『能狂言』下127 出家座頭狂言 ぢざうまひ
▲シテ「《次第》《謡》我は仏と思へども、我は仏と思へども、人は何とか思ふらん。
これは、坂東方の出家でござる。某、未だ上方を見物致さぬによつて、この度思ひ立ち、都へ上り、こゝかしこを一見致し、それより西国までも廻国致さうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、皆人の申さるゝは、若い時旅を致さねば、老いての物語がないと仰せらるゝによつて、ふと思ひ立つてござる。これはいかな事。程も参らぬに、はや日が暮るゝ。この辺りに在所はないか知らぬ。つゝとあれに、火の光が見ゆる。さらば、あれへ行て宿を取らう。これと存じたならば、あとのしゆくで宿を取らうものを。近頃、残念な事を致いた。いや。参る程に、これに高札がある。読うで見よう。何々。往来の者に宿貸す事、堅く禁制。これはいかな事。往来の者とは、則ち我ら如きの者の事でござるが。何と致さう。いや。知らぬ体で案内を乞はう。
物申。案内申。
▲アド「いや。表に物申とある。案内とは誰そ。どなたでござる。
▲シテ「邏斎申さう。
▲アド「いや。こゝな御出家は。ろさいを乞はう者が、案内を乞ふものでおりやるか。
▲シテ「行き暮れた修行者でござる。いち夜の宿を貸して下されい。
▲アド「近頃易い事なれども、この宿の入口にたかふだがあつたを、お見やらなんだか。
▲シテ「いゝや。見ませなんだ。
▲アド「この所の大法で、かたがたの様な往来の人に宿貸す事、堅く禁制でおりやる。
▲シテ「御大法はさる事なれども、行き暮れた者の事でござるによつて、何とぞ一夜の宿を貸して下されい。
▲アド「いやいや。どうあつてもならぬ事でおりやる。
▲シテ「すれば、どうあつてもなりませぬか。
▲アド「はて扨、くどい事を仰しやる。ならぬと云ふに。
▲シテ「それならば、良うござる。
これはいかな事。扨々、苦々しい事ぢやが。何と致さう。いや。思ひ出いた事がある。
申し。ござるか。ござりまするか。
▲アド「誰ぢや。
▲シテ「私でござる。
▲アド「そなたはまだ行かぬか。
▲シテ「かう参りまするが、何とぞ、この笠を一夜預かつて下されい。
▲アド「それはそなたの物ぢやによつて、和御料の行くかたへ持つて行たが、良うおりやる。
▲シテ「さればその事でござる。私は出家の事でござれば、野に伏しても山に伏しても良うござるが、この笠は、師匠より譲られた笠でござるによつて、雨露に打たせても、又は、人に誘はれてもなりませぬ程に、何とぞ一夜預かつて下されい。
▲アド「これは奇特な事ぢや。それならば、笠は預かつておまさう程に、どれになりとも置いて行かしめ。
▲シテ「これは忝うござる。それならば、これに置きませう。
▲アド「をゝ。その辺りが良からう。
▲シテ「その儀ならば、これに置きませう。扨、明日は早々、取りに参りませう。
▲アド「明日は早々、取りにわたしめ。
▲シテ「もう、かう参りまする。
▲アド「もはやおりやるか。
▲シテ「さらばさらば。
▲アド「良うおりやつた。
▲シテ「はあ。《アド、太鼓座へ引つ込む》
なうなう。嬉しや嬉しや。まんまと宿を借り済まいた。辺りに人はないか知らぬ。誰も居らぬ。さらば、這入らう。
▲アド「表の座敷に人影がさすが。誰も行かぬか。何ぢや。誰も行かぬ。それならば、盗人であらう。
いや。なうなう。こゝな御出家は、人の座敷へなぜに案内なしに這入つておりやるぞ。
▲シテ「そなたに宿を借りは致さぬ。なお構やつそ。
▲アド「こゝな人は、むさとした。この座敷に居て、身共に宿を借らぬといふ事があるものか。
▲シテ「そなたは最前、この笠を一夜預かりは召されぬか。
▲アド「笠は預かつたれども、そなたに宿は貸さぬ。
▲シテ「この笠の下は、今夜一夜は身共が儘ぢや。笠にこそ宿を借りたれ。和御料に宿は借らぬ。なお構やつそ。
▲アド「むゝ。御坊は面白い事を云ふが、それならば、笠より外へ出た処は何とするぞ。
▲シテ「それは、切つてなりともそいでなりとも、取らしめ。
▲アド「それならば、云はう。そりや、こちらが出たわ。
▲シテ「出はすまい。
▲アド「又、こちらが出たわ。
▲シテ「出はすまい。《幾つも云うて》
▲アド「扨も扨も、面白い出家でござる。大法を破つて宿を貸さうと存ずる。
なうなう。
▲シテ「何事でござる。
▲アド「大法を破つて宿を貸す程に、ゆるりと休ましめ。
▲シテ「それは忝うござる。
▲アド「さりながら、大法を破つて宿を貸す事ぢやによつて、必ず姦しう仰しやるな。
▲シテ「畏つてござる。
《アド、引つ込み、太鼓座に着く。シテ、寝て》
はあゝ。よう寝た事かな。いや。後夜起きの時分ぢや。勤めを致さう。南無至心帰命礼四方。にやもにやもにやも。《経を読む》
▲アド「これはいかな事。最前の出家が、何やら姦しう申す。
なうなう。御坊は何を姦しう仰しやるぞ。
▲シテ「勤めを致す。にやもにやも。
▲アド「いや。勤めもならぬ。
▲シテ「はあ。勤めもなりませぬか。
▲アド「中々。
▲シテ「それならば、又、伏せりませう。
▲アド「それが良からう。
《シテ、又、寝る》
余り夜寒にござる程に、御出家に、御酒を一つ申さうと存ずる。
いや。なうなう。御出家。
▲シテ「いや。もう姦しう申しますまい。
▲アド「その事ではおりない。まづ、起きさしめ。
▲シテ「何事でござるぞ。
▲アド「今夜は余り夜寒におりやる程に、ごしゆを一つ申さうと存じて、持つて参つた。
▲シテ「これは近頃、忝うはござれども、私は飲酒戒を保ちまするによつて、酒を呑む事はなりませぬ。
▲アド「何ぢや。飲酒戒を保つ。
▲シテ「中々。
▲アド「扨々、それは奇特な事ぢや。それならば、かう持つて参らう。
▲シテ「申し申し。
▲アド「これを置いて参らう。
▲シテ「それがあるによつての事でござる。まづ、こちへござれ。
▲アド「心得た。
▲シテ「扨、只今も申す通り、飲酒戒を保ちまするによつて、酒を呑む事はなりませぬが、吸ふと申しては、苦しうござりませぬ。
▲アド「誠に、吸ふと云うては苦しうあるまい。一つ吸はしめ。
▲シテ「それならば、吸ひませうか。
▲アド「身共が酌を致さう。
▲シテ「これは慮外にござる。
▲アド「恰度吸はしめ。
▲シテ「をゝ。恰度ござる。
▲アド「誠にちやうどあるわ。
▲シテ「さらば、吸ひませう。
▲アド「それが良からう。
▲シテ「扨も扨も、結構な御酒でござる。今一つ吸ひませう。
▲アド「いか程なりとも吸はしめ。又、某が注いでやらう。
▲シテ「これは度々、慮外にござる。をゝ。又、恰度ござる。
▲アド「又、恰度ある。
▲シテ「扨々、結構な御酒でござる。お蔭で寒さを忘れました。扨、こなたは参りませぬか。
▲アド「某も、ちと戴きませう。
▲シテ「これは、慮外でござる。私が酌を致しませう。
▲アド「それならば、注いで下されい。
▲シテ「心得ました。
▲アド「をゝ。恰度ござる。
▲シテ「誠に恰度ござる。
▲アド「扨、一つ受け持つた程に、肴をなされい。
▲シテ「易い事。経を読みませう。
▲アド「何と、経が肴になるものでござるぞ。何ぞ、小舞を舞はせられい。
▲シテ「それならば、舞ひませう程に、謡うて下されい。
▲アド「心得ました。
《「土車」など謡うて》
やんややんや。さらば、骨折りに、又、進じませう。
▲シテ「戴きませう。ちと謡はせられい。
▲アド「心得ました。《小謡》
▲シテ「こなたは参る。私は吸ふでござる。
▲アド「その通りでござる。
▲シテ「扨又、これを進じませう。
▲アド「これへ下されい。
▲シテ「又、酌を致しませう。
▲アド「謡はせられい。
▲シテ「心得ました。《小謡》
▲アド「上々の酒盛になりました。
▲シテ「誠に、上々の酒盛になつてござる。
▲アド「扨、最前のは余り短うて、見足りませぬ程に、今一つ長い事を舞はせられい。
▲シテ「それならば、こゝに私に似合うた舞がござる。これを舞ひませう程に、こなたは囃いて下されい。
▲アド「何と申して囃しまするぞ。
▲シテ「地蔵舞を見まいな、地蔵舞を見まいなと云うて、囃いて下されい。
▲アド「その分の事でござるか。
▲シテ「中々。
▲アド「大方覚えました。囃しませう程に、早々舞はせられい。
▲シテ「心得ました。《囃子》
地蔵舞を見まいな、地蔵舞を見まいな。
▲アド「《囃子》地蔵舞を見まいな、地蔵舞を見まいな。
▲シテ「地蔵の住む所は、伽羅陀山に安養界、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人天に山都卒天。廿五有を廻つて、罪の深き衆生を、錫杖を取り直し、掻い掬うてはぼつたり、突い掬うてはひつたり。昔釈迦大師の忉利天へ上つて御説法の折節、地蔵坊を召されて、忝くも如来のこがねの御手を差し上げ、地蔵坊がつぶりを三度までさすつて、善哉なれや地蔵坊、ぜんざいなれや地蔵坊、末代の衆生を地蔵に預け置くなりと、仰せを受けてこのかた、走りめぐり候へど、誰やの人が憐れみて、茶の一服もくれざれば、草臥れ果つるお地蔵、この御座敷へ参りて、あひの物で十盃、三度入りで十四盃、縁日に任せて廿四盃呑うだれば、糀が花が目に上がり、左へはよろよろ、右のかたへはよろよろ、よろよろよろとよろめけば、慈悲の涙せきあへず、衣の袖を顔に当て。《謡》
衣の袖を顔に当てゝ。
六道の地蔵の酔ひ泣きしたを御らうぜ、酔ひ泣きしたを御覧ぜ。《シヤギリ留め》
底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.)
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