『能狂言』中103 鬼山伏狂言 くじざいにん

▲主「これは、洛中に住居致す者でござる。某、当年は祇園の会の頭に当たつてござる。もはや、祭も近々でござるによつて、今日はいづれもを申し入れ、山の相談をも致さうと存ずる。まづ、太郎冠者を呼び出いて、申し付けう。《常の如く呼び出して》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。当年は、某が祇園のゑのとうに当たつたが、何とめでたい事ではないか。
▲シテ「近頃めでたう存じまする。
▲主「それにつき、汝はいづれもへ使ひに行て来い。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「行て云はうは、祭礼も近々でござるによつて、今日は相変らず、いづれも御出なされて、山の御相談をなされて下されいと云うて来い。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「内も忙しい。やがて戻れ。
▲シテ「心得ました。
▲主「ゑい。
▲シテ「はあ。
扨も扨も、当年は、こちの頼うだ人の、祇園の会の頭に当たらせられてござる。この様なめでたい事はござらぬ。扨、お使ひに行けと仰せ付けられたが、誰殿へ参らう。いや。下の町の誰殿が近い。これへ参らう。かう参つても、お宿にござれば良うござるが。お宿にござらぬ時は、参つた詮もない事でござる。いや。参る程にこれぢや。まづ、案内を乞はう。《常の如く云うて》
▲立頭「ゑい。太郎冠者。そちならば案内に及ばうか。つゝと通りはせいで。
▲シテ「左様には存じてござれども、もしお客ばしござらうかと存じて、それ故案内を乞ひましてござる。
▲立頭「それは念の入つた事ぢや。扨、今は何と思うて来たぞ。
▲シテ「頼うだ者の使ひに参りました。
▲立頭「何と云うておこされた。
▲シテ「頼うだ者、申しまする。祭礼もきんきんになりましてござる程に、今日はいづれも御出なされて、相変らず山の御相談をなされて下されうならば、忝うござると申し越しましてござる。
▲立頭「それは近頃、念の入つた事ぢや。いづれもご左右が遅いとあつて、某が方に寄り合うてござる程に、追つ付けそれへ同道せうぞ。
▲シテ「すれば、銘々に参るには及びませぬか。
▲立頭「中々。銘々に行くには及ばぬ程に、汝は先へ戻れ。
▲シテ「その儀ならば、お先へ参りませう。
なうなう。嬉しや嬉しや。足を助かつた。
申し。頼うだ人。ござりまするか。
▲主「早、戻つたか。
▲シテ「さればその事でござる。誰殿へ参りましてござれば、御さうが遅いとあつて、いづれもあれに寄り合うてござつて、追つ付けこれへ御出の筈でござる。
▲主「やあやあ。誰殿に寄り合うてござつた。
▲シテ「中々。早、これへ御出でござる。
《立頭、「松脂」などの如く云うて、皆、同道して行く》
▲立頭「お頭、めでたうござる。
《立衆、同様に云ふ》
▲主「これは、いづれもお揃ひなされて御出なされて、忝う存じまする。
▲立頭「いづれも御左右が遅いとあつて、私のかたへ寄り合うてござりました。
▲主「扨、祭も近々になりましたによつて、いづれも、山の思し召しもござらば、仰せられて下されい。
▲立頭「これはまづ、御亭主の思し召しを承りたうござる。
▲シテ「はあ。申し申し。こちの頼うだ人は、つゝと不調法な生まれでござるによつて、何とぞ、いづれも御相談をなされて下されい。
▲主「やいやい。汝がづる処ではない。すつ込んで居よ。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「さあさあ。いづれも思し召しを仰せられて下されい。
▲立頭「いやいや。御亭主の思し召しを承りたうござる。
▲主「私も、頭の事でござるによつて、何も存じ付かぬでもござらぬ。まづ、私の存じまするは、山を拵へまして、それへ滝を落としまして、鯉の滝登りを致す処を致しませうと存じまするが、これは何とでござらう。
▲立頭「これは一段と良うござりませう。
▲主「何と、良うござりまするか。
▲立頭「中々。これに極めさせられたならば、良うござらう。
▲主「それならば、これにきはめませうか。
▲立衆「それが良うござりませう。《この内》
▲シテ「これはいかな事。これに極まるさうな。出ずばなるまい。
申し申し。いづれもこれに極めさせらるゝか。
▲立頭「これが良からうと思ふ事ぢや。
▲シテ「これはいかな事。これは、毎年定まつて出る町がござつて、則ち、それを鯉山の町と申しまする。これはなりますまい。
▲立頭「誠に。その通り、定まつて出るちやうがあつた。これはなりますまい。
▲主「やいやい。又、これへ出たか。すつ込んで居よと云ふに。
▲シテ「畏つてござる。
▲立頭「申し申し。その様に叱らせらるゝな。これはなりますまい。
▲主「その儀ならば、又、いづれもの思し召しを承りませう。
▲立頭「私の存じ付きを申しませうか。
▲主「まづ、仰せられて見させされい。
▲立頭「私の存じまするは、これも、山は山でござつて、それへ橋を架け、牛若と弁慶の人形を出いて、五條の橋の千人切りの処を致さうと存じまするが、何とござらう。
▲主「これは一段と良うござりませう。
▲立頭「何と、良うござらうかの。
▲主「中々。これが良うござらう。
▲立頭「その儀ならば、これに極めませう。
▲主「誠に、これに極めさせらるゝが良うござる。
▲シテ「これはいかな事。又、これに極まるさうな。出ずばなるまい。
申し申し。いづれも様。これに極めさせられまするか。
▲立頭「いづれも、これが良からうと仰せらるゝ事ぢや。
▲シテ「これはいかな事。これも、毎年定まつて出る町がござつて、則ち、橋弁慶の町と申しまする。これはなりますまい。
▲立頭「誠に、左様でござつた。これはなりますまい。
▲主「やい。おのれ、又これへ出たか。すつ込んで居よと云ふに。
▲シテ「畏つてござる。
▲立頭「申し申し。これはなりますまい。今度はこなた、仰せられて御らうぜられい。
▲立衆一「私の存じ付きを申して見ませうか。
▲主「それが良うござらう。
▲立一「私の存じまするは、やはり山は山でござつて、それへ大きな橋を架けまして、鷺の橋を渡いた、鵲の橋を渡いたと申して、囃子物を致さうと存じまするが、何とでござらうぞ。
▲主「これは賑やかで、一段と良うござりませう。
▲立一「何と良うござりませうか。
▲主「中々。良うござらう。
▲立一「その儀ならば、これに極めませう。
▲立頭「はあ。これに極めさせらるゝか。
▲主「中々。これに極めませう。
▲シテ「これはいかな事。又、出ずばなるまい。
いや。申し申し。いづれも様。又、叱られませうが、これに極めさせられまするか。
▲立頭「中々。賑やかで良からうと、いづれも仰せらるゝ事ぢや。
▲シテ「扨々、いづれも、お物覚えのあしいお方でござる。これは去年、下の町から出ましたが、囃子物が揃はいで、洛中洛外の笑ひものになりましてござる。
▲立頭「誠に、さうであつた。これはなるまい。
申し。これはなりますまい。
▲主「やい。おのれ、憎い奴の。又これへ出たか。すつ込んで居よと云ふに。
▲シテ「畏つてござる。
▲立頭「いや。申し申し。その様に叱らせらるゝな。あの太郎冠者は、つゝと物覚えの良い者でござるによつて、何ぞ珍しい存じ付きもござらう程に、これへ呼うで、問うて見させられい。
▲主「いや。申し。こなたも、むさとした事を仰せらるゝ。あの下々の者の申す事が、何の役に立つものでござる。
▲立頭「いかにしもじもぢやと申しても、良い事は良い事に致すが良うござる。これへ呼びませう。
▲主「いや。御無用でござる。
▲立頭「苦しうない事でござる。
やいやい。太郎冠者。これへ出て、存じ寄りもあらば、云うて見よ。
▲シテ「この下々の者の申す事が、何の役に立つものでござる。やはり、最前の鯉山が良うござらう。
▲主「おのれ、憎い奴の。鯉山が、それへ出る処か。
▲立頭「申し。その様に叱らせらるゝな。
やい。太郎冠者。その様にすねた事を云はずとも、頼うだ人の頭の事ぢやによつて、存じ付きもあらば、平に云うて見よ。
▲シテ「はあ。いや。申し。私も、頼うだ者の頭の事でござれば、何も存じ付かぬでもござりませぬ。それならば、私の存じ寄りを申して見ませうか。
▲立頭「それは一段と良からう。遠慮なしに云うて見よ。
▲シテ「まづ、私の存じまするは、これも大きな山を拵へ、又、それへ渺々と致いた河原を拵へまして、それへ、いかにも弱々と致いた罪人を出し、又、いかめな鬼を出いて、かの鬼が、罪人を山へ責め上し、責め下す処を致さうかと存じまするが、これは何とでござりませう。
▲立頭「これは珍しうて、一段と良からう。
▲シテ「何と、良うござりまするか。
▲立頭「中々。一段と珍しい。
申し申し。これが、珍しうて良うござらう。これに極めさせられい。
▲主「申し。いづれもは、これに極めさせらるゝか。
▲立頭「中々。これが珍しうて良からうと存じまする。
▲主「いや。申し。いづれも、よう思うても見させられい。いかに珍しいと申しても、このめでたい祭礼に、何と、罪人が出さるゝものでござるぞ。これはなりますまい。
▲立頭「いや。それは、作り物でござるによつて、少しも苦しうござらぬ。
▲主「その上又、鬼になり手はござらうが、罪人になり手はござらぬ。
▲シテ「いや。申し。それはいつも、鬮取りに致しまする。
▲主「おのれが何を知つて。すつ込んで居おれ。
▲シテ「心得ました。
▲立頭「誠に、くじ取りであつた。早う鬮を拵へて持つて出い。
▲シテ「鬮を拵へまするか。
▲立頭「中々。
▲シテ「畏つてござる。
申し申し。鬮が出来ましてござる。まづ、こなた、取らせられい。
▲立頭「心得た。
▲シテ「こなたも取らせられい。
▲立一「心得た。
《皆々へ取らせて》
▲シテ「扨、この鬮を、頼うだ者へやつて下されい。
▲立頭「はて。汝、持つて行け。
▲シテ「私が持つて参りまするか。
▲立頭「中々。
▲シテ「畏つてござる。《いかにも怖がりて、そつと持つて行く》
いや。申し申し。鬮が一つ、余りましてござる。
▲立頭「汝、取れ。
▲シテ「私が取りませうか。
▲立頭「中々。
▲主「いや。申し申し。あれには取らせますまい。
▲シテ「はあ。いや。申し申し。いつも頭屋から、警護がに人づゝ出まする。
▲立頭「さうであつた。
▲主「それは、雇うて出しませう。
▲立頭「ある人を雇うて出すと申す事があるものでござるか。
苦しうない。汝取れ。
▲シテ「畏つてござる。《一の松にて鬮を見て、悦びうなづきて》
申し申し。こなたのお役は何でござる。
▲立頭「身共は鼓の役ぢや。
▲シテ「これは良いお役でござる。又、こなたは何でござる。
▲立一「某は笛の役ぢや。
▲シテ「これも良いお役でござる。《又、段々に聞く。警護の、太鼓の、大鼓のと云ふ》
扨、頼うだ者の役を問うて下されい。
▲立頭「心得た。
申し申し。こなたのお役は何でござる。
▲主「いや。私はまだ、鬮を見は致しませぬが、この鬮は取り直しませう。
▲シテ「いや。申し申し。往古以来、祇園の会始まつて、つひに鬮を取り直いた例はござるまい。
▲主「又、色々の事を云ふ。すつ込んで居よ。
▲シテ「畏つてござる。
▲立頭「誠に、取り直いたゝめしはござらぬ。早う仰せられい。
▲主「いや。どうあつても、取り直しませう。
▲立頭「それならば、私が見て進じませう。
▲主「いや。なりませぬ。《と云ふを、無理に取つて》
▲立頭「はゝあ。亭主、罪人。
▲シテ「鬼はこれに候ふ。
▲主「おのれ、憎い奴の。散々に打擲してやらう。
▲立頭「あゝ。申し申し。その様に叱らせらるゝな。
▲主「こなたも、よう思うても見させられい。鬼の鬮に取り当たつたと云うて、今の様に嬉しさうに、鬼はこれに候ふと申しまする。そこをのかせられい。打擲致しませう。
▲シテ「あゝ。留めて下されい。
▲立頭「まづ、待たせられい。きやつも余り嬉しうて、今の様に申したものでござらう。扨、祭も、もはや近々でござる程に、稽古なされたならば、良うござらう。
▲主「何と、稽古に及ぶものでござるぞ。
▲立頭「いやいや。つゝと晴れいな事でござる程に、平に稽古なされたならば、良うござらう。
▲主「それならば、ともかくも致しませう。
▲立頭「太郎冠者にも、その通り申しませう。
やいやい。太郎冠者。晴れいな事ぢやによつて、稽古したならば良からう。
▲シテ「畏つてござる。
《立衆、笛の上より、囃子方の前へ並ぶ》《謡》
いかに罪人、急げとこそ。《一段責めて、杖にて櫂棹を叩く》
▲主「おのれ、憎い奴の。身共を打擲したな。散々に習はかいてやらう。
▲シテ「あゝ。とりさへて下されい。
▲立頭「申し申し。まづ、待たせられい。
▲主「そこをのかせられい。打擲致しまする。
▲立頭「私が、きつと叱りませう。
▲主「それならば、きつと叱つて下されい。
▲立頭「心得ました。
やい。太郎冠者。なぜに、今の様に強う当たつたぞ。
▲シテ「まづこなたも、よう思し召しても御らうぜられい。鬼の責むる勢ひでござるによつて、ちと強う当たるまいものでもござらぬ。その上、昔から、鬼が罪人を責めた例はござれども、罪人が鬼を責めたゝめしはござるまい。私は、もはや稽古致しますまい。
▲立頭「扨々、そちはすねた事を云ふ者ぢや。この様な良い鬮に取り当たるといふは、仕合せな事ぢや。最前も云ふ通り、晴れいな事ぢやによつて、その様に云はずとも、稽古したならば良からう。
▲シテ「それならば、稽古致しませうが、頼うだ者の顔を見ますると、怖ろしうてなりませぬ。こゝに風流の面がござるによつて、これを掛けて稽古致しませう。又、頼うだ者も、あれでは罪人めきませぬによつて、罪人らしう取り繕はるゝ様に、仰せられて下されい。
▲立頭「これは尤ぢや。その通り云はう程に、まづ、それに待て。
▲シテ「畏つてござる。
▲立頭「申し申し。きつと叱つてござれば、鬼の責むる勢ひでござるによつて、ちと強う当たつた事もござらう。その処で、真つ平誤つたと申しまする。扨、こなたもそのなりでは、罪人らしうござらぬによつて、罪人らしう取り繕はせられい。太郎冠者も、風流のおもてを掛けて、稽古致さうと申しまする。
▲主「その儀ならば、ともかくも致しませう。
▲立頭「取り繕うて進じませう。これへ寄らせられい。
▲主「心得ました。《白練を壺折り、鉢巻をして、髪をさばき》
何と、良うござるか。
▲立頭「一段と良うござる。
▲主「その儀ならば、太郎冠者にも、これへ出いと仰せられて下されい。
▲立頭「心得ました。
やいやい。身拵へが良くば、又、あれへ出い。
▲シテ「畏つてござる。《謡》
それ、地獄遠きにあらず、極楽遥かなり。いかに罪人、急げとこそ。《又、一段責め》
▲主「《謡》あゝら、悲しや。これ程参り候ふに、さのみな御責め候ひそ。
▲シテ「をゝ、それよ。こちへ来い、こちへ来い。《一遍小廻りして、杖にて又叩く》
▲主「やい。おのれ、憎い奴の。又、身共を打擲した。あの横着者。どれへ行くぞ。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。
▲シテ「許させられい、許させられい。
▲立頭「あゝ。申し申し。まづ、待たせられい。その様に追ひかけさせらるゝな。私が又、きつと叱りませう。
《など云うて、立衆皆々、ついて入る》

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

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