『能狂言』中115 鬼山伏狂言 ほふしがはゝ

▲シテ「《謡》ざゞんざ。浜松の音はざゞんざ。
あゝ。酔うた酔うた。殊の外たべ酔うた。いや。何かと云ふ内に、戻り着いた。
なうなう。これのはおりやるか。やい、女共。女共は居らぬか。
▲女「いや。戻られたさうな。戻らせられてござるか。
▲シテ「何ぢや。戻らせられたか。
▲女「中々。
▲シテ「今の程、声をばかりに呼うだに。どれに居た。
▲女「隣に居りました。
▲シテ「総別、某が表から戻れば裏からづる。又、裏から戻れば表から出る。あゝ。合点が行かぬ。暇をやる程に、出て行け。
▲女「又、今日も殊ない御機嫌と見えました。ちと奥へ行て、休ませられい。
▲シテ「置き居ろ。いつ、おのれが酒を盛つた事がある。その上、身共は寝たうない。男が暇をやるに、出て行くまいか。
▲女「すれば、真実でござるか。
▲シテ「真実でなうて、何とするものぢや。
▲女「その儀ならば、出て参りませうが、総じて暇を貰うには、男の手から塵を結んでなりとも取るものぢやと申す程に、何ぞ印を下されい。
▲シテ「何ぢや。塵を結んでくれい。易い事。さあさあ。これを持つて、早う出て行け。
▲女「なう。物狂やぶつきやうや。今のは譬へでこそあれ。何ぞ、こなたの身に付いた物を下されい。
▲シテ「何ぢや。身に付いた物をくれい。
▲女「中々。
▲シテ「暇をやる女に、何が惜しからうぞ。この小袖を遣る程に、これを持つて、早う出て行け。
▲女「すれば、一定でござるか。
▲シテ「まだくどい事を云うて。行かぬか。出て失せい、出て失せい、出て失せい。
▲女「あゝ痛、あゝ痛、あゝ痛。申し。かな法師は何となさるゝぞ。
▲シテ「かな法師に構ふ事か。まだそれに居るか。出て行け、出て行け。憎い奴の、憎い奴の、憎い奴の。
《女は、太鼓座へ着く》
扨も扨も、憎い奴でござる。いつぞは暇を遣らう遣らうと存ずる処に、今日と申す今日、暇を遣はして、この様な満足な事はござらぬ。心が清々と致いた。さらば、奥へ行て休まうと存ずる。
《シテ、中入りすると、女、立つて》
▲女「扨も扨も、苦々しい事でござる。又、例の御酒機嫌かと存じてござれば、誠に暇をくれられてござる。あの様な男は、藪を蹴ても五人や七人は蹴出しませうが、一人ある金法師が不憫にござる。《泣く》
まづ、急いで親里へ参らう。誠に、この事をとゝ様かゝ様の聞かせられたならば、さぞ肝を潰させらるゝでござらう。いや。まづ、この所にちと休らうて参らう。
《笛の上に座着く》
▲シテ《一声》「《謡》物に狂ふも五臓故、酒の仕業と覚えたり。春の脈は弓に絃、掛くるが如く狂ふにぞ、ありかも匂ひも懐かしや。咲き乱れたる花どもの、物云ふ事はなけれども、軽漾激して影唇を動かせば、花の物云ふは道理なり。《カケリ吹き、シホリながら尋ぬる》
いや。なうなう。あれなる人に物問はう。そなたへ、年の頃はたちばかりなる女は行かぬか。何。行かぬ。《又、カケリ吹き、尋ぬる》
これこれ。あれなる人に物問はう。そなたへ、年の頃二十ばかりなる女は行かぬか。いゝや。その、おはした連れたる女にてはなし。只ひとり、かいどり褄にて行かぬよ、なう。《又、カケリ吹く》《謡》
いつか又、法師が母に逢ひ竹の。
▲地「《謡》乱れ心や狂ふらん。《又、カケリ。舞。打ち上げて、打ち切り》
▲シテ「《謡》法師が母が能には。
▲地「《謡》法師が母が能には、まづ春は蕨折る。扨又夏は田を植ゑ、秋は稲場に行き通ひ、冬になれば我が宿の、背戸の窓にうち向かひて、むよみ布を織りつけ、織りたる布は何々。素襖袴や十徳、布子の表帷子をば、誰が織つてくれうぞ。法師が母ぞ恋しき。
▲女「《謡》法師が母は只一人、涙にむせぶばかりにて、親の元へぞ帰りける。
▲シテ「《謡》聞かまほしの御声や。あれは妻にてましますか。さりとては帰り合ひ、狂気をやめてたび給へ。
▲女「《謡》見目の悪きは生まれつき。いちど去りたる仲なれば、何しに帰り合ふべき。
▲シテ「《謡》見目の悪きとは、見目の悪きとは、たゞ酔狂の余りなり。誠に見目は美しや。
▲女「《謡》それは誠か。
▲シテ「《謡》中々に。
▲地「《謡》いちひとの見目の良いは、田中権のかみの継娘。聟になりたや、南無三宝。
▲シテ「なう。愛しの人。こちへ渡しめ、こちへ渡しめ。
▲女「心得ました、心得ました。

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

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