『能狂言』中100 鬼山伏狂言 しみづ
▲主「これは、この辺りに住居致す者でござる。天下治まりめでたい御代でござれば、この間のあなたこなたの御茶の湯は、夥しい事でござる。それにつき、某も明日は。いづれもを御茶で申し入れうと存ずる。まづ、太郎冠者を呼び出いて、談合致す事がござる。《常の如く呼び出して》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。《名乗りの如く云うて》御茶の湯は、何と夥しい事ではないか。
▲シテ「御意の通り、夥しい事でござる。
▲主「それにつき、明日は、いづれもを御茶で申し入るゝが、茶は水が詮ぢやと云ふが、どこ元の水が良いと聞いた。
▲シテ「まづ、私の承つてござるは、柳の水、醒が井の水とは申せども、取り分き、野中の清水がいち良いと申しまする。
▲主「某もさう聞いた。汝は太儀ながら、今から清水へ行て。水を汲んで来い。
▲シテ「畏つてはござれども、七つ下がつて清水へ参れば、がごじとやらがづると申しまする。これは御免なされて下されい。
▲主「こゝな者は、むさとした。それは、子供誑しなどに云ふ事ぢや。まづ、それに待て。
▲シテ「心得ました。
▲主「やいやい。これは、身共が秘蔵の桶なれども、そちが行くによつて、これをやる。早う汲んで来い。
▲シテ「その儀でござらば、畏つてござる。
▲主「早う戻れ。
▲シテ「はあ。
▲主「ゑい。
▲シテ「はあ。
これはいかな事。参りともない事を仰せ付けられた。只今参る分は苦しうござらぬが、御客のある度に参らうならば、迷惑な事でござる。何と致さう。いや。思ひ出いた。致し様がある。《太鼓座へ桶を置いて》
なう、悲しや。助けて下されい。あゝ。悲しや、悲しや、悲しや、悲しや。
▲主「いや。太郎冠者が声で、何やらわつぱと申す。何としたか知らぬ。
やいやい。何としたぞ。
▲シテ「真つ平命を助けて下されい。
▲主「これはいかな事。身共ぢやが、何としたぞ。
▲シテ「や。頼うだ人でござるか。
▲主「中々。何とした。
▲シテ「後から誰も追うては参りませぬか。
▲主「いや。誰も追うては来ぬが。まづ、何としたぞ。
▲シテ「扨々、危ない目に出合ひました。清水へ参つて、水を汲まうと存じて、上の青緑をかきのけてござれば、後ろの山が、どゞどゞと致しましたによつて、何事ぞと存じて振り返つて見てござれば、申し。いかめな鬼が出ましてござる。
▲主「扨々、それは危ない事であつた。扨、何とした。
▲シテ「七つ下がつて人の来ぬ所へ来たは、定めて武辺立てゞあらう。頭から一口に、いで、喰らはう。あゝ。と申しましたによつて、今喰はるゝか、今喰はるゝかと存じて、やうやうこれまで逃げて参りましてござる。こなたは、太郎冠者をいち人、拾はせられたと申すものでござる。
▲主「扨々、それは危ない事ぢや。扨、桶は何としたぞ。
▲シテ「桶の。
▲主「中々。
▲シテ「余り鬼が険しう追ひ駈けまするによつて、振り返つて、鬼の面と存ずる所へほうど打ち付けて、後をも見ずして逃げて参りましたが、後でばりゝばりゝと致いてござる程に、定めて桶は噛み破つたものでござらう。
▲主「こゝなやつは、むさとした。あれは、某が秘蔵の桶で、汝一人や二人に替へらるゝ桶ではないゝやい。
▲シテ「それは、お情けない事を仰せらるゝ。あの桶は、求めさせられたらばござらうが、この太郎冠者は、又とふたりはござるまい。
▲主「まだそのつれな事を云ふ。某は、どうあつても桶が欲しい。行て取つて参らう。
▲シテ「いや。申し。鬼のづるは定でござる。
▲主「そこをのけ。
▲シテ「御無用でござる。
▲主「何の御無用。そこをのけと云ふに。
▲シテ「これはいかな事。清水へ行かれても、鬼は出まいが。何と致さう。いや、こゝに風流のおもてがござる。これを掛けて嚇さうと存ずる。
▲主「扨々、合点の行かぬ事でござる。今まであの清水へ鬼のづると申す事は承らぬが。何とも合点の行かぬ事でござる。まづ、急いで参らう。定めてあれへ参つたならば、様子の知れぬ事はござるまい。いや。参る程に、清水ぢや。
▲シテ「いで、喰らはう、喰らはう、喰らはう、喰らはう。
▲主「あゝ。許いてくれい、許いてくれい、許いてくれい、許いてくれい。
《一遍追ひ廻りて、脇座へかゞむ》
▲シテ「いで、喰らはう。あゝ。
やいやいやい。そこなやつ。
▲主「はあ。
▲シテ「おのれは憎いやつの。七つ下がつて人の来ぬ所へ来た。定めて武辺立てゞあらう。頭から一口に、いで、喰らはう。あゝ。
▲主「真つ平命を助けて下されい。
▲シテ「命が助かりたいか。
▲主「中々。助かりたうござる。
▲シテ「命が助かりたくば、この鬼の云ふ事を聞くか。
▲主「何なりとも承りませう。
▲シテ「第一、おのれは人使ひが悪い。
▲主「いや。人使ひは良うござる。
▲シテ「身共が良う知つて居る。一人使ふ太郎冠者を、取り立てゝはやらいで、夏、蚊屋を釣らさぬとな。
▲主「いや。釣らせまする。
▲シテ「身共が良う知つて居る。向後、蚊屋を釣らせうか。釣らすまいか。
▲主「釣らせませう、釣らせませう。
▲シテ「おのれ、釣らさぬにおいては、頭から一口に、いで、喰らはう。あゝ。
▲主「あゝ。釣らせませう、釣らせませう。
▲シテ「まだある。
▲主「まだござるか。
▲シテ「あの太郎冠者は、御酒が一つなるいやい。
▲主「はあ。
▲シテ「夏ならば冷し済まし、又、冬ならば燗をし済まいて、あれが嫌と云ふ程呑まさうか、呑ますまいか。
▲主「呑ませませう、呑ませませう。
▲シテ「呑まさぬにおいては、頭から一口に、いで、喰らはう。あゝ。
▲主「あゝ。呑ませませう、呑ませませう。
▲シテ「何ぢや。呑まさう。
▲主「中々。
▲シテ「それならば、命を助けてやる。この鬼の行くかたを見るな。
▲主「見る事ではござりませぬ。
▲シテ「見たならば、頭から一口に、いで、喰らはう。あゝ。
▲主「あゝ。見る事ではござらぬ。
▲シテ「見るな。
▲主「見はせぬ。
▲シテ「見るな。
▲主「見はせぬ。
《と云うて、見る》
▲シテ「そりや。見居つたわ。おのれ。頭からひと口に、いで、喰らはう。あゝ。
▲主「あゝ。見はせぬ、見はせぬ。
▲シテ「見るなと云ふに。
▲主「見はせぬ。
▲シテ「見るな。
▲主「見はせぬ。
▲シテ「見るな、見るな、見るな。《と云うて、太鼓座へ入り、面をぬぎて》
知らぬ体で迎ひに参らうと存ずる。頼うだ人は、何となされたか知らぬ。
▲主「扨々、怖ろしい目に遇うてござる。まづ、急いで罷り帰らうと存ずる。
いゑ。太郎冠者。
▲シテ「ゑい。頼うだ人。
▲主「汝はどれへ行くぞ。
▲シテ「こなたが遅うござるによつて、迎ひに参つた。
▲主「いらぬ迎ひの。先へ戻れ。
▲シテ「いや。こなたは殊の外、御色が悪うござるが、何ぞに会ひはなされぬか。
▲主「こゝな者は。諸侍が、物に遇うたと云うて、色の変ずるといふ事があるものか。
▲シテ「な隠させられそ。これに塵が付いて居りまする。
▲主「すれば、色の悪しいが定か。
▲シテ「中々。真実でござる。
▲主「辺りに人は居らぬか。
▲シテ「いやいや。辺りに誰も見えませぬ。
▲主「それならば、云うて聞かさう。清水へ行たれば、いかめな鬼が出てな。
▲シテ「それ見させられい。鬼のづるは、定でござる。
▲主「それについて、清水の鬼は、汝が事を贔屓したが、そちが親類に鬼はないか。
▲シテ「いとこ鬼とやら、はとこ鬼とやらがあると申しまする。
▲主「なう。恐ろしや。鬼の親類を置く事はならぬ。出てうせいやい、出てうせいやい。
▲シテ「あゝ。申し申し。それは、つゝと古への事でござる。
▲主「何ぢや。古への事ぢや。
▲シテ「中々。
▲主「それならば、良い。扨、汝が清水へ行た時、鬼は何と云うた。
▲シテ「七つ下がつて人の来ぬ所へ来居つた。定めて武辺立てゞあらう。頭から一口に、いで、喰らはう。あゝ。と申しました。
▲主「さう云うたか。
▲シテ「中々。
▲主「まづ、それに待て。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「これはいかな事。清水の鬼の声と、太郎冠者が声とが、一つでござる。何とも合点の行かぬ事でござる。誑いて、今一度承らうと存ずる。
やいやい。汝が清水へ行た時、鬼は何と云うたぞ。
▲シテ「何とも申しませなんだ。
▲主「何とも云はぬといふ事はない。今一度云うて聞かせい。
▲シテ「七つ下がつて人の来ぬ所へ来た程に、頭から一口に、いで、喰らはう。と申しました。
▲主「いやいや。さうではない。最前の様に云へ。
▲シテ「《張らずに云ふ》七つ下がつて人の来ぬ所へ来た程に、頭から一口に、いで、喰らはう。あゝ。と申しました。
▲主「いやいや。さうでもない。最前の様に、きほひ掛かつて云へ。
▲シテ「競ひ掛かつての。
▲主「中々。
▲シテ「七つ下がつて人の来ぬ所へ来た程に、頭から一口に、いで、喰らはう。あゝ。と申しました。
▲主「さう云うたか。
▲シテ「中々。
▲主「身共はどうあつても、桶が欲しい。行て取つて参らう。
▲シテ「扨は、こなたの事でござる。
▲主「こなたの事とは。
▲シテ「一度の懲りせで、二度の死をすると申す。御無用でござる。
▲主「何の御無用。そこをのけ。
▲シテ「御無用でござる。
▲主「そこをのけと云ふに。
▲シテ「これはいかな事。又、嚇さずばなるまい。
▲主「扨々、合点の行かぬ事でござる。清水の鬼の声と、太郎冠者が声とが、一つでござる。今一度あれへ参つたならば、様子の知れぬと申す事はござるまい。いや。参る程に、清水ぢや。
▲シテ「いで、喰らはう、喰らはう、喰らはう。
▲主「あゝ。許いてくれい、許いてくれい、許いてくれい。《と云ひながら逃げて、振り返り、面を取つて》
おのれは、太郎冠者ではないか。
▲シテ「いで。喰らはう。
▲主「何の、いで喰らはう。あの横着者。どれへ行くぞ。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞやるまいぞ。
▲シテ「許させられい、許させられい、許させられい。
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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