『能狂言』下121 出家座頭狂言 はらたてず
▲アド一「これは、この辺りに住居致す者でござる。某、志の深い者で、この程小庵を結んでござるが、未だ似合はしい住持がござらぬ。それにつき、私ばかりでもござらぬ、今いち人申し交はいた人がござるが、もし、あのかたに相応な者もござるか、今日はあれへ参り、承らうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。かう参つても、お宿にござれば良うござるが。もしお宿にござらぬ時は、参つた詮もない事でござる。いや。参る程に、これぢや。まづ案内を乞はう。
物申。案内申。
▲アド二「いや。表に物申とある。案内とは誰そ。どなたでござる。
▲ア一「私でござる。
▲ア二「いゑ。こなたならば、案内に及びませうか。つゝと通りはなされいで。
▲ア一「左様には存じてござれども、もしお客ばしござらうかと存じて、それ故、案内を乞ひましてござる。
▲ア二「それは近頃、念の入つた事でござる。扨、只今は、何と思し召しての御出でござるぞ。
▲ア一「只今参るも、別なる事でもござらぬ。扨、こなたの方に、住持はござりませぬか。
▲ア二「さればその事でござる。私も方々と尋ねまするが、未だ似合はしい者もござらぬが。何と、こなたの方にはござりまするか。
▲ア一「私も、あなたこなたと探しまするが、今に相応な者も、ござりませぬ。
▲ア二「扨々、それは苦々しい事でござる。
▲ア一「それにつき、私の存じまするは、上下の街道へ参つたならば、似合はしい者の通らぬ事はござるまい程に、言葉を掛け、住持に頼まうと存じまするが、何とござらうぞ。
▲ア二「これは一段と良うござりませう。
▲ア一「扨は、御同心でござるか。
▲ア二「いかにも同心でござる。
▲ア一「それならば、まづこなたからござれ。
▲ア二「先次第にござれ。
▲ア一「せんと仰せらるゝによつて、私から参りませうか。
▲ア二「それが良うござらう。
▲ア一「さあさあ。ござれござれ。
▲ア二「参る参る。
▲ア一「扨、かやうの事も、尋ぬる時は、ないものでござる。
▲ア二「仰せらるゝ通り、坊主はあつても、思はしい者はござらぬ。
▲ア一「上下の街道へ参つたならば、似合はしい者の通らぬ事はござるまい。
▲ア二「何が扨、通らぬ事はござるまい。
▲ア一「参る程に、上下の街道でござる。
▲ア二「左様でござる。
▲ア一「まづ、この所に休らうて居りませう。
▲ア二「それが良うござらう。
▲シテ「これは、東国方の出家でござる。某、未だ上方を見物致さぬにより、この度都へ上り、名所旧跡を見物致し、又、良さゝうな所もあらば、足をも止めうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、皆人の仰せらるゝは、若い時旅を致さねば、年寄つての物語がないと仰せらるゝによつて、ふと思ひ立つてござる。あはれ、良い所もあれかし。足をも止めうものを。
▲ア一「いや。申し。これへ、似合はしい出家が参りまする。言葉を掛けて見ませう。
▲ア二「それが良うござらう。
▲ア一「いや。なうなう。しゝ申し。
▲シテ「やあやあ。こちの事でござるか。何事でござるぞ。
▲ア一「いかにもこなたの事でござる。聊爾な申し事ながら、どれからどれへござるぞ。
▲シテ「私の。
▲ア一「中々。
▲シテ「私は、風に木の葉の任する如くにて候ふ。
▲ア一「これは、面白いお答へでござるが、それには仔細ばしござるか。
▲シテ「中々。仔細がござる。総じて、木の葉と申す物は、風が吹けば、いづ方までも参りまする。又、風が已めば、どこになりとも止まりまする。私もその如く、止め手があれば、止まりまする。又、止め手がなければ、いづ方までも参りまするによつて、それ故、只今の通り申した事でござる。
▲ア一「仔細を承れば、尤でござる。その儀ならば、私が止めませうが、止まつて下さるゝか。
▲シテ「止めてさへ下さるゝならば、止まりませう。
▲ア一「かやうに申すも、別なる事でもござらぬ。私は志の深い者でござつて、小庵を取り結んでござるが、未だ似合はしい住持がござらぬによつて、これへ据ゑましたうござる。
▲シテ「それは、出家の望む所でござる。据ゑてさへ下さるゝならば、据わりませう。
▲ア一「それは近頃、忝うござる。扨、私一人でもござらぬ。今一人申し合はいた人がござる。これとお知る人に致しませう。まづ、それに待たせられい。
▲シテ「心得ました。
▲ア一「申し申し。私の止めてござれば、早速止まられてござる。こなたもあれへ行て、近付きにならせられい。
▲ア二「心得ました。
申し申し。あの仁の止められましたに、早速止まつて下されて、近頃忝うござる。
▲シテ「止めて下されて、忝う存じまする。
▲ア一「扨、なん時なりともござらうか。
▲シテ「なん時なりとも参りませう。
▲ア一「それならば、まづこなたからござれ。
▲シテ「私は不案内にござる。まづ、こなたからござれ。
▲ア一「その儀ならば、私から参りませう。さあさあ。ござれござれ。
▲シテ「こなたはござらぬか。
▲ア二「まづござれ。
▲シテ「ちと、間を隔てませう。
▲ア二「それが良うござる。
▲シテ「さあさあ。ござれござれ。
▲ア二「参りまする、参りまする。
▲ア一「扨、かやうにふと言葉を掛け、同道致すは、他生の縁でがなござらうぞ。
▲シテ「仰せらるゝ通り、他生の縁でがなござらう。かう参るからは、万事良い様に引き廻いて下されい。
▲ア一「何が扨、その分はお気遣ひなさるゝな。扨、お手を書かせらるゝか。
▲シテ「手を書くと申す程の事ではござらねども、みゝずのぬたくつた様な事や、又、雀の躍つた足跡の様な事を致いて、心覚えを致す事でござる。
▲ア一「それは定めて、お卑下でござらう。かやうに申すも、別なる事でもござらぬ。両人とも、幼いを持つてござるによつて、ゆくゆくは、こなたの御指南を受けたうござる。
▲シテ「左様の幼いお方に御指南を申すは、私の得物でござる。
▲ア一「それは、一段の事でござる。
▲ア二「もし経を御存じでござるか。
▲シテ「まづ、待たせられい。
▲ア二「何事でござる。
▲シテ「まづ、私の覚えました経は、法華経一部八巻、地蔵経、阿弥陀経、その他、しくわらくわいのくわいまでは覚えて居りまするが、もし経と申す経は、覚えませぬ。
▲ア一「それは、あの仁の申しやうが悪しうござる。もし経ではござらぬ。もし、経を御存じでござるかと申す事でござる。
▲シテ「何が扨、出家の役でござるによつて、只今の通りは覚えて居りまする。
▲ア一「それは一段の事でござる。扨又、こなたのお名は、何と申しまする。
▲シテ「はあ。私の名の。
▲ア一「中々。
▲シテ「はあ。それは、坊主となりと、新発意となりと、仰せられい。
▲ア一「何と、尊い御出家を、坊主の、新発意のと呼ばるゝものでござるぞ。是非とも仰せられい。
▲シテ「どうあつても申せでござるか。
▲ア一「中々。
▲シテ「ちと待たせられい。
▲ア一「心得ました。
はて。異な事に詰まられてござる。
▲ア二「左様でござる。
▲シテ「これはいかな事。私は師匠にかゝつて居る内から、新発意、新発意と呼ばれて、未だ名がござらぬ。何と致さう。いや、致し様がござる。
▲ア一「申し申し。こなたのお名は、何と申しまする。
▲シテ「私の名の。
▲ア一「中々。
▲シテ「腹立てずの正直坊と申しまする。
▲ア一「これは又、面白い御名でござるが、これにも仔細でもござるか。
▲シテ「さればその事でござる。総じて、私は師匠にかゝつて居る内から、楊枝を一本取り違へた事がなし。その上、つひに腹を立てぬとあつて、師匠の、腹立てずの正直坊と付けられてござる。
▲ア一「近頃、殊勝なお名でござる。まづ、それに待たせられい。
▲シテ「心得ました。
▲ア一「申し。今のを聞かせられてござるか。
▲ア二「これで承つてござる。
▲ア一「それにつき、私の存じまするは、世に正直な者はござるが、腹を立てぬ者はござるまいによつて、こなたと私と致いて、なぶりまして、腹を立てずば、真の出家でござらうず。もし腹を立てたならば、売僧でござらうによつて、追ひ戻いて遣りませうが、何とござらうぞ。
▲ア二「これは一段と良うござらう。
▲ア一「それならば、こなた、あれへ行て、名を問はせられい。
▲ア二「心得ました。申し申し。私はあれに居まして、お名を承りませぬが、何と申しまするぞ。
▲シテ「腹立てずの正直坊と申しまする。
▲ア二「これは結構なお名でござる。
▲ア一「いや。申し申し。私はつゝと物覚えの悪しい者で、はや、お名を失念致いてござるが。何とやら申しましたの。
▲シテ「腹立てずの正直坊でござる。只、腹を立ていで正直なとさへ思し召せば、済む事でござる。
▲ア一「はあ。何とやら、後光が差す様にござる。
▲シテ「いや。左様にもござらぬ。
▲ア二「やい。わ坊主。おのれが名は、はらはらの正月坊か。
▲シテ「こゝな者は、むさとした。はらはらの正月坊といふ名があるものか。腹立てずの正直坊ぢやいやい。
▲ア二「そりや、腹を立つるわ。
▲シテ「いゝや。立ては致さぬ。
▲ア一「やい。わ坊主。そちが名は、はらはらの障子骨か。
▲シテ「なう。こゝな人。出家の名に、はらはらの障子骨といふ名があるものか。腹立てずの正直坊ぢやいやい。
▲ア一「そりや、腹を立つるわ。
▲シテ「いゝや。立ては致さぬ。
▲ア二「やい。わ坊主。おのれが名は、はらはらの腹こぎか。
▲シテ「やい。こゝな者。腹こぎといふ名があるものか。腹立てずの正直坊ぢやいやい。
▲ア二「そりや、腹を立つるわ。
▲シテ「いゝや。立ては致さぬ。
▲ア一「やい。わ坊主。おのれが名は、はらはらの腹らこぢや。
▲シテ「やい。こゝな者。出家の名に、腹らこといふ名があるものか。腹立てずの正直坊ぢやいやい。
▲ア一「そりや、腹を立つるわ。
▲シテ「いゝや。立ては致さぬ。
▲ア二「そりや、腹を立つるわ。
▲シテ「いゝや。立ては致さぬ。
《両方より、ひたもの突き出す。「いゝや。腹は立てぬ」と云ふ。余り度々突かれて》
あゝ。申し申し。
▲両人「何事ぢや。
▲シテ「腹は立たねども、両人しておなぶりやるによつて、業が煮ゆるいやい。
▲ア一「あのやくたいなし。
▲両人「とつとゝ行かしめ。
▲シテ「面目もおりない。
底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.)
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