『能狂言』下122 出家座頭狂言 さつまのかみ

▲シテ「これは、遥か遠国方の出家でござる。某、未だ上方を見物致さぬにより、今度都へ上り、名所旧跡残りなく見物致し、それより淀、山崎、西の宮までは一見致いてござる。又、これより住吉、天王寺へ参詣致さうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、出家程心安いものはござらぬ。あなたこなたの憐みを受けて、楽々と旅を致いて通る事でござる。これはいかな事。今朝、宿を早々立つたれば、殊の外喉が渇くが、この辺りに茶屋はないか知らぬ。いや。これに茶屋がある。
なうなう。茶屋殿。茶を一つ下されい。
▲茶屋「茶を参るか。
▲シテ「中々。
▲茶屋「進じませう。《茶を汲みて》さらば参れ。
▲シテ「これへ下されい。結構なお茶でござる。今一つたべませう。
▲茶屋「気に入つたならば、いか程なりとも参れ。《又、汲みて》さらば参れ。
▲シテ「これへ下されい。もはや、たべますまい。
▲茶屋「早、参らぬか。
▲シテ「中々。お蔭で、喉の渇きを已めましてござる。忝うござる。かう参りまする。
▲茶屋「これこれ。代りを置いて行かしめ。
▲シテ「代りとは。
▲茶屋「茶代を置いて行かしめ。
▲シテ「その茶には、代りがいりまするか。
▲茶屋「こゝな人は。往還で茶屋をしながら、茶代りを取らぬといふ事があるものか。この所は一服一銭ぢや。そなたは二服参つた程に、二銭置いて行かしめ。
▲シテ「一服一銭が二服一銭でも、代りは持ちませぬ。
▲茶屋「こゝな人は。旅をもする者が、茶代りを持たぬといふ事があるものか。扨、そなたはこれから、どれへ行くぞ。
▲シテ「住吉、天王寺へ参る。
▲茶屋「住吉、天王寺へ行く道には、神崎の渡しというて、隠れもない大河がある。それには定めて、十丁の船賃がづるが、それは何とするぞ。
▲シテ「かち渡りに致しませう。
▲茶屋「いかないかな、かち渡りになる河ではおりない。
▲シテ「それならば、上へなりと下へなりと、廻りませう。
▲茶屋「上へ廻つても下へ廻つても、中々只渡らるゝ河ではおりない。
▲シテ「是非に及びませぬ。これから伏し拝みに致しませう。
▲茶屋「すれば、真実、持ち合はせはおりないか。
▲シテ「くどい事を仰せらるゝ。それ程に思し召さば、この珠数なりとも、この笠なりとも、取らせられい。
▲茶屋「いやいや。茶代りを取らうではない。扨々、それは気の毒な事ぢや。それならば、茶代りの事は扨置き、船賃をおまさう。
▲シテ「それは忝うござる。これへ下されい。
▲茶屋「いやいや。せんちんと云うて、手へ渡す物ではおりない。あの神崎の渡し守は、殊の外秀句好きで、秀句さへ云へば、悦うで船に乗するによつて、秀句を教へておまさうかといふ事でござる。
▲シテ「習うてなる事ならば、教へて下されい。
▲茶屋「別に難しい事でもおりない。あれへおりやつて、船にお乗りやつたならば、定めて船賃をおこせと云うであらう処で、船賃は薩摩守と仰しやれ。
▲シテ「左様に申しても、苦しうござらぬか。
▲茶屋「中々。苦しうおりない。心はと問はゞ、忠度と答へさしめ。
▲シテ「畏つてござる。
▲茶屋「この心は、昔、平家の公達に、薩摩守忠度といふお方があつた。又、そなたがあれへ行て、只船にお乗りやるによつて、薩摩守と云ひ掛け、たゞのりと答へさせうためぢや。かうさへ仰しやつたならば、悦うで船にたゞのするであらうぞ。
▲シテ「これは忝うござる。大方覚えました。扨、私はもう、かう参りませう。
▲茶屋「もはやおりやるか。
▲シテ「下向に参つて、このお礼はきつと申しませう。
▲茶屋「お尋ねに預からうとも。
▲シテ「さらばさらば。
▲茶屋「ようおりやつた。
▲シテ「はあ。
なうなう。嬉しや嬉しや。茶代りの事は扨置き、船賃までを貰うてござる。まづ急いで参らう。誠に、旅は情け、人は心と申すが、あの様な人がなければ、我ら如きの貧僧は、旅はなりませぬ。いや。参る程に、大きな河へ出た。茶屋の教へたは、定めてこの河の事であらう。扨、乗る物が見えぬが、どこ元にある事ぢや知らぬ。いや。つゝとあれに見ゆる。急いで呼ばう。
ほゝい、ほゝい。
▲船頭「いや。道者があると見えた。これはいかな事。只ひとりぢや。
▲シテ「これはいかな事。今立つたが、又、しもに居た。但し、聞き付けぬか知らぬ。又、呼うで見よう。
ほゝい、ほゝい、ほゝい。
▲船頭「あゝ。姦しい。きやつは、こゝ元の大法を知らぬと見えた。
ほゝい。
▲シテ「ほゝい。
▲船頭「こゝは大事の渡しでな、ひとりやふたりは渡さぬいやい。
▲シテ「これはいかな事。一人や二人は渡さぬと申す。何と致さう。いや。かやうの処で妄語を申した分は、苦しうあるまい。
ほゝい。道者はあまたあるいやい。
▲船頭「いゑ。道者はあまたあると申す。
ほゝい。道者はあまたあると仰しやるか。
▲シテ「中々。
▲船頭「それならばそれと、疾う仰しやらいで。船を着けておまさうものを。
ほゝい。
▲シテ「ほゝい。
▲船頭「ほゝい。
▲シテ「ほゝい。
▲船頭「ほゝい。いゑ。御出家でござるか。
▲シテ「船頭殿。御大儀でござる。
▲船頭「船を止めて居まする。早う乗らせられい。
▲シテ「心得ました。やつとな。
▲船頭「あゝ。危ない。こなたは、つひに船に乗つた事がないと見えた。
▲シテ「恥づかしい事でござるが、今が初めてゞござる。
▲船頭「さう見えた。扨、道者は。
▲シテ「道者とは。
▲船頭「そなたは最前、道者があるとは仰しやらぬか。
▲シテ「むゝ。道者の。
▲船頭「中々。
▲シテ「道者は、二、三日も過ぎたならば、後から参らうかと申す事でござる。
▲船頭「何ぢや。二、三日も過ぎたならば、あとから参らうか。
▲シテ「中々。
▲船頭「上がらしめ。
▲シテ「何と召さる。
▲船頭「何とすると云うて、出家が妄語を云ふ{*1}といふ事が、あるものでおりやるか。
▲シテ「船頭殿、船頭殿。なう。船頭殿。
▲船頭「あゝ。かしましい。何事ぢや。
▲シテ「船に乗りたさに、妄語を申して{*2}ござる。出家の事でござれば、利益にもなりませう程に、何とぞ船に乗せて下されい。
▲船頭「誠に、御出家の事ぢやによつて、乗せて遣るまいものでもないが。こゝは定めて十丁の船賃が出るが、それはお出しやるか。
▲シテ「十丁が廿丁でも出しませう。
▲船頭「何ぢや。十丁が廿丁でも出さう。
▲シテ「中々。
▲船頭「いゑ。それならば、ひとり乗するもふたりのするも同じ事ぢや。船をさし止めて居る程に、早う乗らしめ。
▲シテ「心得ました。やつとな。
▲船頭「はあ。和御料は、最前ので乗り覚えたと見えて、乗り振りが上がつた。
▲シテ「最前ので、乗り覚えましてござる。
▲船頭「さう見えた。扨、船を出すが、何も用はおりないか。
▲シテ「もはや用はござらぬ。早う出いて下されい。
▲船頭「心得た。ゑいゑい。扨、御坊は船賃をお持ちやつたの。
▲シテ「中々。
▲船頭「それならば、これで受け取りませう。
▲シテ「向かうへ着いてから、渡しませう。
▲船頭「何ぢや。向かうへ着いてから渡さう。
▲シテ「中々。
▲船頭「なう。御坊。
▲シテ「何事でござる。
▲船頭「あの島をお見やれ。
▲シテ「あの島が、何と致いた。
▲船頭「かたがたの様に、向かうへ着いてから渡さう渡さうと云うて、身共も再々乗り逃げに出合うた。その様な事を云うて、こゝ元で船賃を出さずば、あの島へ打ち上げて置いて、後へも先へも遣る事ではないぞ。
▲シテ「あゝ。出しませう、出しませう。
▲船頭「さあさあ。早うお出しやれ。
▲シテ「船賃の。
▲船頭「中々。
▲シテ「船賃は、薩摩守。
▲船頭「何ぢや。薩摩守。
▲シテ「中々。
▲船頭「薩摩守、薩摩守。これは、秀句ではないか。
▲シテ「秀句ならば、秀句の様なものでもあらうかぢやまで。
▲船頭「何ぢや。秀句の様なものでもあらうかぢやまで。
▲シテ「中々。
▲船頭「《笑うて》扨々、可笑しい事を云ふ人ぢや。又、この神崎の渡し守の、秀句に好くといふ事を、何としてお知りやつたぞ。
▲シテ「神崎の渡し守の、秀句に好かるゝといふ事は、唐土、天竺、我が朝、三国に隠れがおりない。
▲船頭「何ぢや。三国に隠れがない。
▲シテ「中々。
▲船頭「《笑うて》扨々、御坊は近頃、面白い人ぢや。扨、この心を承りたい。
▲シテ「向かうへ着いてから、申しませう。
▲船頭「はあ。向かうへ着くまでは、待ち遠なが。その儀ならば、向かうへ着いてから、承らう。扨、今のは何とやらであつたの。
▲シテ「薩摩守。
▲船頭「をゝ。それそれ。薩摩守、薩摩守、薩摩守。《笑うて》扨、御坊はこれから、どれへおりやる。
▲シテ「住吉、天王寺へ参る。
▲船頭「天王寺へおりやるならば、下向にもこの所を通らしめ。船が好きならば、身共が船に乗せて、浦々を漕ぎ廻つて、ゆるりと船遊びをさせうぞ。
▲シテ「それは忝うござる。
▲船頭「扨、最前のは何とやら云うたの。
▲シテ「薩摩守。
▲船頭「をゝ。それそれ。薩摩守、薩摩守、薩摩守。《笑うて》いや。船が着いた。上がらしめ。
▲シテ「心得ました。やつとな。船頭殿。御大儀でござる。かう参りまする。
▲船頭「あゝ。これこれ。今の心を仰しやれ。
▲シテ「心とは。
▲船頭「はて。最前の薩摩守の心を仰しやれ。
▲シテ「むゝ。薩摩守の心の。
▲船頭「中々。
▲シテ「あまり面白うもおりない。聞かずとも置かせられい。
▲船頭「これこれ。いかに面白うないとて、聞かずに置かるゝものか。平に心を仰しやれ。
▲シテ「それならば、下向になりとも申しませう。
▲船頭「あゝ。これこれ。何と、下向まで待たるゝものぢや。ひらにおしやれと云ふに。
▲シテ「むゝ。心の。
▲船頭「中々。
▲シテ「心は、薩摩守。
▲船頭「それは云ひ掛けで、合点ぢや。その薩摩守の心を仰しやれと云ふに。
▲シテ「はて。心は心でござる。
▲船頭「やあら。こゝな者は。いよいよ身共をなぶるか。その薩摩守の心を云はねば、あとへも先へも遣る事ではないぞ。
▲シテ「はあ。今、思ひ出しました。
▲船頭「何と。
▲シテ「物と。
▲船頭「何と。
▲シテ「物と。
▲船頭「何と。
▲シテ「薩摩守の心は。
▲船頭「心は。
▲シテ「青海苔の引き干し。
▲船頭「あのやくたいなし。とつとゝおりやれ。
▲シテ「面目もござらぬ。

校訂者注
 1:底本は、「出家が妄語云と」。『狂言全集』(1903)に従い補った。
 2:底本は、「妄語申して」。『狂言全集』(1903)に従い補った。

底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.

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