『能狂言』中101 鬼山伏狂言 ぬけがら

▲主「これは、この辺りに住居致す者でござる。この間は、久しうかの人の方へ便りを致しませぬ。今日は、太郎冠者を使ひに遣はさうと存ずる。まづ呼び出いて申し付けう。《常の如く呼び出し》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。この間は、久しうかの人のかたへ便りをせぬによつて、今日は大儀ながら行てくれい。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「行て云はうは、この間は久しう便りをも承らぬが、変らせらるゝ事もござらぬか。あまり遠々しうござるによつて、太郎冠者を遣はしますると云うてくれい。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「早う戻れ。
▲シテ「心得ました。
▲主「ゑい。
▲シテ「はあ。
これはいかな事。かの人の方へお使ひに行けと仰せ付けられた。いつも、かの人の方へお使ひに参る時分は、御酒を下さるゝが、今日はなぜに下されぬ事ぢや知らぬ。定めて忘れさせられたものであらう。立ち戻つて、気を付けて見ようと存ずる。
申し、頼うだ人。ござりまするか。
▲主「汝はまだ行かぬか。
▲シテ「かう参りまするが、何と、お文でも遣はされませぬか。
▲主「いやいや。そちを遣るによつて、文をば遣らぬ程に、文程に云うてくれい。
▲シテ「すれば、お文は遣はされませぬの。
▲主「中々。
▲シテ「それならば、かう参りませう。
▲主「早う行け。
▲シテ「はあ。
▲シテ「ゑい。
▲主「はあ。
これはいかな事。まだ思ひ出されぬ。何と致さう。はあ。それそれ。一度ばかり、ごしゆをたべぬと申して、苦しうない事ぢや。さらばまづ、お使ひに参らう。が、とかく人といふものは、この様な事をば、得て例にしたがるものぢや。これが例になつては迷惑な。今一度戻つて、思ひ出さるゝ様に申さうと存ずる。
申し、ござるか。ござりまするか。
▲主「誰ぢや。
▲シテ「私でござる。
▲主「汝はまだ行かぬか。
▲シテ「いや。かう参りまするが、いつも私が参つた後で、あれを忘れたの、これを忘れたのと仰せられまするが、今日は何も、忘れさせられた事はござらぬか。
▲主「いやいや。今日に限つて、何も忘れた事はない。
▲シテ「いやいや。何ぞ忘れさせられた事がござらう程に、篤と思ひ出いて見させられい。
▲主「いやいや。今日に限つては、何も忘れた事はないが。はあゝ。ちと忘れた事があるいやい。
▲シテ「それそれ。それ、ごらうぜられい。
▲主「まづ、それに待て。
▲シテ「心得ました。
▲主「これはいかな事。最前から太郎冠者が、再々小戻りを致すを、何とも合点の行かぬ事ぢやと存じてござれば、いつも、かの人の方へ使ひに遣はす時分は、酒をたべさせまするが、今日は失念致いて呑ませませぬによつて、小戻りを致すと見えた。一つたべさせて遣はさうと存ずる。《腰桶の蓋持ち、扇子開きて》
やいやい。太郎冠者。近頃、面目もない事があるわ。
▲シテ「それは又、いかやうな事でござるぞ。
▲主「いつも酒を呑ませて遣るを、はつたと忘れた。一つ呑うで行け。
▲シテ「はあ。忘れさせられたと申すは、その事でござるか。
▲主「中々。
▲シテ「私は又、他に何ぞ忘れさせられた事があるかと存じてござる。その事ならば、まづお使ひに参りませう。
▲主「あゝ、これこれ。いつも呑ませ付けた物を呑ませねは、心に掛かつて悪しい。平に呑うで行け。
▲シテ「その上今日は、ちとたべにくい事がござる。
▲主「それは又、いかやうな事ぢや。
▲シテ「さればその事でござる。お文でも遣はされませぬかの、何ぞ忘れさせられた事はござらぬかのと申して、度々小戻りを致いたも、畢竟この御酒がたべたさの儘ぢやと思し召す処が、迷惑にござる。
▲主「これはいかな事。何として身共がその様に思ふものか。平に呑うで行け。
▲シテ「その儀ならば、戻つてからたべませう。
▲主「いやいや。いつも呑ませ付けた事ぢやによつて、是非とも呑うで行け。
▲シテ「すれば、どうあつても呑うで行けでござるか。
▲主「中々。
▲シテ「それならば、たべて参りませうか。
▲主「それがよからう。まづ下に居よ。
▲シテ「はあ。これは例の、大盃が出ましてござるの。
▲主「手間のとれぬ様に、おほさかづきを出いた。さらば呑め。
▲シテ「お酌はこれへ下されい。
▲主「いやいや。身共が注いでやらう。
▲シテ「これは慮外にござるが、その儀ならば、注がせられて下されい。
▲主「心得た。
《これからは、「素襖落」同断。五盃程呑うで良し》
もはや、呑まぬか。
▲シテ「あゝ。もう厭でござる。
▲主「それならば、取るぞや。
▲シテ「早う取らせられい。扨も扨も、結構な頼うだ人ぢや。大盃で三つ、五つ。《笑ふ》
▲主「やいやい。行かぬか。
▲シテ「どこへ。
▲主「これはいかな事。どこへと云うて、かの人の方へ行かぬか。
▲シテ「むゝ。かの人の方への。
▲主「中々。
▲シテ「それを忘れてなるものでござるか。さらば、参りませう。《と云うて、こける》
▲主「これはいかな事。酔うたさうな。
▲シテ「酔ひは致しませぬが、暫く居敷いて居りましたによつて、しびりが切れました。慮外ながら、手をとつて下されい。
▲主「心得た。そりや、立て。
▲シテ「やつとな。
▲主「はあ。酔うたさうな。
▲シテ「中々酔ひは致しませぬ。扨、お文でも遣はされませぬか。
▲主「いやいや。汝を遣るによつて、文は遣らぬ。
▲シテ「何ぢや。文は遣らぬ。
▲主「中々。
▲シテ「それならば、良い様に取り繕うて申しませう。
▲主「良い様に云うてくれい。
▲シテ「扨、かう参りまする。
▲主「早う戻れ。
▲シテ「心得ました。
▲主「ゑい。
▲シテ「はあ。
《笑うて》扨も扨も、結構な頼うだ人ぢや。かの人の方へ使ひに行けと云うて、大盃で三つ、五つ。ほつてと酔うた。ちと、謡うて参らう。ざゞんざ。《謡うて》
やあ。いつもこの道は、一筋ぢやが、今日は二筋にも三筋にも見ゆる。これでは中々行かれまい。ちと休んで参らう。やつとな。
▲主「太郎冠者を、かの人の方へ使ひに遣はしてござるが、殊の外たべ酔うてござる。心元なうござる。後から参つて見ようと存ずる。何とぞ、かの方まで参り着けば、良うござるが。何とも心元ない事でござる。これはいかな事。この道の真ん中に寝て居る。扨々、憎い奴でござるが、何と致さう。いや。思ひ出いた事がござる。《と云うて、武悪の面を着せて置く》
これで、目が覚めたならば、定めて肝を潰すでござらう。《と云うて、座へ着く》
▲シテ「はあ。よう寝た事かな。誰そ、湯をくれい。茶をくれい。これはいかな事。宿ぢや宿ぢやと思うたれば、これは、道の真ん中ぢや。何としてこの所に寝て居た事か知らぬ。はあ。それそれ。かの人の方へお使ひに参るとて、御酒を下されたが、酒にたべ酔うて、この所に寝て居たものであらう。はあ。身共は頭下がりに寝たと見えて、しきりに頭が重うなつた。いや。いつもこの先に、綺麗な清水がある。さらば、あれへ行て、手水をも使ひ、水をもたべうと存ずる。扨も扨も、酔うた事かな。正体もなう酔うてござる。さればこそ、これぢや。さらば、水を汲まう。《と云うて、つかつかと行き、水を見て》
あゝ。悲しや、悲しや、悲しや、悲しや。真つ平命を助けて下されい。武辺立てゞはござらぬ。頼うだ者の用事で、さる方へ参るとて、御酒にたべ酔うて、この所に臥せつて居りました。何とぞ命をお助けなされて下されい。申し申し。なぜに物を仰せられぬぞ。物を仰せられいでは、迷惑にござる。許すと只ひと言、仰せられて下されい。申し申し。《段々と顔を上げて見、そつと抜けて》
なうなう。怖ろしや怖ろしや。清水にいかめな鬼が居る。急いでこの由を、頼うだ人へ申さう。が、頼うだお方は、つゝと念の入つたお方ぢやによつて、その鬼を見届けたかと仰せられた時分に、いゝや。しかと見届けは致しませぬ。とも云はれまい。こは物ながら、見届けて参らう。はあ。何とぞ、取つて出ねば良いが。《と云うて、そろそろ、抜き足にて行き、覗き見て》
あゝ。悲しや、悲しや。真つ平命を助けて下されい。申し申し。なぜに物を仰せられぬぞ。申し申し。はて、合点の行かぬ。確かに鬼が居るが、何として取つて出ぬか。今一度、見て参らう。《又、そろそろと見て、びつくりして後へ少し退き、又、見る。今度は、我が影故、不審に思ひ、袖を映し、手を映し、両手を上げて映し、色々しても、我が影に違ひなき故、泣きて後へ下がり、下に居て》
扨も扨も、清水に鬼が居る、鬼が居ると存じてござれば、鬼ではなうて、某が面が、いつの間にやら鬼になつてござる。今まで人悪しかれと存じた事もござらぬに、何の因果でこの様な鬼のつらになつた事ぢや知らぬ。これはまづ、何としたものであらうぞ。をゝ。それそれ。こゝ元にうかうかとして居たならば、人が見付けて、鬼が出たと云うて、定めて打ち殺さるゝでござらう。何と申しても、頼うだ人は御馴染ぢやによつて、あれへ参つて御扶持を貰うてたべうと存ずる。扨も扨も、是非もない事かな。頼うだ人も、この面を見させられたならば、さぞ肝を潰させらるゝでござらう。いや。何かと申す内に、戻り着いた。まづ、顔を隠いて、戻つた通りを申し上げう。
申し。頼うだ人。ござりまするか。太郎冠者が戻りましてござる。
▲主「いゑ。太郎冠者が戻つたさうな。太郎冠者。戻つたか戻つたか。
▲シテ「ござりまするか、ござりまするか。
▲主「ゑい。戻つたか。
▲シテ「只今戻りました。
▲主「なう。恐ろしや。いかめな鬼が来た。早う出て行けいやい、出て行けいやい。
▲シテ「申し申し。鬼ではござらぬ。これは、太郎冠者でござる。
▲主「まだそのつれな事を云ふ。鬼の太郎冠者は持たぬ。早う出て行け、出て行け。
▲シテ「さりとては、左様ではござらぬ。面こそいかめな鬼でござれ、心は太郎冠者に違ひはござらぬ。声でなりと、聞き知らせられたでござらう程に、何とぞ御扶持をなされて下されい。
▲主「何と鬼が使はるゝものぢや。早う出て行け、出て行け。
▲シテ「只今までの通りに召し使はるゝ事がならずば、お子様のお守りなりと致しませう。
▲主「何とその面で、子供の守りがなるものぢや。早う出て行け。
▲シテ「その儀ならば、御門番なりと仰せ付けられて下されい。
▲主「その面で門番をして、誰が出入りをするものぢや。
▲シテ「是非に及びませぬ。お釜の下の火なりと焚きませう。
▲主「いやいや。その様な面の者は、置く事はならぬ。早う出て行け。あちへ失せう、あちへ失せう、あちへ失せう、あちへ失せう。
《太郎冠者、泣きて下に居て》
▲シテ「扨々、頼みに思うた御慈悲深い頼うだ人でさへ、あの体に仰せらるゝ。この上、他へ行たと云うて、誰が扶持をせう。これはまづ、何としてよからうぞ。をゝ。それそれ。某がゝうなつたも、清水へ行たによつてぢや。人に打ち殺されうよりは、あの清水へ行て、身を投げて死んでのけう。扨も扨も、是非もない事かな。人あしかれとも思はぬに、何の因果でこの体になつた事ぢや知らぬ。来る程に、清水ぢや。さらば、この辺りから走り込まう。やあ。ゑい。《飛び込みながら、面をとりて、下に置き》
はて。合点の行かぬ事ぢや。
申し申し、頼うだ御方。ござりまするか。ござるか。
▲主「何事ぢや。
▲シテ「申し。これに、珍しい物がござる。
▲主「それは、何があるぞ。
▲シテ「これへ出させられい。
▲主「心得た。
▲シテ「まだ出させられい。
▲主「心得た。
▲シテ「これに、鬼の抜け殻がござる。
▲主「何の抜け殻。いで。食らはう。
▲シテ「あゝ。《と云うて、両手上ぐる》

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

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