『能狂言』中102 鬼山伏狂言 せいらい

▲閻魔「《次第》《謡》地獄のあるじ、閻魔王。地獄の主、閻魔王。六道にいざや出でうよ。
これは、地獄の主、閻魔大王です。当代は人間が利根になり、八宗九しゆうに宗体を分け、極楽へぞろりぞろりとぞろめくによつて、地獄の飢死、以ての外な。さるによつて、今日は閻魔王自身、六道の辻に出で、罪人も通らば吟味をし、地獄へ責め落とさせばやと存じ候ふ。
《道行》《謡》住み馴れし、地獄の里を立ち出でゝ、地獄の里を立ち出でゝ、足に任せて行く程に、足に任せて行く程に、六道の辻に着きにけり。
急ぐ程、六道の辻に着いた。
いかに、獄卒。
▲数鬼一「御前に候ふ。
▲閻魔「良からう罪人も通らば、地獄へ責め落とし候へ。
▲数鬼「畏つて候ふ。
▲シテ「《次第》《謡》罪も作らぬ罪人を、罪も作らぬざい人を、誰かは寄つて堰かうよ。
これは、娑婆に隠れもない、政頼と申す鷹匠でござる。我、思はずも、無常の風に誘はれ、只今冥途へ赴きまする。まづそろりそろりと参らうと存ずる。
▲鬼一「くんくん。いや。罪人が来たと見えて、頻りに人臭うなつたが、どこ元ぢや知らぬ。さればこそ、これへ良い罪人が来た。急いで地獄へ責め落とさう。《謡》
いかに罪人、急げとこそ。《一段責むる》
▲シテ「申し申し。
▲鬼一「何事ぢや。
▲シテ「私は罪のない者でござる。何とぞ浄土へやつて下されい。
▲鬼一「扨、汝は何者ぢや。
▲シテ「これは、政頼と申す鷹匠でござる。
▲鬼一「鷹匠ならば、いよいよ罪は深からう。まづ、その由、閻王へ申し上げう。まづ、それに待ち候へ。
▲シテ「畏つて候ふ。
▲鬼一「いかに申し候ふ。良き罪人の来たりて候ふ間、地獄へ責め落とさうずる由申し候へば、政頼と申す鷹匠にて、罪はなき由申し候ふ。
▲閻魔「鷹匠ならば、いよいよ罪は深からうずる間、急いで地獄へ責め落とし候へ。
▲鬼一「畏つて候ふ。
いや。なうなう。あれへ政頼といふ鷹匠が来た程に、急いで地獄へ責め落とせとのお事ぢや。
▲数鬼二三「心得た。
《謡》それ、地獄遠きにあらず。極楽遥かなり。いかに政頼、急げとこそ。《二人して責めて》
▲シテ「あゝ。まづ待たせられい。只今も申す通り、私は罪のない者でござる程に、何とぞ極楽へやつて下されい。
▲鬼二「その由、申し上げうずる間、それに待ち候へ。
▲シテ「心得て候ふ。
▲鬼二「いかに申し候ふ。色々責め申して候へども、とかく罪のなき由を申し候ふ。
▲閻魔「さあらば、その政頼を、これへ出し候へ。
▲鬼二「畏つて候ふ。
いかに政頼。御前へ出で候へ。
▲シテ「心得て候ふ。
▲鬼二「政頼、出ましてござる。
▲閻魔「いかに政頼。
▲シテ「御前に候ふ。
▲閻魔「その方は、鷹匠ならば、極重悪人なるを、何とて罪のなき由申すぞ。
▲シテ「さればその事でござる。この鷹が諸鳥を取りまするによつて、鷹にこそ罪がござれ、私に罪はござりませぬ。
▲閻魔「すれば、同じ鳥が鳥を取るか。
▲シテ「左様でござる。
▲閻魔「すれば、汝に罪はない。さて、その鷹の仔細があらば、語つて聞かせい。
▲シテ「畏つてござる。《語》
それ、鷹の吉相と申すは、まかぶらに庇をさせば、目は明星の如く、嘴爪は三ケ月の如くにして、前には山をいだき、後ろに山河を流す。呉羽鳥の毛、綾を畳み、うばら毛、浪を寄せ、愁ひの毛、涙をとゞむ。火打ち羽、風切り、母衣羽に至るまで、これ、鷹の吉相なり。とつては、毛なしもげ上がり、打ち爪、かへるこ、影の爪、鳥がらみに至るまで、これ逸物の取つ手なり。尾は、なら尾、鳴らし羽、大石打ちに小石打ち、上げ尾、鈴付け、柴引きに至るまで、いづれも鷹の名どころなり。この鷹を以て諸鳥を取らせ、貴人高人の御慰みとす。まづ、鷹の謂はれ、かくの如くにて候ふ。
▲閻魔「扨々、夥しい仔細ぢや。扨、某もその鷹を遣うて見たいが、遣うて見せうか。
▲シテ「易い事。遣うてお目に掛けませうが、鷹を遣ひまするには、広い野がなければなりませぬ。
▲閻魔「それは、この所に死出の山と云うて、大山がある。その南に大きな原がある。それで遣うて見せい。
▲シテ「その上、犬やりの、犬の、勢子のと申して、夥しう人がいりまする。
▲閻魔「その犬やりには、この閻魔王がならうず。犬や勢子には獄卒どもを云ひ付けう程に、急いで遣うて見せ候へ。
▲シテ「畏つて候ふ。《謡》
いでいで、鷹を遣はんとて。
▲地「《謡》いでいで、鷹を遣はんとて、閻魔王の犬やりにて、鬼ども草を払ひければ、死出の山路の南原より、雉の雄ん鳥飛び来るを、政頼これを見るより早く、合はせければ、宙にて翔けてぞ取つたりける。
▲閻魔「何と、取つたか取つたか。
▲シテ「取りました、取りました。まづ、まるをくみませう。
▲閻魔「それが良からう。
▲シテ「扨、この餌がらを閻王へ上げて下されい。
▲数鬼末「心得た。
いかに申し候ふ。この餌がらを上ぐる由、申し候ふ。
▲閻魔「これへ出せ。
▲鬼末「畏つて候ふ。
▲閻魔「ばりゝばりゝ、ばりばりばり。扨々、これは旨い物ぢや。この残りを汝らに取らする程に、喰うてみよ。
▲鬼一「畏つてござる。ばりばりばり。さあさあ。そなたも喰うてみさしめ。
▲鬼二「心得た。ぼりゝぼりゝぼりゝ。《段々に喰うて》
▲閻魔「いかに獄卒。
▲鬼一「御前に候ふ。
▲閻魔「政頼を、これへ出し候へ。
▲鬼一「畏つて候ふ。
いかに政頼。
▲シテ「これに候ふ。
▲鬼一「閻王の御前へ出で候へ。
▲シテ「畏つて候ふ。
▲鬼一「政頼の出でゝ候ふ。
▲閻魔「いかに政頼。
▲シテ「御前に候ふ。
▲閻魔「扨、今は殊の外旨い物を喰はせて、近頃満足するいやい。
▲シテ「はあ。
▲閻魔「その褒美に、何なりとも、望みがあらば叶へて取らせうが、何が望みぢや。
▲シテ「その儀でござるならば、今一度、私を娑婆へお帰しなされて下されい。
▲閻魔「この土へ来た者を、再び娑婆へ戻すといふ事はなけれども、旨い物をくれた程に、娑婆へ帰して取らせうが、いか程帰りたい。
▲シテ「いつまでもお帰しなされて下されい。
▲閻魔「こゝな者は。その様な限りのない事があるものか。それならば、一年戻いてやらう。
▲シテ「一年と申しては、夢の間でござる。それならば、百年戻いて下されい。
▲閻魔「いやいや。百年というても夥しい事ぢや。良い良い。身共が了簡を以て、三とせが間、娑婆へ帰してやらう。
▲シテ「それは、ありがたうござる。
▲閻魔「娑婆へ戻つたならば、随分鷹を遣うて諸鳥を取り、確かな便りに餌がらを届けい。
▲シテ「畏つてござる。
▲閻魔「《謡》いでいで、暇を取らせんとて。《打ち返し{*1}》
▲地「《謡》いでいで、いとまを取らせんとて、娑婆に帰りて三とせが間、鷹を遣うて諸鳥を取らせ、餌がらを確かに届くべしと、仰せを委しく承りて、帰りければ、閻魔王も名残を惜しみ、招き返して、玉の冠を政頼に与へたび給へば、忝くも頂戴致し、忝くも頂戴致して、再び娑婆にぞ帰りける。

校訂者注
 1:底本は、「打返」。

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

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