『能狂言』中96 鬼山伏狂言 やを

▲アド「《次第》《謡》地獄へ落つる罪人を、地獄へ落つる罪人を、誰かは寄つて堰かうよ。
これは、河内の国、八尾の里の者でござる。我、思はずも、無常の風に誘はれ、只今冥途へ赴きまする。まづそろりそろりと参らうと存ずる。誠に、只今なと身罷らうとは存ぜなんだ。これと存じたならば、後生をも願はうものを、近頃残念な事を致いた。さりながら、八尾のお地蔵より閻魔王へのお文を持つて参るによつて、定めて極楽へ参るでござらう。いや。来る程に、道あまたある所へ参つた。定めて、娑婆で承り及うだ、六道の辻であらう。これは、どの道を行たものであらうぞ。まづ、暫くこの所に休らひ、見はからうて参らうと存ずる。
《座付く。シテ、出づ。次第、名乗り、道行、「朝比奈」同断》
▲シテ「急ぐ間、六道の辻に着いた。いや。罪人が来たと見えて、人臭うなつた。どこ元ぢや知らぬ。
▲アド「いや。この道が良さゝうな。さらば、この道を参らう。
《互に行き会ひ、シテ、杖突き睨む。罪人は、かゞみて震へて居る》
▲シテ「いや。これへ良い罪人が参つた。急いで地獄へ責め落とさう。《謡》
いかに罪人、急げとこそ。
《一段責めて、杖にて突く時、罪人、文を差し付くる。嫌がり、後へすさる。罪人も、元の所へ行く。又、杖にて突く。罪人、又、文を差し出す。後へ下がりて》
やいやい。某が鼻の先へ、によろりによろりと差し出すは、何ぢや。
▲アド「これは、八尾のお地蔵より、閻王へのお文でござる。
▲シテ「何ぢや。八尾の地蔵よりの文ぢや。
▲アド「左様でござる。
▲シテ「をゝ。その古へは、八尾の地蔵の文をも用ゐたれども、当代は人間が利根になり、八宗九しゆうに宗体を分け、極楽へぞろりぞろりとぞろめくにより、地獄の飢死、以ての外な。さるによつて、今日は閻魔王自身、六道の辻に出で、良からう罪人も通らば、地獄へ責め落とさうと思ふ処へ、おのれが来たつた。今ひと責め責めて、地獄へ責め落とすぞ。
▲アド「これは、迷惑にござる。
▲シテ「何の迷惑。《謡》
それ、地獄遠きにあらず。極楽遥かなり。いかに罪人、急げとこそ。
《又、一段責めて、追ひ廻り、アド、初めの如く、文を出して》
やいやい。余りせはしう差し出す程に、見て取らせう。床机を持て。
▲アド「畏つてござる。
はあ。御床机でござる。
▲シテ「これへ出い。
▲アド「心得ました。はあ。お文でござる。
▲シテ「これへおこせ。
▲アド「畏つてござる。
▲シテ「閻もじ参る。地。はゝあ。昔を思ひ出いて書かれた。
汝は、八尾の地蔵よりこの閻魔王へ、文をおこさるゝ仔細を知つて居るか。
▲アド「いゝや。何とも存じませぬ。
▲シテ「あの八尾の地蔵は、古へは美僧であつたによつて、この閻魔王も、ちと知音をしたいやい。
▲アド「さう見えまして、今において、美しうござりまする。
▲シテ「さらば、読うでとらせう。
そもそも、南瞻部洲、河内の国、八尾の地蔵のためには旦那、その名を又五郎と申せし者のためには、この罪人は小舅なり。
すれば、汝は、又五郎がためには小舅か。
▲アド「左様でござる。
▲シテ「へ。又五郎が女房も知れた。悪女であらう。
▲アド「それは、なぜでござる。
▲シテ「はて。おのれが面に似たならば、見目が悪からう。
▲アド「私には似ませいで、殊の外美人でござる。
▲シテ「その様な事もあらう。これからは、ともどもに読まう。これへ寄れ。
▲アド「畏つてござる。
▲シテ「《謡》小舅なり。
▲両人「《謡》我を信じて月詣、仏供を供へ歩みを運べば、我がため一の旦那なり。しかるべくは閻魔王、この罪人を九品の浄土へ送りてたべ。それをそむかば、地獄の釜をも蹴割るべき。あら剛気張つたる罪人かな。
▲アド「《謡》かうけばつたる罪人かな。《打ち切り。「やあ」》
▲シテ「《謡》この上は力なし。《打ち切り。「やあ」》
▲地「《謡》この上は力なしとて、罪人の手を取つて、閻魔王の案内者にて、くほんの浄土へ送り届け、それより地獄に帰りしが、又立ち帰り、さるにても、あら名残惜しの罪人や、あら名残惜しの罪人やとて、鬼は地獄に帰りけり。

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

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