『能狂言』下123 出家座頭狂言 ろれん

▲シテ「これは、遥か遠国がたの者でござる。某、未だ都を見物致さぬによつて、この度思ひ立ち、都を見物致し、その他、名所旧跡を一見致さうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、出家と申すものは、諸国を修行致さいでは、年寄つて口がきかれぬと申すによつて、ふと思ひ立つてござる。これはいかな事。程も参らぬに、はや日が暮るゝ。さらば、この辺りで宿を取らう。
物申。案内申。
▲アド「表に物申とある。案内とは誰そ。どなたでござる。
▲シテ「行き暮れた修行者でござる。いち夜の宿を貸して下されい。
▲アド「易い事。貸して進じませう。かう通らせられい。
▲シテ「それは忝うござる。
▲アド「つゝと通らせられい。
▲シテ「心得ました。
▲アド「それにゆるりとござれ。
▲シテ「心得ました。
▲アド「やいやい。旅の御出家をいち人、お宿申した程に、一飯を拵へい。ゑい。
申し申し。何と、お草臥れは、のきましてござるか。
▲シテ「お蔭で、草臥れも退きましてござる。
▲アド「扨々、今夜は見苦しい所へお宿を申して、近頃面目もござらぬ。
▲シテ「これは近頃、御念の入つた事でござる。総じて、出家と申すものは、人の憐みでなければ、旅はなりませぬ。今夜は良い所へ泊まりまして、一段の仕合せでござる。
▲アド「いや。私もこゝ元では、つゝと志の深い者で、こなたの様な御出家さへ通らせらるれば、お宿を致しまする。
▲シテ「それは近頃、ご奇特な事でござる。
▲アド「扨、それについて、お草臥れにはござりませうが、追つ付けいつぱんも出来まする程に、その間、何とぞ教化なされて下されい。
▲シテ「これは、易い事でござる。それならば、けうげして聞かせませうか。
▲アド「それは忝うござる。
▲シテ「扨、教化と申して、別なる事でもござらぬ。只、後生を願へと申す事でござる。
▲アド「はあ。
▲シテ「まづ、見ました処が、家居もつきづきしうござり、定めてお子達もござるでござらう。
▲アド「中々。子どもゝござる。
▲シテ「それならば、もはやこの世の願ひは、ざつと済んだと申すものでござる程に、とかく後生を願はせられい。
▲アド「いやいや。左様ではござらぬ。やうやうと渡世を致すばかりでござる。
▲シテ「左様でござらぬ。人間の身の上の願ひといふものは、限りのないものでござる。名利名聞に溺れ、欲に欲を重ね、後生をも願はず、只うかうかと暮らすと申すは、浅ましい事でござる。生者必滅と申して、この世へ生まれた者は、必ず滅するといふ事を、皆人ごとに口には云へど、まさしく我が身の上にある事を知らいで、うかうかと暮らすが人間の情でござる。又、人間の命のはかない事は、風の前の灯し火、水の上のあわ、電光、朝露、石の火よりも、まだはかないは、人間の命でござる。又、朝開暮落などゝ申して、朝顔の花に譬へ置かれてござる。朝顔と申すものは、早朝に開き、日のづるに随つて凋み、夕べにはほろりと落ちまする。人間もまづその如く、つゝとはかないものでござる程に、随分後生を願はせらるゝが良うござる。下手の長談義と申しまするによつて、今日はこれまでに致しませう。
▲アド「扨も扨も、ありがたい事を承つてござる。只今の御教化を承つて、私も得道致いてござる。何とぞ、こなたの弟子になされて、法体させて下されい。
▲シテ「やれやれ。それは近頃、ご奇特な事でござる。さりながら、左様の事は、御内儀とも御相談なされ、又、御一門衆ともご談合の上ならでは、ならぬ事でござる。
▲アド「さればその事でござる。最前も申す通り、私は常々志の深い者で、いつぞは法体致さうと存じて、一門どもや女共とも相談致いて、いづれも得心致いて居りまする程に、是非とも法体させて下されい。
▲シテ「すれば、御内儀様も御一門衆も御得心の上でござるか。
▲アド「いかにも左様でござる。
▲シテ「その儀ならば、ともかくも致しませう程に、まづ、つむりを揉ませられい。
▲アド「心得ました。一段と良うござる。
▲シテ「良うござるか。
▲アド「中々。
▲シテ「《懐より剃刀を出して》三帰五戒を授けつゝ、南無帰依仏。
▲アド「南無帰依仏。
▲シテ「南無帰依法。
▲アド「南無帰依法。
▲シテ「南無帰依僧。
▲アド「南無帰依僧。
▲シテ「南無帰依仏教{*1}。
▲アド「南無帰依仏教。
《剃りながら、正面へ廻りて、懐より頭巾を出して、着せて》
▲シテ「はあ。一段と良うござる。殊の外、良い僧がらでござる。
▲アド「これは近頃、忝うござる。私もさつぱりと致いて、良い気味でござる。
▲シテ「さうでござらう。扨、衣を御用意なされて{*2}ござるか。
▲アド「いや。まだ、衣は用意致しませぬ。
▲シテ「それならば、こゝに着替への衣がござる。これを進じませう。
▲アド「これは忝うござる。
▲シテ「さあさあ。これを着させられい。
▲アド「その儀ならば、着ませう。何とでござる。
▲シテ「殊の外、良う似合はせられてござる。
▲アド「それは嬉しい事でござる。扨、まだ、ちと願ひがござる。
▲シテ「それは又、いかやうの事でござる。
▲アド「とてもの事に、法名を付けて下されい。
▲シテ「はあ。法名を付けてくれい。
▲アド「中々。
▲シテ「易い事ではござれども、これは又、こなたの御旦那寺もござらう程に、それへ頼ませられい。
▲アド「成程、旦那寺もござれども、こなたの御弟子になつた事でござるによつて、是非とも法名を付けて下されい。
▲シテ「それならば、こなたの今までのお名は、何と申しました。
▲アド「只今までは、何がしと申しましてござる。
▲シテ「やはり、その何某が良うござらう。
▲アド「いや。申し。法体致いて、何と、今までの名が呼ばるゝものでござるぞ。何とぞ法名を付けて下されい。
▲シテ「すれば、どうあつても付けまするか。
▲アド「中々。
▲シテ「ちと待たせられい。
▲アド「心得ました。
▲シテ「これはいかな事。愚僧は今まで、つひに人に名を付けた事がござらぬが、何と致さう。いや。いろはを覚えて居まする程に、これで付けてやらうと存ずる。
いや。申し申し。
▲アド「何事でござる。
▲シテ「総じて、法名と申すものは、その家々に定まつて付くる字のあるものでござるが、こなたの家には何といふ字を付けさせらるゝぞ。
▲アド「私の家では代々、下に蓮の字を付けまする。
▲シテ「れんの字を付く。
▲アド「中々。
▲シテ「蓮の字、蓮の字。はあ。良い名がござる。いれん坊は何とでござる。
▲アド「はあ。いれん、い蓮。何とやら、気にいりませぬ。
▲シテ「これは、気にいりませぬか。
▲アド「中々。
▲シテ「それならば、はれんか、とれんなどは、何とでござる。
▲アド「これも気にいりませぬ。今少し長い名を付けて下されい。
▲シテ「長い名を付けてくれい。
▲アド「中々。
▲シテ「長い名ならば。をゝ。良い名がござる。よた蓮坊か、ちりぬれん坊が良うござらう。
▲アド「これも、異な名でござる。
▲シテ「これも気にいりませぬならば、そつね蓮坊は、何とでござる。
▲アド「いや。これも気にいりませぬ。他の名を付けて下されい。
▲シテ「扨々、こなたは名に、やうがましい人でござる。
▲アド「やうがましいではござらぬが、とても、付くからでござるによつて、良い名が付けたうござる。
▲シテ「はあ。それならば、何とであらうぞ。へれんか、る蓮は何とでござる。
▲アド「これも嫌でござる。
▲シテ「それならば、何と付けませうぞ。をゝ。それそれ。呂れん坊は何とでござる。
▲アド「呂れんの。
▲シテ「中々。
▲アド「呂蓮、ろれん。いや。この呂蓮が良い名でござる。これに極めませう。
▲シテ「これにきはめさせらるゝか。
▲アド「中々。これに極めませう。扨、かやうにこなたの御弟子になつた事でござるによつて、何とぞ、諸国修行をさせて下されい。
▲シテ「それは近頃、御殊勝な事でござる。何が扨、これからは同道致いて、諸国を修行させませう。
▲アド「それは忝うござる。
《「呂蓮に極めませう」と云ふ時分、女、立つて》
▲女「最前、これの人が、旅の御出家を{*3}一人泊まらせられた程に、一飯をこしらへいと申されてござるが、則ち出来ましてござる。この由、申さうと思ひまする。
申し。これのは、どれにござるぞ。これはいかな事。御出家は一人ぢやと仰せられたが、見れば、ふたりござる。
申し申し。これのは、どれへござつたぞ。
▲アド「女共。これに居るわ。
▲女「申し。これのはどれでござるぞ。
▲アド「これこれ。身共でおりやる。
《女、篤と見て》
▲女「やい。わ男。なぜに妾に相談もせいで、坊主になつたぞ、坊主になつたぞ。
▲アド「扨々、そなたは、わゝしい事を云ふ。それ故、かねて法体したいと云うたれば、和御料も良からうと云うたによつて、それ故坊主になつた。
▲女「ゑゝ。腹立ちや。それは、かりそめの話でこそあれ。いつ妾が坊主になれと云うた。元の様にしておりやれ、元の様にしておりやれ。
《この内に、シテ、この様子を見て、「扨々、苦々しい事ぢや」と云うて居る》
▲アド「一度剃つたものが、何と元の様になるものぢや。その上身共はさのみ望みにもなかつたが、あの御出家の、坊主は良いものぢやと云うて勧められたによつて、それ故なつた。
▲女「すれば、あの坊主が勧めましたか。
▲アド「中々。
▲女「扨々、腹の立つ事かな。
やい。わ坊主。おのれ、憎い奴の。よう妾が男の頭を剃り居つたな。おのれ、喰ひ裂いてやらうか。引き裂いてやらうか。
▲シテ「あゝ。これこれ。まづ、よう聞かしめ。愚僧もまづ、かうあらうと思うて、御一門衆へも御内儀様へも、篤と御相談あつて、御得心の上ならば、弟子に致さうと云うたれば、こなたも御一門衆も承知ぢやによつて、是非とも坊主にしてくれいと仰しやつたによつて、それ故剃つた。身共に咎はない程に、云ひ分があらば、御亭主に仰しやれ。
▲女「やあやあ。妾も得心ぢやと云ひましたか。
▲シテ「中々。
▲女「やい。わ男。いつ妾に相談して、得心ぢやと云うたぞ。何としてくれうぞ。引き裂かうか。喰ひ裂かうか。
▲アド「いや。身共は、なりたうもないと云うたれども、あの出家が、是非と云うて剃つてくれた。某に咎はない程に、あの坊主に云はしめ。身共は知らぬ。
《と云うて、突き出して、逃げ込む》
▲女「やい。わ坊主。ようこちの人を誑いて剃り居つたな。元の様に毛を生やいて返せ、毛を生やいて返せ。
▲シテ「何ぢや。元の様に毛を生やせ。
▲女「中々。
▲シテ「二、三年もしたならば、元の様に生ゆるであらうぞ。
▲女「まだそのつれな事を云ふか。あの横着者。どれへ逃ぐるぞ。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。
▲シテ「あゝ。許さしめ、許さしめ。

校訂者注
 1:「南無帰依仏教」は、底本のまま。
 2:底本は、「御用意成て」。

底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.

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