『能狂言』中110 鬼山伏狂言 こしいのり
▲卿の殿「《次第》《謡》大峯かけて葛城や、大峯かけて葛城や、我が本山に帰らん。
これは、出羽の羽黒山より出でたる、駈け出の山伏です。この度、大峯葛城を仕舞ひ、只今本国へ罷り下る。さりながら、某、都に祖父をいち人持つてござるが、久しう見舞ひませぬによつて、よいついでゞござる程に、見舞うて羽黒へ戻らうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、行は万行ありとは申せども、取り分き山伏の行は、役の行者の跡を継ぎ、雨露を厭はず、明け暮れ山野を家として取り行ふ事なれば、難行苦行は申すも愚かな事でござる。その奇特には、空を翔くる翅をも目の前へ祈り落とすが、山伏の行力です。いや。何かと申す内に、都近うなつたやら、殊の外賑やかになつた。さればこそ、これは早、都へ上り着いた。誠に、久々で上つたれば、殊の外賑やかで、家作りなども結構な事でござる。扨、久しい事でござるによつて、おほぢ御のお宿をしかと覚えぬが、確かにこの辺りぢやと思うた。まづ案内を乞うて見よう。《常の如く》
▲冠者「誰そ。どなたでござる。
▲卿殿「これは、卿の殿でおりやる。
▲冠者「やあやあ。きやうの殿でござるか。
▲卿殿「中々。
▲冠者「扨も扨も、久しう見ませぬ内に、いかめなお山伏にならせられてござるの。
▲卿殿「扨、汝は太郎冠者か。
▲冠者「左様でござる。
▲卿殿「誠に、久しうて逢うたによつて、身共も見忘れた。何と、祖父御には変らせらるゝ事もおりないか。
▲冠者「随分御息災にござるが、常々、こなたのお噂ばかりを仰せられてござりまする。
▲卿殿「さうであらう。扨、某が来た通りを申し上げてくれい。
▲冠者「畏つてござる。まづ、こなたは座敷へ通らせられい。
▲卿殿「心得た。《脇座へ着く》
▲冠者「申し申し。祖父御様。卿の殿の御出なされてござる。
▲シテ「何ぢや。今日は良い天気ぢやと云ふか。
▲冠者「いやいや。左様ではござらぬ。卿の殿の御出なされてござる。
▲シテ「やあやあ。卿の殿がわせた。
▲冠者「中々。
▲シテ「やれやれ。懐かしや懐かしや。それはどれに居るぞ。早う逢はせてくれい。
▲冠者「表へ通らせられてござる程に、早うあれへ出させられい。
▲シテ「心得た。やれやれ。祖父は年が寄つて、腰が痛い。早う床机をくれい。
▲冠者「畏つてござる。はあ。お床机でござる。
▲シテ「やいやい。太郎太郎。
▲冠者「はあ。
▲シテ「卿の殿はどれに居るぞ。
▲冠者「あれにござりまする。
▲卿殿「申し申し。これに居りまする。
▲シテ「むゝ。あれが卿の殿か。
▲冠者「左様でござる。
▲シテ「扨も扨も、久しう見ぬ内に、恐ろしい山伏におなりやつたなう。
▲卿殿「はあ。扨、私も、駈け出には師匠の供を致しまする。その上、難行苦行に暇がござらいで、久々御無沙汰を致いてござるが、祖父御にも御息災で、めでたうござる。
▲シテ「この祖父は、卿の殿には見捨てらるゝ。聞けばこの頃、御大名衆に、人をあまた抱へさせらるゝと云ふによつて、この祖父は、年は寄つたれども、弓の者になりとも鉄砲の者になりとも、出うと思ふですわ。
▲卿殿「御腹立ちは御尤ではござれども、只今も申しまする通り、行法に暇がなうて、御無沙汰致いてござる。
▲シテ「それは、その様な事もあらう。さりながら、余り久しう来なんだ程に、腹が立つて、逢ふまいかと思うたれども、逢うたれば嬉しうて、腹が癒た。
やい。太郎よ。
▲冠者「はあ。
▲シテ「あの卿の殿は、ゑのころが好きぢやによつて、来たならば取らせうと思うて、ゑのころを飼うて置いたが、久しう来ぬ内に大きうなつた。あれなりと欲しがらば、取らせてくれい。
▲冠者「畏つてござる。
▲卿殿「やいやい。太郎。むさとした事を仰せらるゝ。
▲冠者「左様でござる。
▲シテ「やいやい。太郎よ。
▲冠者「はあ。
▲シテ「卿の殿は飴が好きぢや。違ひ棚にあらう。早う取らせい。
▲冠者「心得ました。
▲卿殿「これはいかな事。皆、某が幼少の時分の事を仰せらるゝ。
▲冠者「左様でござる。
▲卿殿「扨、祖父御には随分御息災さうなが、殊の外、御腰がかゞませられた。定めて御窮屈にあらう。
▲冠者「殊の外、御窮屈にござりまする。
▲卿殿「何と、某が行力で祈り直いて上げうが、何とあらうぞ。
▲冠者「これは一段と良うござりませう。その通り申し上げて見ませう。
▲卿殿「それならば、伺うてくれい。
▲冠者「心得ました。
申し申し。祖父御様。卿の殿の仰せらるゝは、そのかゞませられた御腰を、卿の殿の、行力で祈り直いて上げませうかと仰せられまする。
▲シテ「何ぢや。この祖父が腰を、祈り直いてくれう。
▲冠者「中々。
▲シテ「なう。物狂やぶつきやうや。何と、この百とせに余る祖父が腰が、いかに行力が強いと云うて、直るものぢや。少しも苦しうないと云へ。
▲冠者「さりながら、折角仰せらるゝ事でござるによつて、祈り直いて貰はせられたらば、良うござらう。
▲シテ「それならば、ともかくも良い様にしてくれいと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
申し申し。祈り直いてくれいと仰せられまする。
▲卿殿「心得た。ひと祈りして祈り直いて上げう。
《常の如く祈る。段々祈るに従つて、腰伸びて、仰向く》
▲シテ「やいやい。太郎太郎。
▲冠者「はあ。
▲シテ「扨も扨も、奇特な事ぢや。この様に腰が伸びて、久しうて日天子を拝む事ぢや。
▲冠者「申し申し。殊ないお悦びでござる。
▲卿殿「それは近頃、満足する。
▲シテ「やいやい。太郎太郎。
▲冠者「はあ。
▲シテ「扨、これは、いつまでこの様にして居る事ぢやと云うて、問うてくれい。
▲冠者「畏つてござる。
申し申し。いつまであの様にして御出なさるゝ事ぢやと仰せられまする。
▲卿殿「御一生の間、その通りぢやと云うてくれい。
▲冠者「御一生の間、その通りぢやと仰せられまする。
▲シテ「何ぢや。一生、このていぢや。
▲冠者「中々。
▲卿殿「なう。物狂やぶつきやうや。何と、一生この様にして居らるゝものぢや。早う元の様にして返せと云へ。
▲冠者「申し申し。元の様にして返せと仰せられまする。
▲卿殿「これはいかな事。それならば、又、祈り直いて上げう。今度は後ろから祈らう。《謡》
いかに悪心深き祖父御の腰なりとも、明王の索にかけて今ひと祈り祈るならば、などか奇特のなかるべき。ぼろおん、ぼろおん、ぼろおん。
《「橋の下の菖蒲」を云ふ。今度は前へ祈り倒す》
▲シテ「あゝ痛、あゝ痛、あゝ痛。やい。太郎。あの卿の殿は、この年寄つた祖父をなぶりに来たか。早う元の様にして返せと云へ。腹立ちや腹立ちや。
▲冠者「申し申し。殊の外の御立腹でござる。何とぞ、元の様に祈り直いて上げさせられい。
▲卿殿「某が行力が余り強いによつてぢや。又、今度は前から祈り起こさう程に、汝は良い時分に、後ろからつり張りをかへ。
▲冠者「畏つてござる。
▲卿殿「《謡》いかにあちらこちらへくなりくなりとする祖父御の腰なりとも、いろはのもんにて今ひと祈り祈るならば、などか奇特のなかるべき。ぼろおん、ぼろおん。いろはにほへと。ぼろおん、ぼろおん。ちりぬるをわか。ぼろおん、ぼろおん。つり張りをかへ。ぼろおん、ぼろおん、ぼろおん。
《「つり張りをかへ」と云ふ時、太郎、後ろから橦木杖を腰へ当てる。シヤギリになり、留める》
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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