『能狂言』中106 鬼山伏狂言 いぬやまぶし

▲出家「これは、この辺りに住居致す出家でござる。今朝、さる方へ斎に参つて、只今罷り帰る。まづそろりそろりと参らう。誠に、あの人はつゝと念の入つた人でござつて、いつ参つても、色々馳走を召され、御酒などを強ひられまするによつて、今日も、ちとたべ酔うて、殊の外、咽が乾く。いや。いつもこゝ元に茶屋が居らるゝが、今日はまだ出られぬか知らぬ。さればこそ、これに居らるゝ。
申し申し。茶屋殿。又、今日も出させられたの。
▲茶屋「いゑ。お寺様。出させられてござるか。
▲出家「愚僧も、今朝さるかたへ斎に参つて、只今戻りがけでござるが、お茶を所望に参りました。
▲茶屋「易い事。まづあれへ掛けさせられい。
▲出家「心得ました。何と、御家内にも変らせらるゝ事もござらぬか。
▲茶屋「中々。変りまする事もござりませぬ。
▲出家「それは一段の事でござる。
▲茶屋「さらば参れ。
▲出家「これへ下されい。扨々、結構なお茶でござる。今一服たべませう。
▲茶屋「何程なりとも参りませい。
▲出家「いつもいつも、お茶を荒らしまする。
▲茶屋「少しも苦しうない事でござる。
▲出家「ちと寺へもござれ。
▲茶屋「参りませう。又、進じませう。
▲出家「これへ下されい。お蔭で咽の渇きを已めましてござる。とてもの事に、今少し休んで参りませう。
▲茶屋「ゆるりと休ませられい。
《次第にて、山伏出る。「祢宜山伏」同断。茶を飲む処、出家を引きおろす処も同断》
▲シテ「なうなう。嬉しや嬉しや。まんまと咽の渇きを已めてござる。まづ急いで参らう。が、今の坊主が憎い奴でござる。何と致さう。いや。致し様がござる。《この間の茶屋、出家の言葉、「祢宜山伏」同断》
やい。わ坊主。この肩箱を晩の泊まりまで持て。
▲出家「これは迷惑にござる。取りさへて下されい。
▲茶屋「申し申し。これは何とした事でござるぞ。
▲シテ「この肩箱を晩の泊まりまで持たせねばならぬ。
▲茶屋「持たせて良い事ならば、私が持たせませう。まづ、これを私へ預けさせられい。
▲シテ「それならば、汝に預くる程に、早う持たせい。
▲茶屋「畏つてござる。いや。申し申し。扨、あの肩箱をあの御出家に持たさせらるゝには、何ぞ仔細ばしござるか。
▲シテ「おのれは知るまいが。《この後の言葉、「祢宜山伏」同断。但し、「祢宜」を「坊主」と云ふばかりなり》
▲茶屋「その通り申しませう。まづ、それに待たせられい。
申し申し。今のを聞かせられたか。
▲出家「中々。これで承つてござる。扨々、無体な事を云はれまする。あのお山伏が天下の御祈祷を専らとなさるれば、愚僧も朝夕の勤行に、天下安全の祈念を致しまする。こゝを以て同じ事でござる。扨又、往還で高腰を掛けて茶をたぶるは、高いも低いも往還の習ひでござる。その上、山伏は山伏、坊主は坊主で立て派がござつて、お山伏に限つて一礼を致さう様はござらぬ。持つ事はならぬと仰せられて下されい。
▲茶屋「これは尤でござる。その通り申しませう。
申し申し。
▲シテ「聞いた聞いた。《この言葉も同断》それに、あの坊主めが方々を歩いて、旦那衆を誑すさへ腹が立つに。所詮、おのれが分ではなるまい。某が持たせう。
▲茶屋「いやいや。私が持たせませう。
▲シテ「それならば、早う持たせい。
▲茶屋「申し申し。今のを聞かせられてござるか。
▲出家「いよいよ無理な事を云はれまする。いや。とかく私がこれに居りまするによつて、悪しうござる。何とぞ愚僧を裏道から外させて下されい。
▲茶屋「申し申し。こなたがござらいでは、私が迷惑致しまする。とかくこれでは済みませぬ。あの山伏も、云ひ掛かつた事でござるによつて、何ぞ勝負をなされて、その勝ち負けによつて、肩箱を持たせらるゝとも、その傘を持たするとも致しませうが、何とでござらう。
▲出家「これは良うござりませうが、その勝負には何を致しまするぞ。
▲茶屋「こゝに人喰ひ犬がござる。これを祈らせまして、どちなりとも懐いた方を勝ちに致さうと存じまするが、何とでござらう。
▲出家「これはなりますまい。
▲茶屋「それは、なぜにでござる。
▲出家「あのお山伏は、祈り、加持を専らとせらるゝ者でござる。その上最前、空飛ぶ鳥をも目の前へ祈り落とすと申されまするによつて、愚僧が負くるは必定でござる。
▲茶屋「いやいや。左様に仰せらるゝな。正直の頭に神宿ると申す事がござる。最前からあの山伏の云はるゝは、皆無理でござるによつて、行力ぢやと申しても、左程にもござるまい。扨又、何ぞ経文に、虎と申す事はござらぬか。
▲出家「中々。ござりまする。
▲茶屋「それは一段の事でござる。則ち、かの犬の名を虎と申しまする。とらとさへ申せば、その儘懐きまする程に、平に私次第に祈らせられい。
▲出家「それならば、こなた次第に致しませう程に、その通りをお山伏へ云うて下されい。
▲茶屋「心得ました。
《この内に、一、二度も催促する。「祢宜山伏」同断。茶屋の言葉、「祢宜山伏」同断。山伏も同様。「大黒」の処、「犬」と云ふばかりの違ひなり》
▲シテ「良い良い。祈らう程に、その犬を引き出せ。
▲茶屋「畏つてござる。
申し申し。祈らうと云はれまする程に、犬を連れて参りませう。
▲出家「早う連れてござれ。
《茶屋、犬を連れに、楽屋へ入る。出家、「もはや、茶屋殿は見えさうなものぢや」と云うて出る》
▲シテ「憎い奴の。
《出家、かゞみて元の所へ帰る》
▲茶屋「やい。行け行け。
申し申し。この犬でござる。
▲出家「扨々、逞しい犬でござる。まづ、お山伏から祈らせられいと仰せられて下されい。
▲茶屋「心得ました。
申し。まづ、こなたから祈らせられいと申されまする。
▲シテ「坊主めから祈れと云へ。
▲茶屋「心得ました。
まづ、こなたから祈らせられいと云はれまする。
▲出家「それならば、私から祈りませうか。
▲茶屋「それが良うござらう。
▲出家「申し。それへ。祈らせられぬか。
▲シテ「おのれから祈れと云ふに。
▲出家「はあ。
南無。きやらたんのう。とらや、とらや、とらや、とらや。
《犬、懐きて出家の方へ寄る》
▲茶屋「申し申し。こなたの勝ちでござる。傘を持たせませう。
▲出家「それが良うござらう。
申し申し。私の勝ちでござる。この傘を持たしめ。
▲シテ「早い勝ちの。まだ身共が祈りもせぬに。
▲出家「これは御尤でござる。
▲シテ「《祈り、「祢宜山伏」同断》ぼろおん、ぼろおん、ぼろおん、ぼろおん。《「橋の下の菖蒲」も云ふ。犬、吠え掛かる》
▲茶屋「申し申し。とかく、こなたのお勝ちでござる。
さあさあ。この傘を持たせられい。
▲シテ「今度は相祈りにせう。
▲出家「相祈りには及ばぬ事でござる。
▲シテ「はて。相祈りにせうと云ふに。《小さ刀に手を掛くる》
▲出家「はゝ。それならば、ともかくもでござる。
▲茶屋「その儀ならば、相祈りになされい。
▲出家「心得ました。
《出家は、珠数に手を掛け、念じて居る。山伏は、「祢宜山伏」の如くして》
▲シテ「《謡》いかに悪心深き犬なりとも、いろはのもんにて今ひと祈り祈るならば、などか奇特のなかるべき。ぼろおん、ぼろおん。いろはにほへと。ぼろおん、ぼろおん。ちりぬるをわか。ぼろおん、ぼろおん。
▲出家「とらや、とらや。
《犬、出家の方へ懐く。山伏、犬の傍へ寄り、祈る。犬、しきりに吠え、噛み付く様にする。山伏、逃げながら、祈る。「祢宜山伏」同断。一の松にて祈る。犬、舞台の内より吠ゆる。山伏、逃げ、犬も、アド二人ともに追ひ入る》
▲出家「とかく、私の勝ちでござる。
▲茶屋「こなたのお勝ちでござる。この傘を持たせませう。これはいかな事。それへ行く山伏を、誰そ、捕らへてくれい。
▲両人「やるまいぞやるまいぞ。

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

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