『能狂言』下124 出家座頭狂言 とびこえ
▲アド「これは、この辺りに住居致す者でござる。今日は、山一つあなたへ茶の湯に参るが、かねて旦那寺のお新発意の、茶に行くならば誘うてくれいと申されてござる程に、誘うて参らうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。かう参つても、お宿にござれば良うござるが。もしござらぬ時は、参つた詮もない事でござる。いや。参る程に、これぢや。さらば、案内を乞はう。
物申。案内申。
▲シテ「いや。表に物申とある。案内とは誰そ。どなたでござる。
▲アド「私でござる。
▲シテ「いゑ。こなたならば、案内に及びませうか。なぜにつゝと通りはなされいで。
▲アド「左様には存じてござれども、もしお客ばしござらうかと存じて、それ故案内を乞ひましてござる。
▲シテ「近頃、念の入つた事でござる。扨、只今は、何と思し召しての御出でござるぞ。
▲アド「只今参るも、別なる事でもござらぬ。かねがねこなたの、茶の湯に行くならば、誘うてくれいと、な。仰せられてござる。
▲シテ「いかにも左様に申してござる。
▲アド「今日は、山一つあなたへ茶に参りまするによつて、お暇ならば、お供致さうと存じて、お誘ひに参りましてござる。
▲シテ「やれやれ。ようこそ誘うて下されて、忝うござる。さりながら、今日は師匠の留守でござるによつて、え参られますまい。
▲アド「いや。お師匠の帰らせられたならば、私の良い様に申しませう程に、平にござれ。
▲シテ「それならば、参りませうか。
▲アド「それが良うござらう。まづ、こなたからござれ。
▲シテ「案内者のために、こなたからござれ。
▲アド「その儀ならば、私から参りませう。さあさあ。ござれござれ。
▲シテ「参る参る。
▲アド「総じて、茶の湯などゝ申すものは、つゝと難しいもので、度々よそへ行て、人のよしあしを見て、扨、こゝかしこへ気を付けねばならぬ事でござる程に、こなたもよう見て置かせられい。
▲シテ「何が扨、こゝかしこへ気を付くるでござらう。
▲アド「いや。参る程に、いつもの飛び越えへ参つた。
▲シテ「誠に、大きな川へ出ました。上が降つたと見えて、いかう水が増しました。
▲アド「誠に、水が増しましてござる。扨、これを飛び越えて参りませう。
▲シテ「いや。申し。何と、この川が飛ばるゝものでござるぞ。
▲アド「扨々、こなたは臆病な事を仰せらるゝ。こればかりの川を飛び越さいで、何とするものでござる。私はもはや、飛びまする。やつとな。
▲シテ「はあ。もはや飛ばせられたか。
▲アド「中々。越しました。こなたも早う、飛ばせられい。
▲シテ「いや。私は、中々只は飛ばれませぬ程に、つゝとあれから走り掛かつて飛びませう。
▲アド「それが良うござらう。
▲シテ「この辺りから走り掛かつて参らう。やあ。
▲アド「あゝ。危ない。
▲シテ「これはいかな事。まんまと飛ばうと存じたれば、こなたの声を掛けさせられたによつて、飛び損なうてござる。
▲アド「すでにこの川へはまらうとなされたによつて、それ故、声を掛けました。
▲シテ「とかく、目が臆病でござる。今度は目を塞いで飛びませう。
▲アド「いかやうにしてなりとも、飛ばせられい。
▲シテ「やあ。
▲アド「あゝ。危ない。
▲シテ「これはいかな事。今度こそ、まんまと飛び済まさうと存じたれば、又、声を掛けさせられたによつて、目があいて飛ばれませぬ。
▲アド「又、私の声を掛けねば、川へはまらせらるゝ処でござつた。
▲シテ「とかく、私は飛ばれませぬ。もはや、かう戻りませう。
▲アド「あゝ。これこれ。
▲シテ「こなたは又、こちへ飛ばせられたか。
▲アド「又、飛ばいで何とするものでござるぞ。せっかくこれまで御出なされて、こればかりの川を飛ばいで、戻らせらるゝといふ事があるものでござるか。是非とも飛ばせられい。
▲シテ「何程に仰せられても、飛び越す事はなりませぬ。
▲アド「その儀ならば、私に引つ添うて飛ばせられい。
▲シテ「それならば、こなたに引つ添うて飛びませう。
▲アド「さあさあ。これへ寄らせられい。
▲シテ「心得ました。
▲アド「きつと、とらへてござれ。
▲シテ「中々。とらへて居まする。
▲アド「飛びまするぞ。
▲シテ「早う飛ばせられい。
▲アド「やつとな。《と云うて飛ぶ時、シテ、川へはまる。》
▲シテ「これはいかな事。ひと絞りになつた。耳へも水が入る。あゝ。苦々しい事を致いた。
▲アド「こればかりの川を飛び越ゆるとて、あのなりは何事ぢや。悉皆、濡れ鼠を見る様な。《と云うて、笑ふ》
▲シテ「あゝ。いや。なうなうなう。そこな人。
▲アド「何事ぢや。
▲シテ「人の川へはまつたを、笑止には思はいで、なぜにお笑やるぞ。
▲アド「よう思うても見さしめ。そなたの川へはまつたは、気の毒なれども、こればかりの川を飛び越ゆるとて、そのなりは何事ぢや。《と云うて、又、笑ふ》
▲シテ「あゝ。これこれ。人の身の上には、可笑しい事もあるものぢや。そなたの身の上にも、可笑しい事があらうがの。
▲アド「余の者は知らず、某が身の上に限つて、何も可笑しい事はおりない。
▲シテ「云うたらば、恥をかゝうがの。
▲アド「いや。恥をかく覚えはない。あらば仰しやれ。
▲シテ「それならば云はう。それ。先度、門前に相撲があつたわ。
▲アド「それが可笑しいか。
▲シテ「まづお聞きやれ。西東と立ち分かつて取つた。
▲アド「中々。立ち分かつて取つた。
▲シテ「その時、西のかたやより、小さい男が出て、東の方屋の者を、悉く取つて投げた処で、もはや相撲はこれまでぢやと云ふによつて、身共も戻らうとしたれば、又、相撲こそあれと云ふ程に、誰がづると思うたれば、あの、そなたが出たではないか。
▲アド「それが可笑しいか。
▲シテ「まづお聞きやれ。出るとその儘、かの小さい男にきりきりと引き廻され、小股を取つて、場なかへずでいどう。《笑うて》
▲アド「あゝ。これこれ。相撲といふものは、勝つも習ひ、負くるも習ひぢやが、その負けたのが、可笑しいか。
▲シテ「負けたは可笑しうないが、腰の骨をしたゝかに打つたと見えて、方屋へちがりちがりちがり。《笑ふ》あゝ。気の毒な体であつた。
▲アド「そなたはいかう、相撲自慢と見えた。一番参らう。
▲シテ「身共は、茶の湯にこそ参つたれ。相撲取りには参らぬぞ。
▲アド「と云うたりとも、取らずには置くまい。
▲シテ「又、取つたりとも、負けはすまい。
▲アド「いざ。ござれ。
▲両人「やあやあ、やつとな。やあやあ、やつとな。
《と云うて、飛び違へて、左を取つて右へ引き廻し、それより右を取つて左へ引き廻して、倒いて》
▲アド「やあ。お手。勝つたぞ勝つたぞ。《と云うて、入る》
▲シテ「やいやい。相撲は三番のものぢや。横着者。どちへ行くぞ。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。《追ひ入る》
底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.)
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