『能狂言』中107 鬼山伏狂言 かにやまぶし

▲シテ「《次第》《謡》三つの峯入り駈け出なる、三つの峯入り駈けでなる、行者ぞ尊かりける。
これは、出羽の羽黒山より出でたる、駈け出の山伏です。この度、大峯葛城を仕舞ひ、只今本国へ罷り下る。
いかに強力。
▲強力「御前に候ふ。
▲シテ「本国へ下らうずる間、供をせい。
▲強力「畏つてござる。
▲シテ「さあさあ。来い来い。
▲強力「参りまする、参りまする。
▲シテ「扨、この程の難行苦行は、何と夥しい事ではないか。
▲強力「御意の通り、夥しい事でござる。
▲シテ「扨、某が行力を、世上で何と云ふぞ。
▲強力「こなたの事を世上で、生き不動ぢやと申しまする。
▲シテ「定めてさうであらう。汝も随分精を出いて、早う先達になる様にせい。
▲強力「何が扨、私も随分精を出す事でござる。
▲シテ「いや。何かと云ふ内に、これは大きな沢へ出たが、これは何といふ沢ぢや。
▲強力「されば、何と申す沢でござるか、覚えませぬ。
▲シテ「これは定めて、江州蟹が沢であらう。
▲強力「誠に、蟹が沢でござらう。
▲シテ「はあ。何とやら、空が曇つて、山が鳴る様な。
▲強力「誠に、山が鳴る様にござる。
▲シテ「この様な所に長居は無用。急いで里近くへ行かう。
▲強力「それが良うござらう。
▲シテ「さあさあ。来い来い。
▲強力「参りまする、参りまする。
▲シテ「扨、今日の天気は、この様に俄かに変らうとは思はなんだが。合点の行かぬ事ぢや。
▲強力「左様でござる。
《この言葉を云ひながら、幕の方へ行く。蟹、出る》
▲シテ「やいやい。あれへ異形な物が出たわ。
▲強力「誠に、何やら異形な物が出ました。
▲シテ「他に道はないか。
▲強力「いや。他に道はござらぬ。
▲シテ「まづ、待て待て。某程の者が、異形な物に逢うて、え言葉を掛けなんだとあつては、後難も口惜しい。言葉を掛けて見よう。
▲強力「さりながら、傍へは御無用でござる。
▲シテ「心得た。
やいやい。それへ出たは何者ぢや。
▲蟹「二眼、天にあり。一甲、地に着かず。大足二足。小足八足。右行左行して遊ぶものゝ精にてあるぞとよ。
▲シテ「何ぢや。じがん天にあり。一甲地に着かず。大そく二足。小足八足。うぎやう左行。これは、蟹の精であらう。
▲強力「誠に、蟹の精でござらう。
▲シテ「やい。その蟹の精が、何としてこれへは出たぞ。
▲蟹「汝が行法を慢ずる間、妨げんがため、これまで出でゝあるぞとよ。
▲シテ「やいやい。蟹の分として、某が行法を妨げうと云ふは、何と憎い事ではないか。
▲強力「扨々。憎い奴でござる。あの様な奴は、この金剛杖で甲を打ち砕いてやりませう。
▲シテ「いやいや。それは無用にせい。
▲強力「いやいや。苦しうござらぬ。
おのれ。憎い奴の。今この杖で、かふらを打ち砕いてくれう。
《と云うて、杖にて打つ。蟹、飛び違ひ、左の耳を挟む》
あ痛、あ痛、あ痛。
▲シテ「何としたぞ、何としたぞ。
▲強力「したゝかに耳を挟みましてござる。
▲シテ「それ見よ。それ故、身共が無用にせいと云うたに。扨々、苦々しい事ぢや。それならば、身共がひと祈り祈つて、祈り離いてやらう。
▲強力「何とぞ祈り離いて下されい。
▲シテ「心得た。《謡》
それ、山伏と云つぱ、山に起き伏すによつての山伏なり。
何と、殊勝なか。
▲強力「殊勝さうにはござれども、殊の外痛うてなりませぬ。
▲シテ「今、祈り離いてやらう。《謡》
兜巾と云つぱ、一尺ばかりの布切れを真つ黒に染め、むさとひだを取つて戴くによつてのときんなり。珠数と云つぱ、いら高の珠数ではなうて、むさとしたる草の実を繋ぎ集め、珠数と名付く。この珠数にてひと祈り祈るならば、などか奇特のなかるべき。ぼろをん、ぼろをん、ぼろをん、ぼろをん。
▲強力「あゝ。申し申し。
▲シテ「何事ぢや。
▲強力「こなたの祈らせらるゝ程、強う挟みまする。
▲シテ「何ぢや。祈る程強う挟む。
▲強力「中々。
▲シテ「その儀ならば、この度は祈り殺いてやらう。
▲強力「何とぞ祈り殺いて下されい。
▲シテ「心得た。《謡》
いかに悪心深き蟹なりとも、明王の索にかけて今ひと祈り祈るならば、などか奇特のなかるべき。ぼろをん、ぼろをん。橋の下の菖蒲は、苅れども苅られず。折れども折られず。ぼろをん、ぼろをん、ぼろをん。
《祈る内、蟹、段々追ひかけて、シテの耳を挟むと、シヤギリ吹き出す。》
▲シテ「あゝ痛、あゝ痛、あゝ痛。
《シヤギリにて跳んで、蟹は両人を突き倒して這入る》
やいやい。あの蟹を捕らへてくれい。
▲両人「やるまいぞやるまいぞ。

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

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