『能狂言』中118 鬼山伏狂言 いうぜん
▲ワキ「《次第》《謡》我あらましの末遂げて、我あらましの末遂げて、会下笠や友となるらん。
これは、若狭の国轆轤谷より出でたる会下僧にて候ふ。我、未だ都を見ず候ふ程に、この度思ひ立ち、都一見と心ざし候ふ。《道行》《謡》
住み馴れし、我が会下笠をはるばると。《打切》我が会下笠を遥々と、あとに緑の青葉山、後瀬の山の椎の笠。《打切》はり畑峠打ち過ぎて、都の内にさしかゝり、甍の軒に着きにけり。
急ぎ候ふ程に、これは、都五條油の小路、甍の軒に着いて候ふ。あら、笑止や。俄かに時雨の降り来りて候ふ。これなるやどりに立ち越え、雨を晴らさばやと存ずる。
▲シテ「なうなう。あれなる御僧は、何とてそのやどりには立ち寄らせ給ふぞ。
▲ワキ「さん候ふ。傘を持たず候ふ程に、只今の時雨を晴らさんため、立ち寄つて候ふ。扨、これは、いかなる人の建て置かれたるやどりにて候ふぞ。
▲シテ「それは、祐善がやどりとて、雨もたまらぬ所なり。《謡》
構いてよくよくお弔ひあれと。
▲地「《謡》夕べの竹のかさかさと、藪の内にぞ入りにける、藪の内にぞ入りにける。
▲ワキ「近頃、不思議なる事にて候ふ。所の人に尋ねばやと存ずる。
所の人の渡り候ふか。
▲間「所の者とお尋ねは、いかやうなる御用にて候ふぞ。
▲ワキ「これは、都一見の僧にて候ふ。又、これなるやどりは、いかなる人の住み給ひたるやどりにて候ふぞ。
▲間「さん候ふ。あれは、古へ、この所に祐善と申す傘張りの候ひしが、いかにも下手にて、つひに傘を張り死にゝせられて候ふ。則ち、その祐善の建て置かれたるやどりにて候ふ。今日、命日にて候ふ間、御僧も、逆縁ながら、弔うて御通りあれかしと存じ候ふ。
▲ワキ「御教へ、祝着申して候ふ。さあらば、逆縁ながら、弔うて通らうずるにて候ふ。
▲間「御用の事候はゞ、重ねて仰せ候へ。
▲ワキ「頼み申し候ふ。
▲間「心得て候ふ。
▲ワキ「扨は、これなるは、祐善がやどりかや。《謡》
いざや跡訪ひ申さんと、永き日暮らしつれづれと、永き日暮らしつれづれと、五條辺りのあばら家に、袈裟の儘にて待ち居つゝ、今宵はこゝに旅寝して、かの祐善を弔はん、かの祐善を弔はん。
▲シテ「《一セイ》《謡》傘に縫ふ、菅の五月雨降る雨に、夜の御法を受くるばかりぞ。
▲ワキ「不思議やな。さも破れたる屋蔭より、影の如くに見え給ふは、いかなる人にてましますぞ。
▲シテ「これは最前、御僧に言葉を交はしつる、祐善が幽霊なるが、御弔ひのありがたさに、重ねて顕はれ出でゝ候ふ。
▲ワキ「扨は、祐善の幽霊なるかや。最期のありさま語り給へ。跡をば猶も弔はん。
▲シテ「いでいで、さらば語り申さんと、御前にさしかゝり。《謡》
祐善がゝらかさは。
▲地「《謡》祐善がゝらかさは、日本一の下手なりと、なほ漏らし離れ易し、嫌とて召す人なかりければ、あそこへ差し掛けこゝへ差し掛け、お傘召されよ傘召されよと、叫べども呼ばゝれども、人は答へず春ながら、日がさも早くたけ笠の、骨折れや、腹立ちやとて、神気の如くに狂ひ廻るは、只酔狂や。顔は朱傘の、赤きは猿の山王祭か。咎もなき人に向かつて、さはらば冷やせと悪口すれば、彼がゝしらをわりだめや茶杓撓めにし、轆轤を放せとありしかば、命はすでに蠅とり傘の、地獄の底にすみ傘なりしを、今会ひがたき御法を会下傘。弘誓の船に半帆を上げて、はちすの花傘蓮の葉傘を、差し張りて行く程に、これぞ誠の極楽世界、これぞ誠の極楽世界の編み傘や。南無阿弥傘のほのかに見えてぞ失せにける。
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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