『能狂言』中114 鬼山伏狂言 にやくいち
▲シテ「これは、四條辺りの聖人でござる。今朝、さる方へ斎に参つて、只今戻りまする。まづそろりそろりと参らう。誠に、あの人の様な丁寧な人はござらぬ。いつも馳走を致さるゝが、今日は取り分き、色々の馳走で充満致し、御酒をも過ごいてござる。寺へ戻つて、ゆるりと休まうと存ずる。《この内に、若市、一の松にて名乗る》
▲若市「これは、この辺に住居致す、若市と申す尼でござるが、今日は、さるお寺へ把針に頼まれて参る。まづそろりそろりと参らう。今日参るお寺のお児が、花好きでござるによつて、さる方でこの菊を貰うてござる。これを進ぜたならば、さぞ喜ばるゝでござらう。
▲シテ「いゑ。若市。
▲若市「いゑ。御聖人様。どれへ御出なされまする。《と云ひながら、菊を後ろへ隠す》
▲シテ「今朝は、さる方へ斎に行て、只今戻る処でおりやる。
▲若市「それは近頃、御苦労に存じまする。
▲シテ「扨、この間は久しう寺へも見えぬが、何と、変る事もおりないか。
▲若市「中々。妾も変る事もござらねども、あなたこなたと把針に頼まれまして、お寺へも御無沙汰致いてござる。
▲シテ「いやいや。そなたも定めて、若い新発意どものある寺へばかり行て、愚僧が辺りへは来ぬものであらう。
▲若市「又、御聖人様のおざれ言を仰せられまする。何かと致いて御無沙汰致しましてござる。
▲シテ「扨、そなたの持つたは、菊の花ではないか。
▲若市「中々。菊でござる。
▲シテ「扨々、それは見事な花ぢやが、そなたの庭前か、但しは、他から貰うておりやつたか。
▲若市「さればその事でござる。これは、さる方の菊でござるが、今日参るお寺のお児が、殊ない花好きでござるによつて、これへ進ぜうと存じて、二、三本貰うて参りました。
▲シテ「見れば見る程、見事な花ぢや。ちとこれへ見せさしめ。
▲若市「どれから見させられても、同じ事でござる。それから御覧ぜられい。
▲シテ「いやいや。これから見ては知れぬ。その上、何とやら見た様な花ぢや程に、平にこれへ見せさしめ。
▲若市「世に似た花もあるものでござる。それから見させられい。
▲シテ「とかく、遠いから見ては知れぬ。どうあつても、これへ見せさしめ。
《と云うて、無理に取りて》
《と云うて、無理に取りて》
さればこそ。これは、身共が花壇の菊ぢや。
▲若市「扨々、こなたは異な事を仰せらるゝ。今も申す通り、世には似た花は何程もござる。それは今朝、さる方で貰うて参つた花でござる。
▲シテ「やあら。おのれは口のあいた儘に、そのつれな事を云ふか。この間、花壇の菊を何者やら荒らすによつて、目印を付けて置いたれば、その花も見えぬ。定めてそちが取つたものであらう。欲しくば欲しいと云うたならば、やるまいものでもないに。尼の分として、盗むといふ事があるものか。
▲若市「なう。物狂や。こなたは人聞き悪しい事を仰せらるゝ。妾も、欲しくば左様に申して貰ひまする。何として盗むものでござるぞ。御出家の身として、その様なむさとした事は、仰せられぬものでござる。
▲シテ「とかく、この花を持たせて置くによつて、腹が立つ。散々に引きむしつて捨てゝのけう。
▲若市「なう。腹立ちや。妾が花をむしるといふ事があるものか。元の様にして戻し居ろ。
▲シテ「のき居れ。
▲若市「何とする。
▲シテ「何とすると云うて、尼の分として、身共に取り付くといふ事があるものか。
▲若市「はて。取り付かいで何とせう。妾が折角貰うて来た花を、むしるといふ事があるものか。こゝなわ坊主め、わ坊主め。
▲シテ「総別、甘やかいて置けば方領もない。おのれ、散々に打擲してやらう。憎い奴の、憎い奴の。
▲若市「あゝ。痛や痛や痛や。やいやいやい。わ坊主。妾をこの様に打擲して、ために悪からうぞよ。
▲シテ「ために悪からうと云うて、何とする。
▲若市「目に物を見せう。
▲シテ「それは誰が。
▲若市「妾が。
▲シテ「尼の分として、深しい事があるものか。
▲若市「悔やまうぞよ。
▲シテ「何の悔やまう。まだそれに居るか。あちへ失せう、失せう、失せう。
▲若市「あゝ痛、あゝ痛、あゝ痛。追つ付け思ひ知らせうぞ。なう。腹立ちや腹立ちや。
▲シテ「扨々、憎い奴でござる。かねがね、いつぞは打擲致いてやらうと存ずる処に、身共が秘蔵の花を盗みましたによつて、散々に習はかいてござる。まづ、寺へ戻つて休まうと存ずる。
▲告げて「やあやあ。それは誠か。一定か。扨々、苦々しい事ぢや。
申し申し。御聖人様。何としてその様に落ち着いてござるぞ。
▲シテ「別に用もござらぬ。
▲告人「承れば、若市と喧嘩をなされたと申すが、誠でござるか。
▲シテ「喧嘩と申す程の事ではござらねども、愚僧が秘蔵の菊を盗みましたによつて、散々に打擲致いてござる。
▲告人「すれば、偽りではござらぬ。それが腹が立つと云うて、洛中の尼どもを語らうて、追つ付けお寺へ押し寄せて参ると申しまする。
▲シテ「いや。申し。こなたも分別らしいお方かと存じてござるが、むさとした事を仰せらるゝ。たとひ尼どもが押し寄せて参つたと申して、何程の事があるものでござるぞ。
▲告人「いや。左様に仰せらるゝな。皆、長道具で押し寄せて参ると申す。
▲シテ「何ぢや。長道具で押し寄する。
▲告人「中々。
▲シテ「いかに女ぢやと申して、長道具ならば、ちと用心をせずばなりますまい。
▲告人「私が取り繕うて進じませう。これへ寄らせられい。
▲シテ「心得ました。
▲告人「この棒をもつて防がせられい。
▲シテ「これは忝うござる。後をも良い様にくろめて下されい。
▲告人「心得ました。
▲若市「《一セイ》《謡》声々に、日中鬨を作りかけ、鉦鼓を鳴らし時を打つて、聖人の御坊へ押し寄せたり。
▲シテ「その時聖人、高き所に走り上がり。《謡》
寄せ手の勢を見渡せば、尼方の勢は三百人。《打ち切り》
▲若市連尼「《謡》尼方の勢は三百人。思ひ思ひの出で立ちに、心々の打ち物抜き、仏前の庭まで乱れ入る。ゑいとう、ゑいとう、ゑいとう。
▲シテ「《謡》お前の勢はこれを見て。《打ち切り》
▲若尼「《謡》お前の勢はこれを見て、仲喜阿弥、隔夜聖人、我も我もとかゝり給へば。
▲若市「《謡》若市は小鎗を抜いて。
▲若尼「《謡》若市は小鎗を抜いて、昔の天野了観にも劣るまじと、こゝやかしこを突き廻れば、さしもに猛き御坊達も、突きまくられてぞ逃げたりける、突きまくられてぞ逃げたりける。
ゑいゑいあふ。
▲シテ「《謡》聖人腹に据ゑかねて、手棒を振り上げかゝり給へば。
▲若市「《謡》若市はこれを見て。
▲若尼「《謡》若市はこれを見て、ものものしと云ふ儘に、聖人とむづと組んで、二振り三振り振るぞと見えしが、聖人を振り転ばかし、取つて押さへて刺刀抜いて、帽子をがさと掻き落とし、差し上げて帰り給へば、残りの尼衆は悦びで、ぢつくぢくと踊りつれて、ぢつくぢくと踊りつれて、我が寮々にぞ帰りける。
▲若市「ゑいゑいあふ。
《と云うて、若市、もうすを差し上げて留める。聖人は、帽子を落とされて、切戸より入る》
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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