『能狂言』中105 鬼山伏狂言 ねぎやまぶし

▲祢宜「これは、伊勢の祢宜でござる。毎年、諸国の旦那廻りを致す。又、当年も廻らうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、かやうに足手息災に旦那廻りを致すと申すも、ひとへに太神宮の御蔭でござる。いや。殊の外、咽が乾くが。いつもこの辺りに、旦那の茶屋が出て居らるゝが、今日は、まだ出られぬか知らぬ。さればこそ、これに居らるゝ。
申し申し。茶屋殿。変らせらるゝ事もござらぬか。
▲茶屋「いや。祢宜殿。又、当年も出させられてござるか。
▲祢宜「又、相変らず出ましてござる。
▲茶屋「まづ、それへ腰を掛けさせられい。
▲祢宜「心得ました。
▲茶屋「さらば、茶を進じませう。
▲祢宜「これは、忝うござる。これへ下されい。
▲茶屋「心得ました。
▲祢宜「はあ。いつもとは申しながら、結構なお茶でござる。扨、御家内でも、変らせらるゝ事もござらぬか。
▲茶屋「中々。変る事もござりませぬ。
▲祢宜「それは一段の事でござる。私も、毎日神前において、御家内安全の祈念を致す事でござる。
▲茶屋「それは、忝うござる。
▲祢宜「まづ、ちと足を休めて参りませう。
▲茶屋「それが良うござらう。
▲シテ「《次第》《謡》貝をも持たぬ山伏が、貝をも持たぬ山伏が、道々うそを吹かうよ。
これは、出羽の羽黒山より出でたる、駈け出の山伏です。この度、大峯葛城を仕舞ひ、只今本国へ罷り下る。まづ急いで参らう。誠に、行は万行ありとは申せども、取り分き、山伏の行は、野に伏し山に伏し難行苦行を致す。その奇特には、空飛ぶ鳥をも目の前へ祈り落とすは、山伏の行力です。いや。今朝、宿を早々立つたれば、殊の外咽が乾くが。辺りに茶屋はないか知らぬ。いや。これに茶屋がある。
やいやい。茶屋。茶を一つくれい。
▲茶屋「茶を参るか。
▲シテ「飲まうと云ふに。
▲茶屋「只今進じませう。さらば参れ。
▲シテ「むゝ。これは熱い。ぬるうしてくれい。
▲茶屋「うめて進じませう。さらば参れ。
▲シテ「むゝ。これはぬるい。おのれは、往還で茶屋をしながら、茶の熱いぬるいを知らぬといふ事があるものか。
▲茶屋「はて。熱いを参る衆もあり、又、ぬるいを好いて参る衆もござる。それならば、良い加減にして進じませう。
▲祢宜「申し。良い加減にして進ぜさせられい。
▲茶屋「心得ました。
▲シテ「のき居ろ。
▲茶屋「申し。こちへ寄つてござれ
▲祢宜「心得ました。
▲茶屋「さらば進じませう。
▲シテ「もう飲むまい。
▲茶屋「もはや参らぬか。
▲シテ「飲むまいと云ふに。
なうなう。嬉しや嬉しや。まんまと咽の渇きをやめてござる。まづ急いで参らう。が、今の祢宜めが憎い奴でござる。何と致さう。いや。致し様がござる。
▲茶屋「申し。祢宜殿。又、これへ掛けさせられい。
▲祢宜「心得ました。
▲茶屋「扨、いづ方でも、お山伏と申す者は、荒らけない者でござる。
▲祢宜「仰せらるゝ通り、駈けでの山伏と申す者は、いかつな者でござる。あの様な者には、構はぬが良うござる。
▲茶屋「その通りでござる。
▲シテ「やい。祢宜。この肩箱を、晩の泊まりまで持つて行け。
▲祢宜「申し。茶屋殿。取りさへて下されい。
▲茶屋「申し申し。これは、何とした事でござるぞ。まづ、これを身共に預けさせられい。
▲シテ「いやいや。身共が持たせねばならぬ。
▲茶屋「持たせて良い事ならば、私が持たせませう程に、まづ、私へ預けさせられい。
▲シテ「それならば、汝に預くる程に、早う持たせい。
▲茶屋「心得ました。申し申し。あの肩箱を祢宜殿に持たせらるゝには、何ぞ仔細ばしござるか。
▲シテ「おのれは知るまいが、この駈け出の山伏は、天下の御祈祷を専らとするいやい。さるによつて、いかなる貴人高人も、下馬をなされ、一礼をなさるゝ。それに、あのなまぬかつた祢宜めが、某に一礼もせいで、高腰を掛けて茶を飲うだ。その過怠に、あの肩箱を晩の泊まりまで持てと云へ。
▲茶屋「畏つてござる。申し申し。今のを聞かせられてござるか。
▲祢宜「中々。これで承つてござる。扨々、無理な事を云はれまする。あのお山伏が、天下の御祈祷を専らとせらるれば、私も、神前において天下安全の祈念を致しまする。こゝを以て、負くる事ではござらぬ。その上、往還で高腰を掛けて茶をたぶるは、往還の習ひでござる。祢宜は祢宜、山伏は山伏で、それぞれの立て派がござつて、お山伏に限つて一礼を致さう様がないと云うて下されい。
▲茶屋「心得ました。申し申し。
▲シテ「聞いた聞いた。まだむさとした事を云ふ。この山伏は、野に伏し山に伏し岩木を枕とし、難行苦行をする。その奇特には、空飛ぶ鳥をも目の前へ祈り落といて見せう。それに、あのなまぬかつた祢宜めが、諸国を歩いて旦那衆を誑すさへ腹が立つ。いや。とかく、おのれが分ではなるまい。身共が持たせう。
▲祢宜「あゝ。止めて下されい。
▲茶屋「私が持たせませう。まづ、待たせられい。
▲シテ「それならば、早う持たせい。
▲茶屋「心得ました。
申し申し。今のを聞かせられてござるか。
▲祢宜「中々。承つてござる。いよいよ無体な事を云はれまする。とかく、私がこれに居るによつて、難しうござる。裏道から外させて下されい。
▲茶屋「申し申し。こなたがござらいでは、私が迷惑致しまする。私の存じまするは、これでは片が付きませぬによつて、勝負をさせまして、その勝ち負けによつて、その御幣をお山伏に持たせまするとも、又、肩箱をこなたの持たせらるゝともなされたならば、良うござらう。
▲祢宜「扨、その勝負には、何をなされまする。
▲茶屋「こゝに、作の大黒がござるによつて、これを祈らせまして、影向あつた方を勝ちに致しませう。
▲祢宜「これはなりますまい。
▲茶屋「それは、なぜにでござる。
▲祢宜「あのお山伏は、祈り、加持を専らとせられまする。その上最前、空飛ぶ鳥をも目の前へ祈り落とすと申されまする。私は、正法に奇特なしでござる。これは、負くるは必定でござる。
▲茶屋「いやいや。左様に仰せらるゝな。正直のかうべに神宿ると申す事がござる。最前から、あのお山伏の申さるゝ事は、皆無理でござるによつて、私次第になされてごらうぜられい。
▲祢宜「それならば、こなた次第に致しませう程に、お山伏に問うて見て下されい。
▲茶屋「心得ました。
《山伏、この言葉の内に、「やいやい。茶屋。何をぐどぐどゝして居る。早う持たせい」と云うて催促する》
申し申し。これでは理非が分かりませぬによつて、勝負をなされて、その勝ち負けによつて、あの肩箱を祢宜殿に持たするとも、又、御幣をこなたの持たせらるゝとも、なされたならば良うござらう。
▲シテ「こゝな奴は、むさとした。何と、あのなまぬかつた祢宜と、勝負がなるものぢや。
▲茶屋「でも、これをなされねば、こなたのお負けになりまする。
▲シテ「何ぢや。負けになる。
▲茶屋「中々。
▲シテ「それならば、勝負をせうが。扨、勝負には何をさするぞ。
▲茶屋「こゝに、さくの大黒がござる。これを祈らせまして、どちなりとも、やうがうあつたかたを、勝ちに致しませう。
▲シテ「むゝ。某も、今まで色々の物を祈つたが、つひに大黒を祈つた事はないゝやい。
▲茶屋「でも、こなたは最前、空飛ぶ鳥をも目の前へ祈り落とすとは仰せられぬか。
▲シテ「良い良い。祈らう程に、その大黒をこれへ引き出せ。
▲茶屋「畏つてござる。
申し申し。その通り申してござれば、祈らうと申されまする程に、お大黒をもりまして参りませう。
▲祢宜「それならば、守りまして御出なされい。
▲茶屋「心得ました。《と云うて、楽屋へ入り、大黒を守り出づる》
▲祢宜「茶屋殿は、何と召されたか知らぬ。
▲シテ「憎い奴の。
《茶屋、大黒を床机に掛けさせて》
▲茶屋「申し申し。お大黒を守りまして参りました。
▲祢宜「扨々、これは殊勝なお大黒でござる。まづ、お山伏から祈らせられいと仰せられて下されい。
▲茶屋「心得ました。
申し申し。こなたから祈らせられいと申されまする。
▲シテ「祢宜めから祈れと云へ。
▲茶屋「畏つてござる。
申し申し。こなたから祈らせられいと申されまする。
▲祢宜「私から祈りまするか。
▲茶屋「中々。
▲祢宜「心得ました。
申し。それへ。祈らせられませぬか。
▲シテ「おのれから祈れと云ふに。
▲茶屋「畏つてござる。
謹上参迎。再拝再拝再拝。それ、天照らすおほん神と申し奉るは、伊弉諾伊弉冉の尊、天の岩倉の苔筵にて、男女の語らひをなし給ひ、一女三男をまうけ給ふ。一女とは天照太神の御事。山田が原に神とゞまりましまして、赤きをば人間と定めて、黒きをば牛馬と定め、一切衆生を利益せんがため、内宮が八十末社、外宮が四十末社、合はせて百廿末社の御神。中にも荒神と斎はれさせ給ふが、雨の宮、風の宮。北に斎宮、鏡の御社。浅間が嶽には福一万虚空蔵。只今の大黒天、我らが方へ影向ならしめ給へ。謹上さんぐ。再拝再拝再拝。再拝再拝再拝再拝。
はあ。私が勝ちでござる。
▲茶屋「こなたのお勝ちでござる。
申し。この御幣を、晩の泊まりまで持たせられい。
▲シテ「早い勝ちの。まだ身共が祈りもせぬに。
▲茶屋「これは御尤でござる。
▲シテ「《謡》それ、山伏と云つぱ、山に起き伏すによつての山伏なり。
何と、茶屋。殊勝なか。
▲茶屋「ご殊勝さうにござる。
▲シテ「《謡》兜巾と云つぱ、一尺ばかりの布切れを真つ黒に染め、むさとひだを取つて戴くによつての兜巾なり。珠数と云つぱ、いらたかの珠数ではなうて、むさとしたる草の実を繋ぎ集め、珠数と名付く。この珠数にて、ひと祈り祈るならば、などか奇特のなかるべき。ぼろおん、ぼろおん、ぼろおん、ぼろおん。
《大黒、祢宜の方を向くを、山伏、引き向くると、大黒、槌にて叩く》
▲茶屋「申し申し。こなたのお勝ちでござる。
さあさあ。この御幣を、晩の泊まりまで持たせられい。
▲シテ「今度は相祈りにせう。
▲祢宜「相祈りには及ばぬ事でござる。
▲シテ「はて。相祈りにせうと云ふに。《小さ刀へ手を掛くる》
▲茶屋「それならば、相祈りになされい。
▲祢宜「心得ました。
謹上参迎、再拝再拝再拝。
▲シテ「《珠数を手へ掛け、印を結び、手を打ち》《謡》いかに悪心深き大黒なりとも、明王の索にかけて、今ひと祈り祈るならば、などか奇特のなかるべき。ぼろおん、ぼろおん。橋の下の菖蒲は、誰が植ゑた菖蒲ぞ。折れども折られず、苅れども苅られず。ぼろおん、ぼろおん。
▲祢宜「再拝再拝再拝再拝。
《大黒、乗りて、祢宜の方へそろそろと歩み行くを、山伏、引き向くると、槌にて叩く。段々、後じさりに祈つて、引き向け引き向けする。大黒、笛の上辺りまで追うて行く。山伏、つゝと逃げて、一の松にて下に居て祈るを、大黒、シテ柱の際へ行き、槌にて叩く。柱越しになり、山伏、逃げ入る》
▲シテ「あゝ。許いてくれい、許いてくれい。
▲祢宜「あの横着者。この御幣を晩の泊まりまで持たぬか。どれへ行く。捕らへてくれい。
▲両人「やるまいぞやるまいぞ。《両人して追ひ込む。大黒は、山伏の後について、追ひ入る》

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

前頁  目次  次頁