『能狂言』中104 鬼山伏狂言 かみなり

▲アド「《次第》《謡》薬種も持たぬ藪くすし、薬種も持たぬ藪くすし、きはだや頼みなるらん。
これは、洛中に住居致す医師でござる。只今、都には典薬頭の何のと申して、上手のいしがあまたござるによつて、我ら如きの藪医師には、誰も脈を見する者もござらぬ程に、今は渡世を送らう様がなうて、迷惑致す事でござる。それにつき、承れば、東には医師が少ないと申すによつて、これより吾妻へ下り、ひと稼ぎ稼いで見ようと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、住み慣れた花の都を振り捨てゝ、他国へ参ると申すは、本意にはござらねども、これも渡世の習ひなれば、是非もない事でござる。又、仕合せを致いたならば、都へ上らうと存ずる。いや。参る程に、これは渺々とした広い野へ出たが、これは何といふ所ぢや知らぬ。これはいかな事。俄かに空が曇つて、神鳴りが致す。この様な所に長居は無用。只、急いで里近くへ参らうと存ずる。
▲シテ「ぴかりぴかり。ぐわらりぐわらり。
▲アド「あゝ。桑原桑原桑原。《一遍廻りて、脇座へ屈む》
▲シテ「ぴかりぴかり。ぐわらりぐわらり。ぐわらぐわらどう。あゝ。痛や痛や痛や痛や。今日は心面白う鳴り渡つたれば、ふと雲間を踏み外いてこの野へ落ちて、したゝかに腰の骨を打つた。いや。これに何者やら居る。
やいやいやい。そこな奴。
▲アド「はあ。
▲シテ「おのれは何者ぢや。
▲アド「私は医師でござる。
▲シテ「石がものを云ふものか。
▲アド「いや。医師と申して、人間の病ひを治す者でござる。
▲シテ「何ぢや。医師と云うて、人間の病ひを治す者ぢや。
▲アド「中々。
▲シテ「身共は雷ぢやいやい。
▲アド「はあ。
▲シテ「今日は心面白う鳴り廻つたれば、ふと雲間を踏み外いてこの所へ落ちて、腰の骨をしたゝかに打つた。さりながら、何ぞ取り付く物があれば、則ち天上するが、折節何もない処で、今は天上せう様がない。汝、誠の医師ならば、身共が腰を治いてくれい。
▲アド「畏つてはござりまするが、私も、今まで色々の療治を致いてござれども、お雷のご療治は、つひに致いた事がござらぬ。これは、御免なされて下されい。
▲シテ「おのれは憎い奴の。人間の、雷のと云うて、別に違ふ事はあるまい。おのれ、療治せずば、引き裂いてのけう。
▲アド「はあ。真つ平助けて下されい。ご療治を致しませう。
▲シテ「何ぢや。療治をせうと云ふか。
▲アド「左様でござる。
▲シテ「それならば、命を助けてやらう程に、早う治いてくれい。
▲アド「畏つてござる。まづ、お脈を伺ひませう。
▲シテ「いかやうにしてなりとも、治いてくれい。
▲アド「心得ました。《と云うて、頭脈を見る》
▲シテ「これは何とする。
▲アド「はあ。人間の脈は、左右の手で見まするが、お雷の脈は、づ脈と申して頭で見まする。
▲シテ「それ程知つて居るではないか。
▲アド「はあ。
▲シテ「扨、何とあるぞ。
▲アド「お雷には、ご持病に中風があると見えまする。
▲シテ「扨々、汝は、いかい上手ぢや。中々。持病に中風があるいやい。
▲アド「左様でござらう。宿元でござらば、お薬を上げませうが、こゝ元は途中でござるによつて、お針を致しませう。
▲シテ「針とは。
▲アド「これでござる。
▲シテ「それを何とするぞ。
▲アド「これを、痛む所へ打ち込みまする。
▲シテ「こゝな者は。何と、それが立てらるゝものぢや。
▲アド「これはいかな事。人間でさへ立てまするものを、お雷の立てさせられぬと申す事が、あるものでござるか
▲シテ「何ぢや。人間が立つる。
▲アド「中々。
▲シテ「良い良い。人間の立つるものならば、身共も立てう程に、打つてくれい。
▲アド「畏つてござる。まづ、横にならせられい。
▲シテ「心得た。
▲アド「この辺りでござるか。
▲シテ「をゝ。その辺りぢや。
▲アド「只今打ちまする程に、動かせらるゝな。
▲シテ「動く事ではない。
▲アド「はつし、はつし、はつし。
▲シテ「あゝ痛。
▲アド「申し。その様に動かせられてはなりませぬ程に、動かぬ様になされい。
▲シテ「心得た。痛まぬ様に打て。
▲アド「畏つてござる。はつし。
▲シテ「あ痛。
▲アド「はつし。
▲シテ「あ痛。
▲アド「はつし、はつし、はつし。
▲シテ「あ痛、あ痛、あ痛。早う取つてくれい。
▲アド「只今取りまする。何と、良うござるか。
▲シテ「むゝ。何とやら、こちらの方は、余程快う覚ゆる。今度はこちらへも打つてくれい。
▲アド「畏つてござる。
▲シテ「必ず痛まぬ様に打て。
▲アド「今の様に動かせられては、針が打たれませぬ程に、動かぬ様になされて下されい。
▲シテ「心得た。
▲アド「又、横にならせられい。
▲シテ「心得た。
▲アド「この辺りでござるか。
▲シテ「をゝ。その辺りぢや。
▲アド「今、打ちまする。
▲シテ「心得た。
▲アド「はつし。
▲シテ「あ痛。
▲アド「これはいかな事。その様に動かせらるゝな。
▲シテ「痛まぬ様に打て。
▲アド「心得ました。はつし。
▲シテ「あゝ痛。
▲アド「はつし。
▲シテ「あ痛。
▲アド「はつし、はつし、はつし。
▲シテ「あ痛、あ痛、あ痛、あ痛。早う取つてくれい。
▲アド「畏つてござる。はあ。取りましてござる。
▲シテ「何と、取つたか。
▲アド「中々。取りました。
▲シテ「それならば、起きて見よう。やつとな。はあ。一段と快うなつた。とてもの事に、立つて見よう。
▲アド「それが良うござらう。
▲シテ「はあゝ。すきと快うなつた。もはや、すぐに天上せう。
▲アド「あゝ。まづ待たせられい。
▲シテ「何事ぢや。
▲アド「薬礼を下されい。
▲シテ「薬礼とは。
▲アド「さればその事でござる。人間の病ひを療治致せば、分限に応じてそれぞれに礼を致しまする。こなたにも、礼をして天上なされい。
▲シテ「むゝ。これは尤ぢや。さりながら、今日は、ふと雲間を踏み外いてこの所へ落ちたによつて、何も持ち合はせがない。汝が宿を云うて置け。重ねて落ちて取らせうぞ。
▲アド「それは何とも迷惑にござる程に、何ぞ薬礼に置いてござれ。
▲シテ「それならば、この撥をやらう。
▲アド「それは、何の役に立ちませぬ物でござる。
▲シテ「その儀ならば、この太鼓をやらうか。
▲アド「それも、いらぬ物でござる。
▲シテ「今も云ふ通り、他には何も持ち合はせがない。それにつき、人間といふものは、願望のあるものぢやが、汝はその様な事はないか。
▲アド「中々。望みがござりまする。
▲シテ「それを云うて見よ。
▲アド「雨風は、こなたの御自由になりまするか。
▲シテ「中々。雨風は、身共が儘になる事ぢや。
▲アド「総じて、人間は、当年は旱損の、又は水損のと申して、薬礼をくれませぬ。我ら如きの者は、世の中さへ良うござれば、渡世が致し良うござる程に、かん損すゐ損のない様に、守つて下されい。
▲シテ「これは尤な望みぢや。それは、いか程の間、守つてとらせうぞ。
▲アド「いか程と申す事はござらぬ。いつまでも世の中の良い様に、して下されい。
▲シテ「いつまでもと云うては、限りがない。百年が間、旱損水損のない様にしてとらせう。
▲アド「百年と云うては、余り少なうござる。一万年ばかりも守つて下されい。
▲シテ「それも夥しい事ぢや。良い良い。某が了簡を以て、八百年が間、旱損水損のない様にしてとらせう。
▲アド「これは忝うござる。
▲シテ「その上、汝を典薬の頭にないてとらするぞ。
▲アド「尚々でござる。
▲シテ「約束の違はぬ様に、この由を謡うて天上せう。それへ寄つて聞け。
▲アド「畏つてござる。
▲シテ「《謡》降つゝ照らいつ、ふつゝ照らいつ、八百年がその間、旱損水損もあるまじや。御身は薬師の化現かや、中風を治すくすしを、典薬のかみと云ひ捨てゝ、また鳴神は上りけり、又なるかみはのぼりけり。
ぴかりぴかり。ぐわらりぐわらりぐわらり。
▲アド「桑原、桑原、桑原。
《と云うて、耳を塞ぎ、後より入る》

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

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