『能狂言』中108 鬼山伏狂言 かきやまぶし

▲シテ「《次第》《謡》貝をも持たぬ山伏が、貝をも持たぬ山伏が、道々うそを吹かうよ。《名乗り、道行、「祢宜山伏」と同断》
これはいかな事。今朝、宿を早々立つたれば、殊の外、物欲しうなつたが。辺りに在所はないか知らぬ。いや。これに見事な柿がある。これを打ち落といて食べう。やつとな、やつとな。中々届く事ではない。いや。礫を打たう。これに、幸ひ手頃な石がある。これを打たう。やつとな、やつとな。中々、傍へも行かぬ。何としたものであらうぞ。いや。これに登つて喰へと云はぬばかりの、良い登り所がある。これへ登つて食べう。やつとな。はゝあ。下で見たと違うて、格別見事な。これは、どれに致さうぞ。いや、これが良さゝうな。これに致さう。扨も扨も、旨い柿かな。この様な旨い柿を、つひに喰うた事がござらぬ。今度はどれに致さうぞ。これが見事な。さりながら、これはちと渋さうなが。まづ、食べて見よう。さればこそ渋い。《と云うて、種を吹き散らす》
▲アド「これは、この辺りに住居致す者でござる。某、樹木をあまた持つてござるが、当年は、柿が大なり致いてござる。柿と申すものは、えて人の取りたがるものでござる程に、見舞ひに参らうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、当年の様に大なり致いた事はござらぬ。人ばかりでもござらず、鳶烏も突きたがる程に{*1}、油断のならぬ事でござる。《廻り掛かり、柿の実、頭に当たる》
はて。合点の行かぬ事ぢや。これはいかな事。柿の木へ、いかめな山伏が登つて柿を喰ふ。何としてやらうぞ。いやいや。山伏を荒立つれば、かへつて仇をなすと申す程に、散々になぶつて帰さうと存ずる。
やあやあ。あの柿の木の蔭へ隠れたを、人かと思へば、あれは烏ぢや。
▲シテ「はあ。烏ぢやと云ふ。
▲アド「烏といふものは、啼くものぢやが。おのれ、啼かぬか。啼かずば、人であらう。弓矢をおこせ。射殺いてやらう。
▲シテ「啼かずばなるまい。こかあ、こかあ、こかあ。
▲アド「さればこそ啼いた。扨、ようよう見れば、あれは烏ではない。猿ぢや。
▲シテ「又、猿ぢやと云ふ。
▲アド「猿といふものは、身ぜゝりをして啼くものぢやが。啼かぬか。啼かずば、人であらう。鉄砲を持つて来い。撃ち殺いてやらう。
▲シテ「身ぜゝりをして啼かずばなるまい。きやあ、きやあ、きやあ。
▲アド「さればこそ啼いた。扨々、きやつは物真似の上手な奴でござる。今度はちと、きやつが困る事がありさうなものぢやが。それそれ。
あれをようよう見れば、猿でも烏でもない。鳶ぢや。
▲シテ「又、鳶ぢやと云ふ。
▲アド「鳶といふものは、羽を伸して啼くものぢやが。おのれ、啼かぬか。啼かずば、人であらう。一矢に射殺いてくれう。
▲シテ「はをのして啼かずばなるまい。ひい、よろよろよろ。
▲アド「さればこそ啼いた。最前から間もある程に、もはや飛びさうなものぢやが。
▲シテ「これはいかな事。飛ばずばなるまい。
▲アド「はあ。飛ばうぞよ。
▲シテ「ひい。
▲アド「飛びさうな。
▲シテ「ひい。
《幾遍も云うて》
ひい、よろよろよろ。
▲アド「よいなりの。急いで罷り帰らう。
▲シテ「やいやいやい。そこなやつ。
▲アド「やあ。
▲シテ「やあとは。おのれ、憎い奴の。最前から、この尊い山伏を、鳥類畜類に譬ふるのみならず、あまつさへ鳶ぢやと云ふ。総じて、山伏の果ては鳶にもなると云ふによつて、身共も鳶になつたかと思うて、あの高い所から飛んだれば、まだ産毛も生へぬものを飛ばせ居つて。腰の骨をしたゝかに打たせ居つた。さあさあ。汝が宿へ連れて行て、看病をせい。
▲アド「いや。おのれは憎い奴の。柿を盗んで喰らふ山伏を、誰が看病するものぢや。
▲シテ「そのつれな事を云ふたらば、ために悪からうぞよ。
▲アド「ために悪からうと云うて、何とする。
▲シテ「目に物を見せう。
▲アド「それは誰が。
▲シテ「身共が。
▲アド「そちが分として、目に物を見せたりとも、深しい事はあるまいぞ。
▲シテ「ていと、さう云ふか。
▲アド「おんでもない事。
▲シテ「おのれ、悔やまうぞよ。
▲アド「何の悔やまう。
▲シテ「たつた今、目に物を見せう。
《常の如く、「それ、山伏と云つぱ」を云うて、「何と殊勝なか」と云ふ。「ぼろん、ぼろん。橋の下の菖蒲」も云うて》
▲アド「この様な所に長居は無用。急いで罷り帰らう。これは何とする、何とする。扨々、これは奇特な事ぢや。
《橋掛りへ行きさうにして、段々と後へ祈り戻さるゝ体》
是非に及ばぬ。宿へ連れて行て、看病をせう程に、これへ負はれい。
▲シテ「心得た。
▲アド「きつと捕らへて居よ。
▲シテ「心得た。
▲アド「やつとな。やい、聞くか。
▲シテ「何事ぢや。
▲アド「宿へ連れて行て看病をするは易けれども、おのれが様に、柿を盗んで喰ふ山伏は、まづ、かうして置いたが良い。《と云うて、真ん中へ打ち倒して入る》
▲シテ「やいやいやいやい。この尊い山伏をこの様にして、将来がようあるまい。あの横着者。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞやるまいぞ。

校訂者注
 1:底本は、「鳶烏も着たがる程に」。『狂言全集』(1903)に従い改めた。

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

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