『能狂言』中99 鬼山伏狂言 おにのまゝこ

▲女「妾は、この辺りに住居致す者でござる。山一つあなたに親里を持つてござるが、久しう便りも承らぬによつて、今日は見舞ひに参らうと思ひまする。まづそろりそろりと参らう。誠に、親里が程遠うござるによつて、暇のない身の悲しさは、再々見舞ひに参る事もならいで、心元なう思ひまするが、とゝ様かゝ様にも、変らせらるゝ事はないでござろう。いや。何かと申す内に、これは早、いつもの野へ出ました。こゝ元は、播磨の印南野と申して、つゝと人遠い恐ろしい所でござる。急いで里近くへ参らうと思ひまする。妾も人を連れて参りたうはござつたが、皆忙しうござる。又、暇になるを待てば、余り遅うなりまするによつて、今日は、いち人参る事でござる。
▲シテ「いで、喰らはう、喰らはう、喰らはう。
▲女「あゝ。悲しや悲しや。真つ平命を助けて下されい。
《一遍追ひ廻りて》
▲シテ「いで、喰らはう。あゝ。
▲女「真つ平命をお助けなされて下されい。
▲シテ「やいやいやい。そこな奴。
▲女「はあ。
▲シテ「おのれは憎い奴の。こゝはいなみのと云うて、七つ下がつては男さへ通らぬ所を、殊に女の身として一人通るといふは、定めて武辺立てゞあらう。頭から一口に、いで、喰らはう。あゝ。
▲女「あゝ。構へて武辺立てゞはござらぬ。真つ平命を助けて下されい。
▲シテ「むゝ。見れば、何やら懐へ入れて居るが、それは何ぢや。
▲女「これは、妾が幼いでござる。
▲シテ「何ぢや。そちが子ぢや。
▲女「中々。
▲シテ「それならば、まづその子から喰うて仕舞はう。
▲女「妾は喰はるゝとも、この子をば助けて下されい。
▲シテ「何ぢや。助けてくれい。
▲女「中々。
▲シテ「まづ、それに待て。
▲女「心得ました。
▲シテ「扨も扨も、美しい女かな。あの様な眉目の良い女を喰うて仕舞ふは、惜しい事ぢや。何とぞ誑いて、某が妻に致さうと存ずる。
やいやい。そちは夫があるか。
▲女「中々。ござりまする。
▲シテ「おのれは憎い奴の。夫があらば、この野を汝ひとりやるものか。おのれ、偽りを云ひ居るな。
▲女「何しに偽りを申すものでござるぞ。よう思うても見させられい。夫があればこそ、この様な幼いを持つてござる。
▲シテ「これは身共が誤つた。扨、汝は真実、命が助かりたいか。
▲女「中々。助かりたうござる。
▲シテ「命が助かりたくば、この鬼の云ふ事を聞くか。
▲女「何なりとも承りませう。
▲シテ「身共は、恥づかしい事なれども、未だ定まる妻がないによつて、汝を連れて行て、某が妻にする程に、さう心得い。
▲女「なう。物狂やぶつきやうや。いかに命が助かりたいと云うて、夫ありながら、何とこなたの妻にならるゝものでござるぞ。これはなりませぬ。
▲シテ「おのれは憎い奴の。そのつれを云うて、妻にならずば、まづその子から、いで、喰らはう。あゝ。
▲女「あゝ。妻になりませう。真つ平命を助けて下されい。
▲シテ「何ぢや。妻にならう。
▲女「中々。
▲シテ「をゝ。良い合点ぢや。それならば、すぐに蓬莱の島へ連れて行て、思ふ儘に暮らしをさせうぞ。
▲女「それは嬉しうござる。扨、蓬莱の島とやらへ参るならば、この体ではいかゞでござる。ちと取り繕うて参りたうござる。その間、この子の守りをして下されい。
▲シテ「何が扨、易い事ぢや。これへおこさしめ。守りをしてやらう。
▲女「さあさあ。進じまする。
▲シテ「心得た。扨も扨も、愛らしい子かな。この恐ろしい某が面を見て、驚きもせず、にこにこと笑うて居る。扨、何ぞ芸はないか。はあゝ。何やらつぶりを振るが、あれは、何とした事ぢや。
▲女「それは、かぶりかぶりと申す芸でござる。
▲シテ「何ぢや。かぶりかぶりといふ芸ぢや。
▲女「中々。
▲シテ「さあさあ。そのかぶりかぶりが見たい。をゝ。かぶりかぶりかぶり。《笑うて》もうないか。はあ。今度は手を打つ様な事をするが、あれも芸か。
▲女「それは、手打ち手打ちと申す事でござる。
▲シテ「何ぢや。手打ち手打ちゞや。
▲女「中々。
▲シテ「その手打ち手打ちを見たい。をゝ。手打ち手打ち手打ち手打ち。《笑うて》扨々、愛らしい子かな。一口に喰うて仕舞ひたい。
▲女「あゝ。悲しや。その子故にこそ、こなたの妻にもなりますれ。その様な事をなさるゝならば、もはや蓬莱の島へ参りますまい。
▲シテ「これは戯れ事。身共がためにも継子ぢやものを、何として喰ふものぢや。扨、もはや芸はないか。はあ。今度はうなづくが、あれは何といふ事でおりやる。
▲女「それは、合点合点と申す事でござる。
▲シテ「をゝ。合点合点合点。《笑うて》もうないか。あゝ。今度は手を握る様な事をするが、これも芸か。
▲女「それは、にぎにぎと申す芸でござる。
▲シテ「をゝ。にぎにぎにぎ。《笑うて》扨も扨も、そちは殊の外の芸者ぢや。今一度、かぶりかぶりが見たい。をゝ。かぶりかぶりかぶり。《笑うて》扨も扨も、愛らしい事ぢや。
▲女「申し申し。身拵へも良うござる。
▲シテ「何と良うおりやるか。
▲女「中々。
▲シテ「扨、これからすぐに蓬莱の島へ連れて行かうが、かりそめながら祝言ぢやによつて、とてもの事に囃子物で参らう。
▲女「それが良うござらう。
《子を肩へ乗せて》
▲シテ「《囃子物》鬼の継子を肩に乗せて、乗せて乗せて、蓬莱の島へ参らう参らう。《二三遍も返して、せり足》
もはや堪忍ならぬ。頭から呑うで仕舞はう。
▲女「あゝ。悲しや。こちへおこさしめ。なう。恐ろしや恐ろしや。
▲シテ「やい。誑された。いで、喰らはう、喰らはう、喰らはう。《と云うて、追ひ込む》

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

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