『能狂言』中111 鬼山伏狂言 まくらものぐるひ
▲アド一「これは、この辺りに住居致す者でござる。某、祖父をいち人持つてござるが、承れば、恋をなさるゝと申すが、誠しからぬ事ではござれども、皆、左様に仰せらるゝによつて、今日はあれへ参り、様子を見ようと存ずる。それにつき、こゝに相孫がござる程に、これをも誘うて参らうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。かう参つても、内に居らるれば良うござるが。もし居られぬ時は、参つた詮もない事でござる。参る程に、これぢや。まづ、案内を乞はう。《常の如く》
只今参るも別なる事でもござらぬ。承れば、おほぢごには恋をなさるゝと申す。こなたには、聞かせられてござるか。
▲アド二「私も、左様に承つてはござれども、よもや、誠ではござるまいと存じてござるが。すれば、真実でござるか。
▲ア一「中々。左様でござる。それにつき、私の存じまするは、今日、こなたと私と、あれへ参つて承つて、なる事ならば、老いの慰みに叶へて進ぜうと存じまするが、何とござらう。
▲ア二「これは一段と良うござらう。
▲ア一「それならば、まづこなたからござれ。
▲ア二「まづ、こなたからござれ。
▲ア一「私から参りませうか。
▲ア二「それが良うござらう。
▲ア一「さあさあ。ござれござれ。
▲ア二「参る参る。
▲ア一「誠に、祖父御の、あの年で恋をなさるゝと申すは、何とも似合はぬ事ではござれども、老いの慰みに、なる事ならば、何とぞ叶へて進ぜたいものでござる。
▲ア二「仰せらるゝ通り、なる事ならば、叶へて進ぜたい事でござる。
▲ア一「いや。参る程に、これでござる。
▲ア二「誠に、これでござる。
▲ア一「さらば、案内を乞ひませう。
▲ア二「それが良うござらう。
▲ア一「いかに、おほぢ御。孫どもが。
▲両人「御見舞ひに参つて候ふ。疾う疾う出させられいや。《サガリハ。打ち上げて》
▲シテ「《謡》枕物にや狂ふらん、枕物にや狂ふらん。寝るも寝られず起きもせず。理や。枕の後より恋の責め来れば、安からざりし身の狂乱は、木枕なりけり。ありや笹の張り枕、ありや笹の張り枕、ぬしぞ恋しかりける。乙御前ぞ恋しかりける。逢ふ夜は君の手枕、来ぬ夜はおのが袖枕、枕余りに床広し。寄れ枕、こち寄れ枕。枕さへ疎むか。げにもさあり、やようがりもさうよの。
▲ア一「いかに祖父御。孫どもが。
▲両人「御見舞ひに参つて候ふ。
《枕を隠し、太鼓座にて懐へ入れ、肩を入れて》
▲シテ「むゝ。何ぢや。孫どもが見舞ひに来たと云ふか。
▲両人「中々。
▲シテ「やれやれ。ようこそおりやつたれ。まづ、かう通られい{*1}。
▲両人「畏つてござる。
▲シテ「このおほぢは、年が寄つて腰が痛い程に、早う床机をくれさしめ。
▲ア一「心得ました。早う上げさせられい。
▲ア二「心得ました。はあ。お床机でござる。
▲シテ「両人ともに、これへ出さしめ。
▲両人「畏つてござる。
▲シテ「扨、この間は久しう見えなんだが、何として見えなんだぞ。
▲ア一「この間は、両人とも渡世にひまがなうて。
▲両人「御無沙汰致しましてござる。
▲シテ「その様な事は知らず、両人の孫どもには見捨てらるゝ。聞けば、この頃御大名衆に、人をあまた抱へさせらるゝと云ふによつて、この祖父も、年は寄つたれども、弓の者になりとも、又、鉄砲の者になりとも、出うと思ふですわ。
▲ア一「御恨みは御尤でござるが、只今も申す通り、渡世にひまがござらいで、御無沙汰致いてござる。扨、承れば、祖父御には、恋をなさるゝと申す事でござるが、誠でござるか。
▲シテ「何ぢや。鯉をくれう。はあ。それは近頃、満足した。さりながら、おほぢは年が寄つて、歯が悪しい程に、魚頭や中打ちはそなた達喰うて、身どころばかりをくれさしめ。
▲ア一「中々。鯉も上げませうが、祖父御には。恋をなさるゝと申すが、誠でござるか。
▲シテ「何ぢや。恋をする。
▲ア一「中々。
▲シテ「なう、物狂やぶつきやうや。総じて、恋の、思ひのといふ事は{*2}、十九や二十の者にこそあれ。何と、この百とせに余るおほぢが恋をするものぢや。鯉やら鮒やら、知り候はぬよ。
▲ア一「近頃、御尤ではござれども、今日、両人とも参りまするも、別なる事でもござらぬ。なる事ならば、老いの慰みに、叶へて進じませうと存じて参りました。包まずとも、仰せられい。
▲シテ「この祖父は、恋はせねども、こゝに恋の怖ろしい物語がある。語つて聞かせう。ようお聞きやれ。
▲ア一「承りませう。
▲シテ「そなたもよう聞かしめ。
▲ア二「はあ。
▲シテ「扨も、京極の御息所、日吉詣の折節、御車の物見の御簾を吹き上げしひまより、志賀寺の聖人、只一目御覧じて、しづ心なき恋{*3}とならせ給ふ。この事、世以て隠れなければ、同宿達聞こし召し、いゝや、苦しからぬ事。御文を参らせられて、御心を慰まれ候へかしとありしかば、さあらばとありて、一首の歌を贈らるゝ。その歌は、初春の初音の今日の玉箒手に取るからに揺らぐ玉の緒と、只、ひと揺らめかし揺らめかいて、遣はさるゝ。その御返歌に、極楽の玉の台の蓮葉に我を誘なへ揺らぐ玉の緒と、又、ひと揺らめかし揺らめかいて、御返歌をなされければ、それより聖人の御恋も晴れ、いよいよ尊き身とならせ給ふ。又、柿の本の貴僧正は、染殿の后を恋ひかね、加茂の御手洗川に身を投げ、青き鬼となつて、その本望を遂げらるゝ。《謡》
おほぢもこの恋叶はずば、いかなる井戸の中、溝の底へも身を投げ、青き鬼とはえならずとも。青き蛙ともならばやと、思ひ定めて候ふ。《謡》
恋よ恋。我なか空になすな恋。恋風が来ては、袂にかいもつれて、なう。袖の重さよ。恋風は重いものかな。《泣きて》
あゝ。浮世はいらぬ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
▲ア一「申し。隠させらるゝな。早、お色に出ましてござる。
▲シテ「やあやあ。何と仰しやる。はや、色に出たと仰しやるか。
▲ア一「中々。
▲シテ「それは誠か。
▲ア一「誠でござる。
▲シテ「真実か。
▲ア一「一定でござる。
▲シテ「それならば、何を隠さうぞ。それ。先月の地蔵講は、辻の刑部三郎が頭ではなかつたか。
▲ア一「中々。刑部三郎が頭でござりました。
▲シテ「あのさぶが娘に、やゝと云うてあるわ。
▲ア一「その、やゝが事でござるか。
▲シテ「いゝや。そのやゝではなうて、やゝが妹に、おとゝ云うてあるわ。
▲ア一「その、おとが事でござるか。
▲シテ「をゝ。その乙が、出居に鉄漿付けて居た処へ、この祖父が行たれば、おとが云ふは、何とておほぢ御には、疾う御出あつて、地蔵の法号なりとお唱やらいでと云うて、につこと笑うた顔を見たれば、なう。しほらしや、しほらしや。天目程の靨が七、八、十も入つた。余りにしほらしう思うたによつて、行き違ひざまに、ふつゝりとつめつたれば、乙が腹を立てゝ、物と云うた。
▲ア一「何と。
▲シテ「物と。
▲ア一「何と。
▲シテ「《謡》推参のおほぢめや。
▲地「《謡》推参のおほぢめや。きはめて色は黒うして、口はすけみて目は腐り、老いぼれたるか祖父とて。
▲シテ「《謡》鏡にても打てかし。
▲地「《謡》べに皿にても打たずして、この枕をおつ取つて、おほぢが顔を丁と打つ。打たれて目はまくらとなりたれど、只恋しきは乙御前と、足ずりしてぞ泣き居たる。
▲シテ「《謡》捨てゝも置かれず。
▲地「《謡》取れば面影に立ち増り、起き臥し我が手枕より、後より恋の責め来れば、詮方枕に臥し沈む事ぞ恋しき。
《オモアド、入つて、乙を連れて出》
▲ア一「いかに祖父御。これこそ、おことの恋ひ給ふおとごぜよ。《謡》
よくよく寄りて見給へとよ。
《かつぎを取る》
▲シテ「はあ。したり、したり。《謡》
恨めしや。疾くにも出させ給ひたらば、かやうに老いの恥をばさらさじものを。あら恨めしとは思へども。
▲地「《謡》たまたま逢ふは乙御前か。げにもさあり、やようがりもさうよの。
▲シテ「なう。愛しの人。こちへ渡しめ、こちへ渡しめ。
校訂者注
1:底本は、「通らい」。
2:底本は、「思ひの云事は」。『狂言全集』(1903)に従い補った。
3:底本は、「しづ恋」。『狂言全集』(1903)に従い補った。
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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