『能狂言』中113 鬼山伏狂言 ひげやぐら
▲シテ「罷り出でたる者は、洛中に住居致す者でござる。今度、禁中において、大嘗会のまつりごとゝやらんに、いかにも大髭なる者に、さいの鉾の役を仰せ付けられうとあつて、洛中洛外をお尋ねなさるれども、とかく某程大髭はないとあつて、則ち、幸の鉾の役を仰せ付けられて、この様なありがたい事はござらぬ。急いで女共を呼び出し、髭のさうやくをも致させ、又、衣装をも拵へさせうと存ずる。
いや。なうなう。これのは内に居さしますか。
▲女「妾を用ありさうに呼ばせらるゝは、いかやうな事でござる。
▲シテ「ちと用の事がある程に、まづ、かう通らしめ。
▲女「御用と仰せらるれば、心元なうござるが、いかやうなお事でござるぞ。
▲シテ「別に気遣ひな事ではおりない。今度、禁中において、大嘗会のまつりごとゝやらんに、いかにも大髭なる者に、幸の鉾の役を仰せ付けられうとあつて、洛中洛外をお尋ねなさるれども、とかく某程大髭なる者はないとあつて、身共に仰せ付けられたが、何とありがたい事ではないか。
▲女「やれやれ。それはありがたい事でござる。定めて、衣装をも結構に拵へて下さるゝでござらう。
▲シテ「これはいかな事。この様な結構な役を仰せ付けらるゝさへあるに、何と、衣装までを下さるゝものぢや。それにつき、そなたを呼び出すも、別なる事でもおりない。和御料は髭の澡浴をもし、又、衣装をも拵へてくれさしめ。
▲女「これはいかな事。こなたはむさとした事を仰せらるゝ。この朝夕の煙さへ立てかぬる身代で、何と、結構な衣装が出来るものでござるぞ。これは、お断を仰せられたが良うござる。
▲シテ「いやいや。綸言汗の如くで、一旦仰せ付けられた事は、ひるがへす事はならぬ。是非とも拵へてくれさしめ。
▲女「扨々、こなたはむさとした事を仰せらるゝ。今も申す通り、こなたの身代で、何と衣装が出来るものでござるぞ。とかくその髭があるによつて、この様な役を仰せ付けらるゝ。常々妾も、むさくろしく思うて居ますに。幸ひぢや。その髭を剃つて仕舞はせられい。
▲シテ「やあら。おのれは憎いやつの。この髭は、誰が髭ぢや。もはや、天下の髭ぢや。これに指なりと差いて見居れ。只置く事ではないぞ。
▲女「いかに天下の髭ぢやと云うて、その様な事を仰しやる。とかくこれは、引きむしつてのけう。
▲シテ「おのれ、憎いやつの。甘やかいて置けば、方領もない。散々に打擲してやらう。憎いやつの、憎いやつの、憎いやつの。
▲女「あ痛、あ痛、あ痛。やいやいやい。わ男。妾をこの様に打擲して。ために悪からうぞよ。
▲シテ「ために悪からうと云うて、何とする。
▲女「目に物を見せう。
▲シテ「それは誰が。
▲女「妾が。
▲シテ「おのれが分で、目に物を見せう{*1}と云うて、深しい事があるものか。まだそれに居るか。あちへうせう、うせう、うせう。
▲女「あゝ痛、あゝ痛、あゝ痛。おのれ、悔やまうぞよ。
▲シテ「何の悔やまう。
▲女「たつた今、思ひ知らせてやらう。なう。腹立ちや腹立ちや。
▲シテ「扨々、憎いやつでござる。総別、この間、口ごはにござるによつて、いつぞは打擲致さう致さうと存ずる所に、今日と云ふ今日、思ひの儘に習はかいて、この様な満足な事はござらぬ。まづ、奥へ行て、ゆるりと休まうと存ずる。《笛の上へ座着く》
▲告げて「やあやあ。それは誠か。真実か。扨々、気の毒な事ぢや。
申し申し。こなたはなぜに、その様に落ち付いてござるぞ。
▲シテ「別に忙しい事もござらぬ。
▲告人「承れば、こなたはお内儀と、喧嘩をなされたではござらぬか。
▲シテ「喧嘩と申す程の事はござらぬが、余り口ごはな事を申したによつて、一つ二つ習はかいてござる。
▲告人「それが腹が立つと云うて、辺りの女房衆を語らうて、追つ付けこれへ、押し寄せて参らるゝと申す事でござる。
▲シテ「扨々、こなたはむさとした事を仰せらるゝ。あの女づれが押し寄せて参つたと申して、何程の事があるものでござるぞ。
▲告人「左様に仰せらるゝな。長道具で押し寄せて参ると申す事でござる。
▲シテ「何ぢや。長道具で。
▲告人「中々。
▲シテ「いかに女ぢやと申しても、長道具で押し寄するならば、ちと用心をせずばなりますまい。
▲告人「それならば、取り繕うて進じませう。これへ寄らせられい。
▲シテ「心得ました。
▲告人「まづ、この髭に要害をして進じませう。
▲シテ「これは一段と良うござらう。
▲告人「扨、この太刀で随分と防がせられい。
▲シテ「これは、忝うござる。とてもの事に、こなたは後を良い様にくろめて下されい。
▲告人「何が扨、心得ました。
▲シテ「頼みまするぞ。
▲女「《一セイ》《謡》二世までと、契りし甲斐もあら磯に、寄せて討ちとれ浦の波。
▲シテ「《謡》旧苔の髭の廻りの要害には、櫓、掻立上げたるぞや。かゝれやかゝれ、をなごども。
▲女「《謡》あら物々し、わ男よ。《打ち切り》
▲女連女「《謡》あら物々し、わ男よ。多勢にひとりが叶ふべきか。あら面憎や、つらにくや。《打ち切り》
▲シテ「《謡》たとひ女は多くとも。《打ち切り》たとひ女は大磯の、虎の尾をば踏むとも、城{*2}の髭をばよも抜かじ。
▲女連「《謡》互の問答、無益なり。髭をむしりてくれんとて、切つ先を揃へてかゝりけり。ゑいとう、ゑいとう、ゑいとう。
▲シテ「《謡》こゝはこらへぬ処なり。
▲女連「《謡》こゝはこらへぬ処なりとて、城の扉を押し開き、口の内より切つて出で、縦さま切り横さま切りに切り立てられ、さすが女の悲しさは、こらへずぱつとぞ逃げたりける、こらへずぱつとぞ逃げたりける。
▲シテ「ゑいゑいあふ。
▲女「《謡》その時女房腹を立て。
▲女連「《謡》たゞかいだてを引き破れとて、熊手、ない鎌打ち掛けて、ゑいやゑいやと引いたりけり。
▲シテ「《謡》すはすは、この髭抜けかゝるぞや。
▲女連「《謡》すはすは、この髭抜けかゝるとて。《打ち返しても》
▲シテ「《謡》こゝやかしこを防げども。
▲女連「《謡》多勢に無勢、叶はずして、掻立、櫓を引き落とされて、大勢ばつと寄り、さばかり慢ずる大髭を、大きな毛抜で挟まれて、大きな毛抜で挟まれて、根ながらぐつとぞ抜きにける。
▲女「ゑいゑいあふ。
《シテは、髭抜かれ、切り戸より入る》
校訂者注
1:底本は、「見せた」。
2:底本は、「城(マゝ)」。『和泉流狂言大成 第二巻』(1917)には「竜」とある。
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
コメント