『能狂言』中116 鬼山伏狂言 つうゑん

▲ワキ「《次第》《謡》ぽろりとしたる往来の、ほろりとしたる往来の、茶替りのなきぞ悲しき。
これは、東国方より出でたる僧にて候ふ。我、未だ都を見ず候ふ程に、この度都へ上り、こゝかしこを一見つかまつゝて候ふ。又、これより南都一見と志し候ふ。《道行》《謡》
大水の先に流るゝ栃殻も。《打ち切り》先に流るゝ栃殻も。身を捨てゝこそ浮かぶなれ。我も身を捨て浮かまんと。《打ち切り》やうやう急ぎ行く程に、宇治橋の橋の橋柱の、擬宝珠の元に着きにけり。
急ぎ候ふ程に、これは早、宇治橋の元に着いて候ふ。又、これなる茶屋を見れば、茶の湯を手向け、由ありげに見えて候ふ。いかさま、謂はれのなき事は候ふまじ。所の人に尋ねばやと存ずる。
所の人の渡り候ふか。
▲間「所の者とお尋ねは、いかやうなる御用にて候ふぞ。
▲ワキ「これは、この所初めて一見の僧にて候ふが、これなる茶屋を見れば、茶の湯を手向け、由ありげに見えて候ふ。いかさま、謂はれのなき事は候ふまじ。教へて給はり候へ。
▲間「さん候ふ。あれは古へ、通円と申す茶屋坊主の候ひしが、宇治橋供養の時、つひに茶を点て死にせられて候ふ。則ち、今日命日にて候ふ間、ゆかりの人の手向けたる茶の湯にて候ふべし。お僧も、逆縁ながら弔うて、御通りあれかしと存じ候ふ。
▲ワキ「御教へ、祝着申して候ふ。さあらば、逆縁ながら弔うて通らうずるにて候ふ。
▲間「御用の事候はゞ、重ねて仰せ候へ。
▲ワキ「頼み候ふべし。
▲間「心得て候ふ。
▲ワキ「《謡》思ひ寄るべの茶屋の内、思ひ寄る辺の茶屋の内、筵も古きこのとこに、破れ衣をかた敷きて、夢の契りを待たうよ、夢の契りを待たうよ。
▲シテ「《一セイ》《謡》大場点て呑まし、客人胸にしむ、世を宇治川の水汲みて、あら昆布恋しや御茶かたの、あはれはかなき湯の中に。
▲地「《謡》鑵子のつるの熱きにも。
▲シテ「《謡》煮ゆる茶の湯は面白や。
▲ワキ「不思議やな。まどろむ枕の上を見れば、柄杓を腰に差し、影の如くに見え給ふは、いかなる人にてましますぞ。
▲シテ「今は何をかつゝむべき。これは古へ、宇治橋供養の時、茶を点て死にせし、通円と云つし茶屋坊主なり。
▲ワキ「扨は、通円にてましますかや。最期のありさま語り給へ。跡を訪うて参らせん。
▲シテ「さあらば、その時のありさま語り候ふべし。跡を訪うて給はり候へ。
扨も、宇治橋の供養、今を半ばと見えし処に、都道者と思しくて、通円が茶を飲み尽くさんと。《謡》
名乗りもあへず三百人。《打ち切り》
▲地「《謡》名乗りもあへず三百人。口脇を広げ茶を飲まんと、群れ居る旅人に大茶を点てんと、茶杓を押つ取り簸屑ども、ちやちやと打ち入れて、浮きぬ沈みぬ点てかけたり。
《ヤヲハ》
▲シテ「《謡》通円、下部を下知して曰く。
▲地「《謡》水の逆巻く所をば、砂ありと知るべし。弱き者には柄杓を持たせ、強きに水を担はせよ。流れん者には茶筅を持たせ、互に力を合はすべしと、只いち人の下知によつて、さばかりの大場なれども、一騎も残らずたてかけたてかけ、穂先を揃へて、こゝを最期と点てかけたり。さる程に入り乱れ、我も我もと飲む程に。
▲シテ「《謡》通円が茶飲みつる。
▲地「《謡》茶碗柄杓を打ち割れば。
▲シテ「《謡》これまでと思ひて。
▲地「《謡》これまでと思ひて、平等院の縁の下、これなる砂の上に、団扇を打ち敷き衣脱ぎ捨て座を組んで、茶筅を持ちながら、さすが名を得し通円が。《カケリ。舞》
▲シテ「《謡》埋み火の、燃え立つ事のなかりせば、湯のなき時は泡も立てられず。
▲地「《謡》跡訪ひ給へ、御聖。かりそめながらこれとても、茶生の種の縁に今、団扇の砂の草の陰に、ちやち隠れ失せにけり、跡ちやち隠れ、失せにけり。

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

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