『能狂言』中98 鬼山伏狂言 くびゞき

▲為朝「これは、鎮西のゆかりの者でござる。某、訴訟の事あつて、久々西国へ下つてござるが、この度、訴訟も思ひの儘に叶うてござるによつて、都へ上らうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、故郷忘じがたしとは、良う申したものでござる。定めて都でも、この様な事は知らいで、今日か明日かと待つて居るでござらう。いや。何かと申す内に、これは渺々とした広い野へ出た。これは、何といふ野ぢや知らぬ。をゝ。それそれ。これは定めて、播磨の印南野であらう。はあ。俄かに空が曇り、山が鳴る。この様な所に長居は無用。急いで里近くへ参らうと存ずる。
▲シテ「いで。喰らはう、喰らはう、喰らはう。
▲為朝「あゝ。許いて下されい、許いて下されい、許いて下されい。
▲シテ「いで。喰らはう。あゝ。
▲為朝「真つ平許いて下されい。
▲シテ「やいやいやい。そこなやつ。
▲為朝「はあ。
▲シテ「おのれは憎いやつの。こゝは、播磨のいなみのと云うて、七つ下がつて人の通らぬ所へ来たは、定めて武辺立てゞあらう。頭からひと口に、いで、喰らはう。あゝ。
▲為朝「武辺立てゞはござらぬ。真つ平命を助けて下されい。
▲シテ「真実、命が助かりたいか。
▲為朝「中々。命が助かりたうござる。
▲シテ「その儀ならば、まづ、それに待て。
▲為朝「畏つてござる。
▲シテ「いや。あれへ参つたは、一段と良い若い者でござる。それにつき、姫をいち人持つてござる。いまだ喰ひ初めを致させぬ程に、喰ひ初めに姫に喰はせうと存ずる。
やい。聞くか。
▲為朝「はあ。
▲シテ「身共は、姫をいち人持つて居るが、まだ喰ひ初めをさせぬ。おのれを喰ひ初めにさせうと思うが、姫に喰はれうか。身共に喰はれうか。
▲為朝「はあ。とても助からぬ命ならば、御娘子に喰はれませう。
▲シテ「何ぢや。姫に喰はれう。
▲為朝「中々。
▲シテ「一段と良う云うた。その儀ならば、今、姫を呼び出す程に、そこを一寸でも動くな。
▲為朝「動く事ではござらぬ。
▲シテ「いや。なうなう。姫。おりやるか。居さしますか。
▲女「とゝ様。妾を呼ばせらるゝは、何事でござるぞ。
▲シテ「そなたを呼び出すも、別なる事でもおりない。今日、良い若い者が一人来た。そなたに喰ひ初めをさせうと思うて、則ち留めて置いた程に、あれへ行て喰はしめ。
▲女「なうなう。それは嬉しい事でござる。どれに居まするぞ。
▲シテ「則ち、あれに居る程に、早う行て喰はしめ。
▲女「心得ました。
いや。申し申し。とゝ様。
▲シテ「何事ぢや。
▲女「見れば、良い若い者でござる程に、命を助けてやらせられい。
▲シテ「こゝな者は、むさとした事を云ふ。良い若い者ぢやによつて、喰ひ初めに喰はする。その様な事を云はずとも、早う行て喰はしめ。
▲女「それならば、たべませうが、妾はつひに、生きた者を喰うた事がござらぬ程に、とゝ様、噛み砕いて下されい。
▲シテ「扨々、そちは身共が娘程にもない、卑怯な事を云ふ。それでは喰ひ初めの詮がない。どれからなりとも噛み付いて喰はしめ。
▲女「その儀ならば、噛み付いてたべませう。
《傍へ寄るを、扇で叩く》
▲女「あゝ痛、あゝ痛、あゝ痛。
▲シテ「やいやい。姫。何としたぞ、何としたぞ。
▲女「妾をしたゝかに叩きましてござる。
▲シテ「何ぢや。叩いた。
▲女「中々。
▲シテ「扨々、憎いやつの。
やい。そこなやつ。
▲為朝「はあ。
▲シテ「大切な姫を、なぜに叩いたぞ。
▲為朝「さればその事でござる。余り上気致いて暑うござつたによつて、扇使ひを致いてござるが、もし、それが当たつたものでござらう。
▲シテ「何ぢや。扇使ひをした。
▲為朝「中々。
▲シテ「それならば、堪忍をして取らせう。
いや。なうなう。姫。今、扇使ひをしたが、それが当たつたものであらうと云ふ。怖い事はない程に、あれへ行て喰はしめ。
▲女「それならば、たべませう。
《又、傍へ寄ると、すはぶきをする》
なう。怖ろしや、怖ろしや。
▲シテ「これこれ。何としたぞ。
▲女「したゝかに叱りました。
▲シテ「扨々、憎いやつぢや。
やい。なぜにしたゝかに叱り居つた。
▲為朝「この間、私は咳気にござつて、時ならずゝはぶきが出まするが、それにおぢさせられたものでござらう。
▲シテ「何ぢや。すはぶきをした。
▲為朝「中々。
▲シテ「やいやい。姫。扨々、そちはむさとした者ぢや。今、きやつがすはぶきをしたと云ふ。すはぶきなどにおづるといふ事があるものか。さあさあ。早う行て喰はしめ。
▲女「心得ました。
▲為朝「いや。申し申し。
▲シテ「何事ぢや。
▲為朝「鬼神に横道なしといふ事がござる。私も、只喰はるゝも、残念な事でござる。何とぞ勝負を致いて、負けたならば喰はれませう。又、勝つたならば、命を助けて下されい。
▲シテ「これは、尤ぢや。扨、勝負には何をするぞ。
▲為朝「腕押しを致しませう。
▲シテ「何ぢや。腕押し。
▲為朝「中々。
▲シテ「いゑ。身共が得物ぢや。一番参らう。
▲為朝「いゑ。こなたに喰はれまするならば、こなたと致しませうが、お娘子に喰はれまするによつて、お娘子と勝負を致しませう。
▲シテ「これは、尤ぢや。その通り、姫に云はう。それに待て。
▲為朝「心得ました。
▲シテ「やいやい。姫。只喰はるゝも、残念な事ぢやによつて、何ぞ勝負をして、勝ち負けによつて喰はれうと云ふ程に、勝負には何をするぞと問うたれば、腕押しをせうと云ふ程に、あれへ出て、腕押しをさしめ。
▲女「妾は嫌でござる。
▲シテ「これはいかな事。その様な事があるものか。早う出て、腕押しをさしめ。
▲女「それならば、致しませう。
《腕押しをして、強く押し付くる》
▲女「あゝ痛、あゝ痛、あゝ痛。
▲シテ「やいやい。姫。何としたぞ、何としたぞ。
▲女「妾がこの柔らかな手を、あのむくつけな手で、すりつけましてござる。
▲シテ「扨々、憎いやつぢや。
やいやいやい。そこなやつ。
▲為朝「はあ。
▲シテ「なぜに姫が柔らかな手を、おのれがむくつけな手で、すりつけたぞ。
▲為朝「こなたも、よう思し召しても見させられい。命がけの勝負でござるによつて、ちと強う当たるまいものでもござらぬ。
▲シテ「扨、今度は何をするぞ。
▲為朝「すね押しを致しませう。
▲シテ「一段と良からう。
やいやい。姫。今度はすね押しをせうと云ふ程に、又、あれへ出て、すね押しをさしめ。
▲女「心得ました。
《又、強くすり付くる》
▲女「あゝ痛、あゝ痛、あゝ痛。
▲シテ「やいやい。姫。何としたぞ、何としたぞ。
▲女「申し申し。とゝ様。妾がこの柔らかな腿へ、あの怖ろしい毛の生えた足を入れて、又したゝかにすり付けましてござる。
▲シテ「扨々、憎いやつぢや。
やい。おのれは憎いやつの。なぜに強うすりつけたぞ。
▲為朝「最前も申す通り、命がけでござるによつて、ちと強う当たる事もござらう。
▲シテ「今度は必ず、強う当たらぬ様にせい。
▲為朝「畏つてござる。
▲シテ「扨又、何をするぞ。
▲為朝「今度は首引きを致しませう。
▲シテ「これは一段と良からう。
なうなう。姫。今度は首引きをせうと云ふ。又、あれへ御出やれ。
▲女「心得ました。
▲シテ「さあさあ。この綱を、汝が首へ掛けい。
▲為朝「畏つてござる。
▲シテ「さあさあ。姫。これを首に掛けい。
▲女「心得ました。
▲シテ「さあ。引け。
▲為女「やあ。
▲シテ「これはいかな事。とても、姫一人ではなるまい。
今、眷属どもを呼び出し、姫が加勢をさする程に、暫く待て。
▲為朝「畏つてござる。
▲シテ「眷属ども、眷属ども。
▲数鬼「ほゝい、ほゝい、ほゝい、ほゝい。
▲シテ「汝らを呼び出す事、別なる事でもない。姫が首引きをするが、姫がかたが弱い程に、汝ら、加勢をせい。
▲数鬼「畏つてござる。
▲シテ「さあさあ。皆、これへ取り付け。
▲数鬼「心得ました。
▲シテ「扨、これからは、某が音頭を取らう程に、拍子に掛かつて引け。
▲女鬼「心得ました。
▲シテ「ゑいさら、ゑいさら。
▲為女鬼「ゑいさら、ゑいさら。
▲シテ「姫がかたは弱いぞ。引けや、引けや。鬼ども。
▲為女鬼「ゑいさら、ゑいさら。
▲シテ「引けや、引けや。鬼ども。精を出せ。鬼ども。
▲為女鬼「ゑいさら、ゑいさら、ゑいさら。
▲シテ「姫が方は弱いぞ。引けや、引けや。鬼ども。
▲為女鬼「ゑいさら、ゑいさら、ゑいさら。
《為朝、後じさりに引いて廻る。シテ、綱に手を掛くる時は、扇にて叩く。シテ柱の元へ引いて来て、「ゑいゑい、をゝ」と云うて、為朝、首の綱を外して放す。姫、その他、鬼、皆あふのけに転ぶ》
▲シテ「いで。喰らはう、喰らはう、喰らはう。
《と云うて、追ひ込む》

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

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