『能狂言』中97 鬼山伏狂言 せつぶん
▲女「妾は、この家の内に住居致す者でござる。これのは今夜、出雲の大社へ年籠りに行かれて、留守でござる程に、背戸門に柊を挿いて、留守を致さうと思ひまする。《柊を挿し、座に着く》
▲シテ「《次第》《謡》節分の夜にもなりぬれば、節分の夜にもなりぬれば、いざ豆拾うて噛まうよ。
これは、蓬莱の島の鬼です。今夜、日本には節分と申して、豆を囃いて年を取ると申すによつて、急ぎにつぽんへ渡り、豆を拾うて噛まばやと存じ候ふ。《打ち切り。「や」》《謡》
蓬莱の、島をば後に見なしつゝ。《打ち切り》島をばあとに見なしつゝ、行く末問へど白雲の、行く末問へど白雲の。《打ち切り》足に任せて行く程に、足に任せて行く程に、日本の地にも着きにけり。
急ぐ間、日本の地に着いた。これはいかな事。俄かに物欲しうなつたが、この辺りに人家はないか知らぬ。いや。つゝとあれに灯の光が見ゆる。さらば、あれへ行て、何ぞ喰ふ物を貰うてたべうと存ずる。いや。来る程に、これぢや。まづ内の体を覗いて見よう。あ痛、あ痛。はあゝ。それそれ。今夜は蓬莱の島より、我ら如きの者が参ると申して、背戸かどへ柊を挿すといふ事をはつたと忘れて、目をしつくりと突いたよな。あら、目ひゝらぎやんや。腹も立つ。かち落といてのけう。これこれ。一段と良い。さらば、案内を乞はう。
物申。案内申。
▲女「これのは今夜、出雲のおほやしろへ年籠りに行かれて留守でござる。用があらば、明日ござれ。
▲シテ「これは、近所の者でござるが、叶はぬ用の事がござる。平にこゝをあけて下されい。
▲女「何ぢや。近所の人ぢや。
▲シテ「中々。
▲女「それならば、あけて進ぜう。さらさらさら。
はて、合点の行かぬ。人影もさゝぬ。定めて、辺りの若い衆のなぶらせらるゝであらう。さらさらさら。ばつたり。
▲シテ「これはいかな事。鼻の先に居る某が見えぬさうな。はあ。それそれ。身共が、この隠れ笠、隠れ蓑を着て居るによつて、それ故見えぬものであらう。さらば、これを脱いで、案内を乞はう。《蓑笠をとつて》
物申。案内申。
▲女「最前も、左様に仰せられたによつて、あけてござれども、誰もござらぬ。定めて又、辺りの若い衆のなぶらせらるゝのでござらう程に、あくる事はなりませぬ。
▲シテ「いやいや。これは、隣の者でござるが、急な用事がござる程に、何とぞこゝをあけて下されい。
▲女「何ぢや。隣の人ぢや。
▲シテ「中々。
▲女「いゑ。それならば、あけて進じませう。さらさらさら。
なう。怖ろしや怖ろしや。いかめな鬼が来た。誰もござらぬか。あの鬼を追ひ出いて下されい。なう。怖ろしや怖ろしや。
《鬼も肝を潰し、一の松へ逃げて》
▲シテ「いや。これこれ。そなたは何が怖ろしいぞ。
▲女「何が怖ろしいと云うて、そちが怖ろしい。
▲シテ「何ぢや。身共が怖ろしい。
▲女「中々。
▲シテ「某は又、他に何ぞ怖ろしいものがあるかと思うて、ともどもよい肝を潰いた。これは、蓬莱の島の鬼というて、さのみ怖ろしいものでも怖いものでもおりない。
▲女「なう。物狂やぶつきやうや。鬼が怖ろしうなうて、何が怖ろしからう。まだそれに居るか。早う出て行けいやい、出て行けいやい。
▲シテ「これこれ。それならば、出て行かう程に、何ぞ喰ふ物をくれさしめ。
▲女「喰ふ物を遣つたらば、出て行くか。
▲シテ「をゝ。中々。出て行かう。
▲女「それならば、遣らう。さあさあ。これを遣る程に、出て行かしめ。
▲シテ「これへくれさしめ。
▲女「さらさらさら。
▲シテ「あ痛。あ痛。これは何ぢや。
▲女「三宝の親の荒麦よ。
▲シテ「何ぢや。三宝の親の荒麦ぢや。
▲女「中々。
▲シテ「鬼の心は荒麦の、鬼の心は荒麦の、喰ふ物とは知つたれど、調ずる事のならざれば、ただ捨てい。
▲女「ゑゝ{*1}。あの罰当りめが。
▲シテ「何ぢや。罰当りぢや。
▲女「中々。
▲シテ「罰当りならば、かきさがいてのけう。
▲女「なう。腹立ちや腹立ちや。誰もござらぬか。あの鬼を追ひ出いて下されい。なう。腹立ちや腹立ちや。
▲シテ「《謡》あら、美しの女房や。漢の楊貴妃、李夫人、小野の小町は見ねば知らねども、あれ程美しき女房もありけるぞや。あら、ほそたへがたやんや。あの島先におりやればこそ、負うては隠れ渡らん、そのやさきに、お手を掛くるでもなし。あら、おいらいらしや。お軽忽やの。
▲女「ゑゝ。腹立ちや。又、これへ来た。誰そ、この鬼を追ひ出いて下されいの。打ち出いて下されいの。なう。怖ろしや怖ろしや。
▲シテ「これこれ。そなたは、この内にひとり居るか、二人居るか。
▲女「一人居ようとふたり居ようと、聞いての用は。
▲シテ「一人居るならば、淋しからう程に、某が伽をしてやらうといふ事ぢや。
▲女「なう。腹立ちや。鬼に伽をして貰はずと良い。又、これへ来たか。早う出て行けいやい、出て行けいやい。
▲シテ「《謡》なんぼうさきの夜、なんぼうさきの夜、忍ぶ小切戸がきりゝと鳴る程に、誰そよと思うて走り出て見たれば、北風の山嵐めが吹き来て扉に当たり、たをやしや。和御料と思うたりや。ぬしな、縁なやの。
▲女「ゑゝ。腹立ちや腹立ちや。誰もござらぬか。この鬼を早う追ひ出いて下されい。なう。腹立ちや腹立ちや。
▲シテ「これこれ。そなたは毛抜きは持たぬか。
▲女「毛抜きを聞いて、何にするぞ。
▲シテ「そなたの眉が、余り伸びたによつて、毛抜きがあらば、抜いてやらうといふ事よ。
▲女「なう。腹立ちや。鬼に眉を抜いて貰はずと良い。又、これへ来たか。早う出て行けいやい、出て行けいやい。
▲シテ「《謡》来うか小次郎、来まいか小次郎、いひ切れ小次郎。門さゝうに、かどさゝうに。さすならさゝい、さすならさゝい。藪から道はないものか、ないものか。
▲女「なう。腹立ちや。又、これへ来た。早う出て行けいやい、出て行けいやい。
▲シテ「太刀佩いたも憎いが、小太刀はいたも憎いが、殿弓かたげたも憎いが、えんでこそ候はめ。ばいどらばいどら、かたげたはいとし。
▲女「ゑゝ。腹立ちや。又、これへ来たか。誰もござらぬか。この鬼を追ひ出いて下されい。なう。怖ろしや怖ろしや。
▲シテ「《謡》十七八は、棹に干いた細布。取りよりや、いとし。手繰りよりや、いとし。糸より細い腰を締むれば、い、たんと尚いとし。《腰へ抱き付く》
▲女「ゑゝ。腹立ちやの、腹立ちやの。妾を女ぢやと思うて、色々の事をする。たそ、ござらぬか。早う外へ追ひ出いて下されい。なう。腹立ちや腹立ちや。{*2}
▲シテ「《突き倒されて》《謡》しめじめと降る雨も、西が晴るればやむものを。何とてか、我が恋の晴れやる方のなきやらん。
《鬼、泣くを、女、見て》
▲女「これはいかな事。あの鬼は、誠に妾を思ふと見えた。誑いて、宝物を取らうと存ずる。《謡》
いかにやいかに、鬼殿よ。誠、妾を思ひなば、宝を我にたび給へ。
▲シテ「《謡》易き間の御所望なり。
▲女「はあ。そなたも悪うはほけぬよの。
▲シテ「《謡》易き間の御所望なり。
蓬莱の島なる、蓬莱の島なる、おれが持つ宝は、隠れ蓑に隠れ笠、打出の小槌。諸量無量常無量、諸量無量常無量。月氏国にくわつたりと、そなたへおますぞ。
▲女「これは近頃、忝うござる。
▲シテ「さあさあ。これからは、某が儘ぢや。これへ寄つて、腰を打つてくれさしめ。はあゝ。殊の外草臥れた。やつとな。《と云うて寝る》
▲女「やうやう時分も良うござる程に、豆を囃さうと存ずる。
福は内へ、福は内へ、福は内へ。鬼は外へ。
▲シテ「何とするぞ。
▲女「鬼は外へ。
▲シテ「何とするぞ。
▲女「鬼は外へ、鬼は外へ、鬼は外へ、鬼は外へ。
▲シテ「あゝ。許いてくれい、許いてくれい、許いてくれい。
校訂者注
1:底本は、「エゝ。」。
2:底本は、「腹立ちや(二字以上の繰り返し記号)。《つきたをされて、》▲シテ「《謡》」。
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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