『能狂言』中112 鬼山伏狂言 らうむしや
▲三位「《次第》《謡》人目を包む旅なれば、人目を包む旅なれば、まだ夜の内に出でうよ。
これは、曽我の里に住居する者にて候ふ。これにござ候ふ御方は、さる御方にて候ふが、鎌倉一見ありたき由、仰せ候ふ程に、某、御供致し、只今鎌倉へと志し候ふ。《道行》《謡》
住み馴れし、まづ曽我よりも立ち出でゝ。《打ち切り》まづ曽我よりも立ち出でゝ、足に任せて行く程に、藤沢のしゆくには着きもせで、傍なる宿に着きにけり。
急ぎ候ふ程に、これは、藤沢の傍なる宿に着いて候ふ。扨、はや日も暮れ掛かつてござる程に、これにお宿を借りませう。
まづ、かうござれ。
物申。案内申。
▲亭主「案内とは誰そ。どなたでござる。
▲三位「これは、旅の者でござるが、いち夜の宿を貸して下されい。
▲亭主「易い事。つゝと通らせられい。
▲三位「お児を伴ひましてござるが、つゝと物恥づかしがりを致されまする程に、随分と奥の間を貸して下されい。
▲亭主「何が扨、心得ました。つゝと通らせられい。
▲三位「心得ました。お宿を借りました程に、つゝと通らせられい。《ちご、脇座へ着き、三位、その次に居る》
▲若衆一「申し。いづれもござるか。
▲連若衆「何事でござる。
▲衆一「承れば、今夜、誰が所へ、美しいお児の泊まらせられたと申す程に、参つてお盃を戴かうではござらぬか。
▲衆二「これは一段と。
▲若衆「良うござらう。
▲衆一「さあさあ。ござれござれ。
▲若衆「参る参る。
▲衆一「扨々、誰は仕合せな者でござる。
▲衆二「その通りでござる。
▲衆一「いや。参る程に、これでござる。私が案内を乞ひませう。それに待たせられい。
▲若衆「心得ました。
《常の如く案内を乞ひ》
▲衆一「只今参るも、別なる事でもござらぬ。承れば、今夜これへ、美しいお児の泊まらせられたと申すによつて、何とぞ御盃が戴きたいと申して、いづれも若い衆の参られてござる程に、この由を仰せられて、御盃を戴かせて下されい。
▲亭主「何が扨、今夜、お児のお宿を申してござるが、つゝと物恥づかしがりをなさるゝと申す事でござるによつて、何とござりませうか。まづ、伺うて見ませう。
▲衆一「それならば、良い様に頼みまする。
▲亭主「心得ました。
申し申し。これは、見苦しい所へお宿を申して、近頃面目もござらぬ。
▲三位「いゑ。御亭主でござるか。
▲亭主「何と、お草臥れにござりませう。
▲三位「いや。左様にもござらぬ。
▲亭主「扨、ちと願ひがござる。
▲三位「それは又、いかやうな事でござる。
▲亭主「さればその事でござる。何と致いて聞かれましてござるか、このしゆくの若い衆の見えまして、何とぞお児の御盃が戴きたいと申されまするが、なされて下されうか。
▲三位「最前も申す通り、つゝと物恥づかしがりを致されて、中々その様な事は、思ひも寄らぬ事でござる。良い様に断りを仰せられて下されい。
▲亭主「すれば、どうあつてもなりませぬか。
▲三位「中々。なりませぬ。
▲児「やいやい。三位三位。何事を云ふぞ。
▲三位「その事でござる。こなたのこの所へ宿らせられたを、宿の若い衆の聞かれまして、御盃が戴きたいと云はれまする。
▲児「何ぢや。盃がしたい。
▲三位「中々。
▲児「それは易い事。盃をしてやらう。
▲三位「お盃をなされまするか。
▲児「中々。
▲三位「申し申し。お盃をせうと云はれまする。
▲亭主「それは忝い事でござる。さぞ悦びませう。その儀ならば、これへ通しませう。
▲三位「さりながら、忍びの事でござる程に、随分と密かに頼みまする。
▲亭主「心得ました。
申し申し。お児の、お盃をなされうと仰せられまする。かう通らせられい。
▲衆一「それは悦ばしい事でござる。
いづれも。かうござれ。
▲若衆「心得ました。
▲衆一「不案内にござる。
▲三位「初対面でござる。
▲衆一「今夜は、こゝ元へお児の泊まらせられたと承つて、お盃の事を願ひましたれば、なされて下されうとござつて、近頃忝うござる。
▲三位「不調法な生まれで、面目もござらぬ。
▲亭主「はあ。お盃を持ちましてござる。
▲三位「それならば、こなた一つ参つて、どれへなりとも差させられい。
▲児「呑うで差すか。
▲三位「中々。それならば、注ぎませう。はあ。一つ参るか。それを参つて、どれなりとも、こなたの思し召し次第に差させられい。
▲児「それならば、あの男に差いてくれい。
▲三位「畏つてござる。
申し申し。こなたへ差すと仰せられまする。
▲衆三{*1}「私へ下さるゝ。
▲三位「中々。
▲衆三{*2}「これはありがたうござる。注いで下されい。
▲三位「心得ました。
▲衆三{*3}「恰度ござる。
▲三位「ちやうどござる。
▲衆三{*4}「扨、これを三位殿へ進じませう。
▲三位「戴きませう。ちと謡はせられい。
▲衆三{*5}「心得ました。
《小謡。それより立頭へ差し、亭主へも差し、色々乱酒になり、小謡、小舞あり。児にも小舞を所望する。三位、辞退するを、児、「舞はう」と云うて、「土車」などを、いかにも不調法に舞ふ。児の舞済むと、シテ、出る》
▲シテ「これは、この所の宿老でござる。承れば、誰が所へ、美しいお児の泊まらせられたと申すによつて、老いの慰みにあれへ参り、御盃を戴かうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。いや。来る程にこれぢや。早、酒盛が始まつたと見えて、賑やかな。
なうなう。誰はおりやるか。居さしますか。
▲亭主「申し申し。宿老の声が致す。まづ、静かになされい。
▲若衆「心得ました。
▲亭主「誰そ。どなたでござる。いゑ。お宿老。出させられてござるか。
▲シテ「をゝ。身共でおりやる。
▲亭主「これは、何と思し召して、出させられてござるぞ。
▲シテ「今来るも、別なる事でもない。聞けば、今夜、そなたの所へ美しい少人の泊まらせられたと聞いたによつて、某も、老いの慰みに御盃が戴きたうて、わざわざ来た程に、良い様に云うて、御盃を戴かせてくれさしめ。。
▲亭主「近頃易い事ではござれども、つゝとお忍びの事でござる程に、これはなりますまい。
▲シテ「尤も、お忍びではあらうずれど、美しいお児の、この宿へ泊まらせらるゝといふは、珍しい事ぢや。その上、今聞けば、酒盛のある体ぢや。折りも良い程に、是非ともさう云うてくれさしめ。
▲亭主「それならば、何を隠しませう。只今、若い衆の見えて、酒盛最中でござる程に、まづ戻らせられい。
▲シテ「むゝ。若い者といふは、当宿の者どもか。
▲亭主「いかにも左様でござる。
▲シテ「いゑ。それは一段の事ぢや。身共は又、なるまいかと思うて気遣ひにあつたが、若い者どもが来て居るならば、どりや。身共もそれへ行て、御盃を戴かう。
▲亭主「あゝ。まづ、待たせられい。扨々、こなたはむさとした事を仰せらるゝ。あの若い衆の内には、こなたの子達や孫達もござるに、あれへ出させられては、いづれも気が詰まりまする。その上、お忍びの事でござつて、大勢になつてもいかゞでござる程に、のちにござれ。
▲シテ「やあら。そちこそ、むさとした事を云ふ。お忍びぢやと云うて、若い者をば通して置いて、身共いち人、入る事はならぬといふ事があるものか。どうあつても通らねばならぬ。
▲亭主「さりとて、聞き分けのない。ならぬではござらねども、後にござれと申す事でござる。
▲シテ「おのれ。この宿老の云ふ事を聞かずば、ために悪からうぞよ。
▲亭主「ために悪からうと云うて{*6}、何と召さる。
▲シテ「この宿に置くまいが、何とする。
▲亭主「いよいよ、こなたはかさ高な事を仰せらるゝ。いかに宿老ぢやというて、そのつれな無体な事を仰しやつたならば、この上は、お児の御盃をなされうと仰せられうと、儘よ。身共が支へてさすまいが、何とする。
▲シテ「何ぢや。そちがさゝへてさすまい。
▲亭主「中々。
▲シテ「扨々、憎い奴の。年こそ寄つたれ、この上は、身共も踏ん込んで、御盃を戴いて見せう。
▲亭主「いやいや。どうあつても通す事はならぬ。
▲シテ「云ひ掛かつた事ぢや。身共も通らねばならぬ。
▲亭主「どうあつても通す事ではない。
《と云うて、突き倒す》
▲シテ「あゝ痛、あゝ痛、あゝ痛。やいやいやい。そこな奴。
▲亭主「やあ。
▲シテ「やあとは。おのれ、憎い奴の。この年寄つた者を、したゝかに痛め居つて。ためになるまいぞ。
▲亭主「ためにならぬと云うて、何と召さる。
▲シテ「目に物を見せう。
▲亭主「それは誰が。
▲シテ「身共が。
▲亭主「年寄りの分として、深しい事があるものか。
▲シテ「ていとさう云ふか。
▲亭主「おんでもない事。
▲シテ「悔やまうぞよ。
▲亭主「何の悔やまう。
▲シテ「たつた今、目に物を見せう。なう。腹立ちや腹立ちや。
《この言葉の内に、三位、「何とやら、表が姦しうなつてござるが、気の毒な事ぢや」など云ふ。立衆、「いやいや。宿老の参つて、無理な事を申すによつての事でござる。お気遣ひはござらぬ」など云ふ》
▲亭主「申し申し。只今、当所の宿老の見えて、かれこれ申しましたを、やうやうと戻いてござる。
▲衆一「それは、一段の事でござる。
《と云うて、又、酒を始めて、小謡など謡ふ。児、「饅頭が喰ひたい」の、或いは「やんまが来た」など云ふを、三位、叱る》
▲亭主「やあやあ。それは誠か。真実か。扨々、それは苦々しい事ぢや。
申し申し。いづれも聞かせられい。お宿老の、最前通さなんだとて、腹を立てられて、追つ付けこれへ押し寄せて参ると申すが、何と致いて良うござらうぞ。
▲三位「何と仰せらるゝ。宿老の押し寄せらるゝ。
▲亭主「中々。
▲三位「扨々、それは苦々しい事でござるが、何と致いて良うござらうぞ。
▲衆一「いや。申し申し。その様に騒がせらるゝな。年寄りの押し寄せたと申して、深しい事があるものでござるか。
▲亭主「その様に仰せらるゝな。長道具で押し寄すると申しまする。
▲衆一「いかに長道具ぢやと申しても、我々が加勢致しまする程に、必ず気遣はせらるゝな。
▲三位「その儀ならば、いづれも頼みまするぞ。
▲衆一「心得ました。
皆、これへ寄らせられい。
《三位の下より並び、後ろ向きにて肩を脱ぎ、櫂棹を一本づゝ持つ》
▲シテ「《一セイ》《謡》老武者は、腰に梓の弓を張り、翁さびたる鑓、長刀を、かたげ連れてぞ押し寄せたる。
▲衆一「《謡》若衆の勢はこれを見て。《打ち切り》
▲衆亭「《謡》若衆の勢はこれを見て、昔は知らず当代は、にやくぞくどもこそひと手はとれ、いかに勢ひ給ふとも、さしたる事はあらじものをと、一度にどつとぞ笑ひける、一度にどつとぞ笑ひける。《皆々、笑ふ》
▲シテ「《謡》年寄りどもは腹を立て。《打ち切り》
▲シテ連祖父「《謡》年寄りどもは腹を立て、熊坂の入道六十三、斎藤別当実盛も、六十に余つて討死する。その他老武者の、喰うたる所が蛸になるとて、或いは。
▲シテ「《謡》七十。
▲シ祖「《謡》或いは。
▲シテ「《謡》八十。
▲シ祖「いづれも劣らぬ老武者ども、切つ先を揃へて掛かりけり。ゑいとう、ゑいとう、ゑいとう。
▲三位「《謡》若衆の内より下知をなし。
▲三若亭「《謡》さすがにこれは親方達なり。構へて構へて過ちすなと、いだき取り抱き取り制すれば、思ひの外なる若族づきし、思の外なる若族づきして、我が家々にぞ帰りける。
校訂者注
1~5:底本は、「▲若衆〇「」。
6:底本は、「為にわるいといふて」。『狂言全集』(1903)に従い改めた。
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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