『能狂言』中119 鬼山伏狂言 たこ

▲ワキ「《次第》《謡》茶替りもなき往来の、茶替りもなき往来の、行く末何となるらん。
これは、筑紫方より出でたる僧にて候ふ。我、未だ都を見ず候ふ程に、この度思ひ立ち、都一見と志し候ふ。《道行》《謡》
筑紫人、空言云ふとや思ふらん。《打ち切り》空言云ふとや思ふらん。我は誠の修行にて、清水の浦に着きにけり。
急ぎ候ふ程に、清水の浦に着いて候ふ。心静かに浦の景色を眺めばやと存ずる。
▲シテ「なうなう。あれなるお僧に申すべき事の候ふ。
▲ワキ「こなたの事にて候ふか。何事にて候ふぞ。
▲シテ「これは、こぞの春、身罷りたる蛸の幽霊なり。《謡》
構いてよくよくお弔ひあれと。
▲地「《謡》かき消す様に失せにけり、かき消す様に失せにけり。
▲ワキ「扨も扨も、不思議なる事かな。いかさま、謂はれのなき事は候ふまじ。所の人に尋ねばやと存ずる。
所の人の渡り候ふか。
▲間「所の者とお尋ねは、いかやうなる御用にて候ふぞ。
▲ワキ「これは、この所初めて一見の者にて候ふが、この浦において、去年の春、大きなる蛸の上がりたる事はなく候ふか。
▲間「さん候ふ。去年の春、大きなる蛸の上がりて候ふを、所の者ども打ち殺し、賞翫仕つて候へば、悉く祟りをなし申して候ふ間、則ち、土中に突き込め、あとを懇ろに弔ひ申し候ふ。お僧も、逆縁ながら、弔うて御通りあれかしと存じ候ふ。
▲ワキ「懇ろに御教へ、祝着申して候ふ。さあらば、逆縁ながら、弔うて通らうずるにて候ふ。
▲間「御用の事候はゞ、重ねて仰せ候へ。
▲ワキ「頼み申し候ふ。
▲間「心得て候ふ。
▲ワキ「扨も、幽霊蛸の尉か。仏事は様々多けれども、心経を以て弔ひけり。《謡》
阿耨だこ三百三銭にて買うて、仏にこそは手向けゝれ、仏にこそは手向けゝれ。なまだこ、なま蛸、なま蛸。
▲シテ「《一セイ》《謡》あら、拙なの蛸の生涯やな。あら、ありがたや候ふ。
▲ワキ「不思議やな。人家も見ゆる昼中に、人かと思へば人間にてもなし。いかなる者ぞ、名を名乗れ。
▲シテ「これは最前、お僧に言葉を交はしつる、蛸の幽霊なるが、お弔ひのありがたさに、これまで顕はれ出でゝ候ふ。
▲ワキ「扨は、蛸の尉が幽霊なるかや。最期のありさま語り候へ。後を訪うて得さすべし。
▲シテ「さあらば、最期のありさま語り候ふべし。後を訪うて給はり候へ。扨も、我、この浦に年久しく住んで、漁師の網をあなたこなたと逃れしに、去年の春は大網を、沖の方より置き廻し、逃れもやらず引き上げられて、渋皮も、剥けよ剥けよと洗はれて、削り立てたる俎板の上に。《謡》
引き据ゑられて後ろより。《打ち切り》
▲地「《謡》引き据ゑられて後ろより、庖丁をおろし当てらるれば、まなこもくらみ息詰まつて、うつ伏せに押し伏せられて、つばを吐いてぞ{*1}伏したりける、つばを吐いてぞ伏したりける。
▲シ「《謡》しかうして起き上がれば。
▲地「《謡》しかうして起き上がれば、或いは四方へ張り蛸の、照る日に晒され、足手を削られ塩にさゝれて、暇もなき苦しびなるを、妙なる御法の庭に出でゝ、仏果に至るありがたさよ。只一声ぞ南無阿弥陀仏、只一声ぞなまだことて、かき消す様にぞ失せにける。

校訂者注
 1:底本は、「づ(マゝ)をはいてぞ」。『狂言全集』(1903)に従い補った。

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

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