『能狂言』下128 出家座頭狂言 なとりがは
《次第なしにも》
▲シテ「《次第》《上》戒壇踏んで受戒して、戒壇踏んで受戒して、我が本山に帰らん。
これは、遥か遠国の戒者法師でござる。某、いまだ戒壇を踏まぬ事を口惜しう存じ、この度比叡山へ上り、まんまと戒壇踏み済まいてござる。この様な悦ばしい事はござらぬ。それにつき、良いついでゞござるによつて、寺々を廻つてござるが、ある山寺へ参つてござれば、大児と小児と手習ひをなされてござつたが、余り美しいお児でござるによつて、まづおほちごへ参り、私はいまだ定まる名がござらぬによつて、何とぞ名を付けて下されいと申してござれば、こゝな者は。その年になるまで、名のないと云ふ事があるものか。近頃、奇体な事を云ふ者ぢやとあつて、則ち、希代坊と付けて下されてござる。又、それよりこちごのかたへ参り、私は何とぞ、名に掛け替へが欲しうござる程に、掛け替への名を付けて下されいと申したれば、こゝな者は、むさとした。弓や馬にこそ、乗り替への、張り替へのと云うてあれ。名に掛け替へがいるものか。今のでふせうせよとあつて、則ち、ふせう坊と付けて下されてござる。扨又、私はつゝと物覚えの悪しい者でござるによつて、書き付けて下されいと申してござれば、この如く、衣の左右の袖へ書き付けて下されてござる。この様な満足な事はござらぬ。まづそろりそろりと参らう。いや。誠に、国元へ下つて、この様子を皆の者どもに話いたならば、さぞ悦ぶでござらう。扨、最前も申す通り、身共はつゝと物覚えのあしい者でござるによつて、路次すがら名を呼うで参らうと存ずる。希代坊、不肖坊。不肖坊、希代坊。希代坊、不肖坊。不肖坊、希代坊。これは、一段と良い慰みぢや。扨、これは何ぞになりさうなものぢやが。それそれ。朝夕の看経になりさうなものぢや。さらば、看経に云うて見よう。希代坊、不肖坊。不肖坊、希代坊。希代坊、不肖坊。不肖坊、希代坊。これは、一段の看経ぢや。又、何ぞになりさうなものぢやが。それそれ。平家節にならう。今度は、平家節に云うて見よう。《平家節》
そもそも、希代坊と申すは、不肖坊が事なり。又、不肖坊と申すも、希代坊が事なり。《笑うて》
扨も扨も、一段と良い平家節ぢや。これは又、何ぞになりさうなものぢやが。をゝ。それそれ。いつも盆になれば、いづれも若い衆の寄り合うて、某が門前で踊りを踊らるゝ。その踊り節になりさうなものぢや。この度は、踊り節に云うて見よう。《笠を叩いて》
はあ。希代な希代坊よ。なよ。扨、不肖坊よの。《幾つも返して、段々詰めて云うて》
これはいかな事。何かと云ふ内に、これは大きな川へ出たが。この辺りに乗る物でもあるか知らぬ。はあ。この辺りには見えぬ。かう見た処が、浅い川ぢや。定めて、かち渡りになるであらう。さらば、かち渡りに致さう。ゑいゑい。やつとな。さればこそ、浅いわ。やつとな。や、ちと深うなつた。やつとな。あゝ。これは殊の外、深い。やつとな。あゝ。悲しや、悲しや。これは、流るゝ。あゝ。悲しや、悲しや。は、ひと絞りになつた。耳へも水が入る。はあ。散々な目に遇うてござる。扨、何も流しはせぬか知らぬ。まづ、珠数もあり、笠もあり、扇子もあり。何やら流いた様なが。南無三宝。大切な名を流いた。何と致さう。見た処が、瀬の遅い川ぢやによつて、まだ程遠うは参るまい。急いで掬はうと存ずる。《謡》
流れは果てじ、名取川。流れは果てじ、名取川。底なる我を掬はん。川はさまざま多けれど、伊勢の国にては、御裳濯川の流れには、天照大神の住み給ふ。熊野なる、音無川の瀬々には、権現、御影を映し給へり。光源氏の古へ、八十瀬の川と詠めける、鈴鹿川をうち渡りて、近江路にかゝりては、幾瀬渡るも野洲の川、墨俣、あぢか、杭瀬川。傍は淵なる片瀬川。思ふ人によそへては、阿武隈川も懐かしや。つらきにつけて悔しきは、藍染川なりけり。墨染の衣川、衣の袖を浸して、岸陰や、真菰の藻屑の下を押し廻して、かづき上げ、掬ひ上げ。
しいしいしい。は、雑魚ばかりぢや。しいしいしい。又、ざこばかりぢや。
▲アド「罷り出でたる者は、名取の何がしです。所用あつて、川向ひへ参る。まづそろりそろりと参らうと存ずる。これはいかな事。出家が、川へ這入つて魚を掬うて居る。
いや。なうなう。殺生禁断の川で、殊に出家の身として、なぜに魚をお掬やるぞ。
▲シテ「うをゝ掬ひは致さぬ。なお構やつそ。
▲アド「あゝ。これこれ。それ程魚を掬ひながら、掬はぬと云ふ事があるものか。
▲シテ「いやいや。魚を掬ひは致さぬが。まづ、この川は何と申すぞ。
▲アド「名取川と申す。
▲シテ「向かうのしゆくは。
▲アド「名取の宿。
▲シテ「かたがたの御名字は。
▲アド「いゝや。名もない者でござる。
▲シテ「見ますれば、ご仁体と見受けてござる。包まずとも、お名を仰せられい。
▲アド「身、不肖ながら、名取の何がしです。
▲シテ「あ。ちと待たせられい。
▲アド「心得ました。
▲シテ「これはいかな事。名取の何がしぢやと申す。すれば、きやつが取つたものであらう。何と致さう。いや。致し様がござる。
申し申し。
▲アド「やあやあ。
▲シテ「向かひの宿は、賑やかさうな宿でござるが、定めて色々の事が流行りませう。
▲アド「中々。賑やかな宿でござつて、色々の事が流行りまする。
▲シテ「中にもこの間は、何が流行りまするぞ。
▲アド「この間は、弓が流行りまする。
▲シテ「弓。
▲アド「中々。
▲シテ「弓と申す物は、つゝと面白いものでござる。定めてこなたにも遊ばすでござらう。
▲アド「致すと申す程の事ではござらねども、巻き藁前などを少々致しまする。
▲シテ「左様でござらう。扨、私は人の手の筋を見て、弓の上手下手を見分けまする。こなたも見て進じませうか。
▲アド「それは、一段の事でござる。何とぞ見て下されい。
▲シテ「易い事。見て進じませう。これへ見せさせられい。
▲アド「心得ました。
▲シテ「まづ、弓手から見せさせられい。
▲アド「心得ました。
▲シテ「扨も扨も、こなたはあつぱれ、遊ばすと見えました。
▲アド「左様にもござらぬ。
▲シテ「又、め手をも見せさせられい。
▲アド「畏つてござる。
▲シテ「殊の外、良い手の筋でござる。
▲アド「何と、良うござるか。
▲シテ「こなたは、後には弓の射手にならせらるゝ筋でござる。
▲アド「それは近頃、悦ばしい事でござる。
▲シテ「がつきめ。やるまいぞ。
▲アド「これは何と召さる。
▲シテ「何とするとは。覚えがあらう。
▲アド「いや。覚えはおりない。
▲シテ「最前、この川の名を問へば、名取川とは仰しやらぬか。
▲アド「名取川ぢやによつて、名取川と申した。
▲シテ「向かうの宿は名取のしゆく、かたがたの御名字はと問へば、名取の何がしとは仰しやらぬか。
▲アド「何がしぢやによつて、何がしと申した。
▲シテ「愚僧はこの川へ名を流いた。定めてそちが取つたものであらう。その名を返さぬにおいては、この手をねぢ上げてくりやう。
▲アド「あゝ痛。あゝ痛。扨々、和御料はむさとした事を仰しやる。そなたの名を取つて、何にするものぢや。近頃、希代な事を云ふ人ぢや。
▲シテ「いや。その希代坊が、某が名でおりやる。
▲アド「何ぢや。希代坊が、そなたの名ぢや。
▲シテ「中々。
▲アド「それならば、この手を放さしめ。
▲シテ「いやいや。身共が名には、掛け替へがある。その掛け替への名をおこさずば、こちらの手もねぢ上ぐるぞ。
▲アド「こゝな人は。弓や馬にこそ、乗り替への、張り替へのと云うてあれ、名に掛け替へがあるものか。扨々、これは近頃、不祥な処へ参り掛かつた。
▲シテ「をゝ。その不肖坊が、身共が名でおりやる。
▲アド「何ぢや。不肖坊が、そなたの名ぢや。
▲シテ「中々。
▲アド「それならば、良いわ扨。
▲シテ「をゝ。《謡》
それぞうよ、それぞうよ。希代坊に不祥坊、二つの名をば取り返し、その名は朽ちせざりけれ、その名は朽ちせざりけれ。
底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.)
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