の事のあるべきと思ひ、かの小文次を取つて引き寄せ、鞍の前輪に押し付け、左へはきりゝ、右へはきりゝ、きりゝきりゝつと押し廻してありしよな。
▲閻魔「はあ。もう和田軍の話、聞きたうない。
▲シテ「もそつとお聞きそへ。
▲閻魔「はて。聞きたうもないと云うに。
▲シテ「それならば、浄土への道しるべをせい。
▲閻魔「この閻魔王をさへ、したい儘にする朝比奈ぢやものを。おのれが行きたからうかたへ、行かうまでよ。
▲シテ「さう云ふは、道しるべをすまいと云ふ事か。
▲閻魔「おんでもない事。
▲シテ「それは誠か。
▲閻魔「誠ぢや。
▲シテ「真実か。
▲閻魔「一定ぢや。
▲シテ「《謡》朝比奈、腹に据ゑかねて。
▲地「《謡》朝比奈、腹に据ゑかねて、熊手薙鎌かなさい棒を、持たする仲間のなき儘に、閻魔王に閻魔王に、ずつしと持たせて朝比奈は、浄土へとてこそ急ぎけれ。

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

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