『能狂言』中109 鬼山伏狂言 ふくろふ

▲兄「これは、この辺りに住居致す者でござる。某、弟をいち人持つてござるが、二、三日以前、山へ参つてござるが、戻りまするとその儘、むつけてござる。それにつき、こゝにお目を懸けさせらるゝお先達がござるによつて、今日はこれへ参り、頼うで加持を致いて貰はうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。かう参つても、お宿にござれば良うござるが。お宿にさへござつたならば、来て下さらぬと申す事はござるまい。いや。参る程にこれぢや。まづ案内を乞はう。
物申。案内申。
▲シテ「《謡》九識の窓の前、十畳のゆかの辺りに、瑜伽の法水をたゝへ、三密の月を澄ます所に、案内申さんと云ふは。
誰そ。
▲兄「私でござる。
▲シテ「ゑい。そなたならば案内に及ばうか。つゝと通りは召されいで。
▲兄「左様には存じてござれども、もしお客ばしござらうかと存じて、それ故、案内を乞ひましてござる。
▲シテ「それは近頃、念の入つた事ぢや。扨、今は何と思うておりやつたぞ。
▲兄「只今参るも、別なる事でもござらぬ。私の弟を御存じでござるか。 
▲シテ「中々。知つて居るが、何としたぞ。
▲兄「二、三日以前、山へ参つて、戻りまするとその儘、むつけましてござる。何とぞ御出なされて、加持をなされて下されうならば、忝うござる。
▲シテ「某もこの間、別行の仔細あつて、いづ方ヘも出ねども、そなたの事ぢやによつて、行てもやらうか。
▲兄「それは近頃、忝うござる。
▲シテ「それならば、まづ和御料からおりやれ。
▲兄「まづ、こなたからござれ。
▲シテ「いやいや。案内者のために、まづそなたから行かしめ。
▲兄「その儀ならば、私から参りませう。さあさあ。ござれござれ。
▲シテ「参る参る。扨、あの太郎は、日頃達者な者であつたが、何としてむつけた事ぢや知らぬ。
▲兄「誠に、日頃丈夫な者でござるが、何と致いてむつけましたか。いや。参る程に、これでござる。こなたは、つゝと通らせられい。
▲シテ「心得た。早う太郎を連れて渡しめ。
▲兄「畏つてござる。《楽屋へ入り、太郎を肩に掛けて出る》
やいやい。太郎。気をはつきりと持て。これはいかな事。扨々、正体もない体ぢや。
申し申し。弟を連れて参りました。
▲シテ「はあ。誠にこれは、殊の外むつけた。まづ、脈を見て取らせう。
▲兄「それは、忝うござる。
《後ろへ廻りて、頭脈を見る》
申し申し。何とでござるぞ。
▲シテ「殊の外の邪気ぢや。さりながら、某がひと加持したならば、その儘快うなるであらう。
▲兄「その儀ならば、御加持をなされて下されい。
▲シテ「心得た。《祈り、常の如く、又、替つてすれば》《謡》
それ、山伏と云つぱ、役の行者の跡を継ぎ。
何と、殊勝なか。
▲兄「御殊勝さうにござる。
▲シテ「《謡》胎金両部の峯を分け。《イロ》不浄を隔つる忍辱の袈裟を掛け。《謡》いら高の珠数ではなうて、むさとしたる草の実を繋ぎ集め、珠数と名づく。この珠数にてひと祈り祈るならば、などか奇特のなかるべき。ぼろおん、ぼろおん。橋の下の菖蒲は、誰が植ゑた菖蒲ぞ。折れども折られず、苅れども苅られず。ぼろおん、ぼろおん、ぼろおん。
▲弟「ほゝん。
▲シテ「いや。なうなう。あれは、何とした事ぢや。
▲兄「さればその事でござる。何と致いた事でござるか、折々、あの様な事を申しまする。
▲シテ「はて。合点の行かぬ事ぢや。今のは、何やらの鳴く声によう似たが。をゝ。それそれ。梟の鳴く声にその儘ぢやが、何ぞ思ひ合はする事はおりないか。
▲兄「はあ。左様に仰せらるれば、この間、山へ参つた時分に、梟の巣おろしを致いたとやら、申しましてござる。
▲シテ「むゝ。すれば、疑ひもない。梟が憑いたものであらう。
▲兄「いかさま。梟が憑いたものでござらう。
▲シテ「良い良い。今ひと祈り祈つて、祈り離いてやらう。
▲兄「何とぞ祈り離いて下されい。
▲シテ「心得た。《常の如くして》《謡》
いかに悪心深き梟なりとも、烏の印を結んで掛け。《これも替へなり》東方に降三世明王、南方に軍荼利夜叉明王、西方に大威徳明王、北方に金剛夜叉明王、中央に大日大聖不動明王のさつくに掛けて、今ひと祈り祈るならば、などか奇特のなかるべき。ぼろおん、ぼろおん、ぼろおん、ぼろおん。
▲弟「ほゝん。《と云うて、兄へ吹き掛くる。兄、息を吹き掛けられ、身を縮め、手足を掻きて》
▲兄「ほゝん。
▲シテ「これはいかな事。又、兄へも移つた。兄をも祈らずばなるまい。《謡》
いかにあちらこちらへ移る梟なりとも、いろはの文にて今ひと祈り祈るならば、などか奇特のなかるべき。ぼろおん、ぼろおん、ぼろおん。いろはにほへと。ぼろおん、ぼろおん。ちりぬるをわか。ぼろおん、ぼろおん。よたれそつねな。ぼろおん、ぼろおん。
《兄弟とも、山伏へ息を吹き掛け吹き掛け、「ほゝん、ほゝん」と云ふ。山伏も、移りて、身を縮め手足を掻く様にして》
ほゝん。《と云ふと、シヤギリ吹き出す。跳んで、正面にて》
ほゝん。

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

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