『能狂言』下129 出家座頭狂言 ふせないきやう
▲シテ「これは、この辺りに小庵を結んで居る貧僧でござる。こゝに誰殿と申して、毎月今日は定斎に参るお方がござるが、さりがたいお方より、今朝お斎を下されうとあつて、再三の御使ひでござつたによつて、そのかたへ参り、ときをも食べ、充満致いてはござれども、ぢやうときの方では定めて待つて居られませう程に、参つて、勤めばかりなりとも致さうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、貧僧の重ね斎とは、よう申したものでござる。定斎の方でも、定まつて十疋の布施物を下さるゝによつて、断りも申しにくうござる。いや。参る程にこれぢや。まづ、案内を乞はう。
物申。案内申。
▲アド「表に物申とある。案内とは誰そ。どなたでござる。
▲シテ「愚僧でござる。
▲アド「いゑ。御寺様。こなたを今朝から待つて居ましたが、何として遅う御出なされたぞ。
▲シテ「さればその事でござる。今朝は、さりがたい方より御斎を下されうとあつて、再三の御使ひでござつたによつて、その方へ参り、斎をも食べ、充満致いてはござれども、こなたは定斎の事でござるによつて、勤めばかりなりとも致さうと存じて、参りましてござる。
▲アド「やれやれ。それは、ようこそ御出なされてござる。もはや、斎は仕舞ひましてござる程に、かうお通りなされて、お勤めばかりなされて下されい。
▲シテ「心得ました。扨、かやうの時分に人を持ちませぬによつて、御断りをも申さいで、気の毒にござる。
▲アド「いやいや。少しも苦しうござらぬ。左様の時分には、随分と御出なさるゝが、良うござる。
▲シテ「はあ。これは又、持仏を仕舞はずに置かせられてござるの。
▲アド「こなたの御出なされうと存じて、まだ仕舞はずに置きましてござる。
▲シテ「扨も扨も、こなたは綺麗好きぢや。いつ参つても、持仏堂の隅から隅に、塵が一つござらぬ。寺恥づかしい事でござる。
▲アド「いやいや。在家と申すものは、つゝとむさいものでござる。
▲シテ「さらば、勤めを始めませう。
▲アド「それが良うござらう。
▲シテ「にやもにやもにやも。《経を読みかけて》
いや。御家内皆々、変らせらるゝ事もござらぬか。
▲アド「中々。変る事もござりませぬ。
▲シテ「《経を読む》誠に、いつぞやは見事な菊の花を下されて、忝うござる。
▲アド「庭前の菊で、不出来にはござれども、進じましてござる。
▲シテ「扨々、あれは見事な菊でござる。幸ひ客がござつて、馳走に活けましてござる。
▲アド「それは、満足致しまする。
▲シテ「《経読む》いや。申し。あの菊が御庭前のでござらば、春になつて、ちと苗を下されい。愚僧が眠蔵の庭へ伏せませう。
▲アド「易い事。進じませう。
▲シテ「《経を読みて》南無きやらたんのとらやとらや。はあ。勤めを仕舞ひましてござる。
▲アド「これは忝うござる。
▲シテ「もはや、お暇申しませう。
▲アド「お茶でも上がりませぬか。
▲シテ「いやいや。茶も望みにござらぬ。これから寺へ戻つて伏せりませう。
▲アド「それが良うござらう。
▲シテ「さらばさらば。
▲アド「ようござりました。
▲シテ「あゝ。
これはいかな事。いつも定まつて、十疋の布施物を下さるゝが、今日は何としてくれられぬ事ぢや知らぬ。いやいや。一度ばかり申し受けぬと云うて、苦しうない事でござる。急いで戻らう。いやいや。今日申し受けぬ分は苦しうないが、人といふものは我勝手に、良い事は例にしたがるものでござる。これが例になつては迷惑な。何としたものであらうぞ。いや。思ひ出いた。致し様がござる。
申し。ござるか。ござりまするか。
▲アド「誰ぢや。
▲シテ「愚僧でござる。
▲アド「こなたはまだ戻らせられぬか。
▲シテ「さればその事でござる。戻らうと存じてござるが、こなたはかねて、教化が聞きたいと仰せられてござる。今日は愚僧も暇でござるによつて、こなたさへお暇でござらば、けうげ致さうと存じて、立ち戻つてござる。
▲アド「やれやれ。それは忝うござる。幸ひ私も暇でござる程に、何とぞ教化なされて下されい。
▲シテ「それならば、通りませうか。
▲アド「つゝと通らせられい。
▲シテ「心得ました。とてもの事に、許させられい。ろくに居ませう。
▲アド「それが良うござらう。
▲シテ「扨、教化と申して、別なる事でもござらぬ。とかく後生を願へといふ事でござる。こなた程、果報なお方はござるまい。まづ、お子達はあまたあり、家居は広う住まはせらるゝ。財宝は思し召す儘にあり、もはやこの世の願ひはないといふものでござる。これからは後世が大事でござる程に、随分後生を願はせらるゝが良うござる。
▲アド「何が扨、畏つてござる。私もまづ、かれこれ致いて渡世を送ると申すばかりでござる。
▲シテ「いやいや。さうでござらぬ。人間の身の上の願ひと申すものは、限りのないものでござる。名利名聞に溺れ、欲に欲を重ね、後世をも願はず、只うかうかと暮らすと申すは、浅ましい事でござる。生者必滅と申して、生まるゝ者は必ず滅するといふ事を、皆、人ごとに口には云へども、まさしく我が身の上にある事を知らぬが、人間の情でござる。又、人間の命のはかないと申す事は、風の前の灯し火、水の上のあわ、電光、朝露、石の火よりも、まだはかないは、人間の命でござる。朝開暮落などゝ申して、朝顔の花にも譬へ置かれてござる。まづ、朝顔の花と申すものは、早朝に開き、日のづるに随つて凋み、夕べにはほろりと落ちまする。人間もまづその如く、つゝとはかないものでござるによつて、これからは随分、後生を願はせられい。
▲アド「心得ましてござる。
▲シテ「こゝに殊勝なもんがござる。これを申して聞けませう。
▲アド「承りませう。
▲シテ「身命財を擲つて伝法せんと欲せば、供仏施僧捨身を専らとせよ。雲となり雨となり不晴不晴の時。今朝もの言はず別離の家、と申しては、御合点が参りますまい。これを、ちとやはらげて聞けませう。
▲アド「それは忝うござる。
▲シテ「身命財をなげうつてとは、しんはみ、みやうはいのち、ざいはたからと書いた字でござる。仏のためには、身をも命をも財をもなげうつて、後世を願へと申す事でござる。伝法せんと欲せばとは、この法を伝ふるを由とす。供仏施僧と申すは、或いは堂塔伽藍を建立し、仏に香はなを手向け、又は、我ら如きの貧僧に物を施す事を申す。施すことでござるぞや。捨身を専らとせよとは、捨身は身を捨つると書いた字でござる。身を捨つると云うて、淵川へ身を捨つるではござらぬ。只、世を厭ひ、厭はず後生を願へといふ事でござる。雲となり雨となりとは、定まり定まらぬ事。不晴不晴の時。この不晴ふせいの時と申すが、中にも肝文でござる。篤と聞かせられい。
▲アド「心得ました。
▲シテ「ふせい不晴の時と申すは、晴れやらず晴れやらざる時と書いた字でござる。晴れやらぬは悪しうござる。晴れやつたが良うござる。総じて人といふものは、定まつてよそから取る事があり、又、定まつて遣る事があるものでござる。遣るべきものならば、何の二念もなう、その儘遣つたが良うござる。又、さきの者も、今日はくるゝ筈ぢやが、何としてくれぬぞと思ふ処が、夥しい罪業でござる。それぢやによつて、遣るべきものならば、早う遣らせらるゝが良うござる。この不晴不晴の時が、御合点が参りましたか。
▲アド「中々。合点致いてござる。
▲シテ「いや。こなたは合点した、合点したとは仰せらるゝが、すきと御合点の参らぬ様子でござるぞや。
▲アド「いや。すきと合点致しましてござる。
▲シテ「これさへ御合点が参れば、別に申す事もござらぬ。下手の長談義、高座の妨げと申す事がござる。まづ、今日はこれまでに致しませう。
▲アド「これは近頃、忝うござる。
▲シテ「又、重ねて参つて、ゆるりと教化致いて聞けませう。
▲アド「それならば、又、重ねて御教化なされて下されい。
▲シテ「もはやお暇申しませう。
▲アド「はや御出なされまするか。
▲シテ「ちと寺へもござれ。渋茶を貰うて置きました。あれなりと進じませう。
▲アド「それは何よりでござる。
▲シテ「さらばさらば。
▲アド「良うござりました。
▲シテ「あゝ。
これはいかな事。扨々、世には愚鈍な者があるものでござる。手を取つて引き廻し、箸を持つてくゝむる様に云うて聞かせても、合点した、合点したとばかり云うて居るが、あれは何を合点した事ぢや知らぬ。あゝ。愚僧は迷うた。肯がひぬれば、こんり致す。うけがはざれば、長く生死に落つると。一銭一毛なきをこそ、禅のまなことはしたれ。譬へば、その十疋の布施物を、真ん中よりふつゝりと捩ぢ切つて、大海へさらりさらりと投げ捨てゝ、有もなう無もなうして、行くに行かれぬ事はあるまい。恐らくは、往んで見せう。あゝ。後ろから引き戻さるゝ様で、中々行かれぬ。をゝ。それそれ。十疋の布施物を申し受くれば、半分にては塩噌薪を整へ、半分にては座禅衾を繕ひ、それを引つかづいて、来し方行く末の事を悟らうならば、何かござらう。その上、この十疋の布施物を申し受けねば、今日の亡者を奈落へ沈め、愚僧も目の前で損を致す事でござる。この上は、方便を以て取らう。総じて、布施無経には袈裟を落とすと申す事がある。さらば愚僧も、袈裟を落といたと申して、布施物を取らうと存ずる。
扨々、合点の行かぬ事ぢや。今まで掛けて居たと思うたが、どれへ落といた知らぬ。
▲アド「いや。お寺様の声がするが。まだ戻られぬと見えた。
いや。申し。こなたはまだ、戻らせられませぬか。
▲シテ「さればその事でござる。途中へ出まして見ますれば、私の袈裟がござらぬが、何と、その辺りに落といてはござりませぬか。
▲アド「いやいや。この辺りに御袈裟は見えませぬ。
▲シテ「こなたには子供衆が多うござるによつて、いたづらに隠させられた事もござらう。もし出ましたならば、届けて下されい。愚僧が袈裟には、紛れもない印がござる。
▲アド「それは、いかやうな印でござるぞ。
▲シテ「それにつき、あの鼠と申すものは、いたづらなものでござる。この間、さる方へ斎に参つて、戻りまして、袈裟を棹に掛けて置きましたれば、いかさま、ものに譬へて申さば、十疋の布施物の、あちらこちらへするりするりと通る程に、喰ひ抜いてござる。愚僧が事でござるによつて、それをも構はずに、その儘掛けてありきましたれば、さる旦那衆のお内儀の見られまして、見苦しいと云うて、それを、ふ、ふ、伏せ縫ひと申すものにしてくれられました。その伏せ縫ひが、愚僧が袈裟の印でござる。後で出ましたならば、お届けなされて下されい。
▲アド「何が扨、持たせて上げませう。
▲シテ「扨、愚僧はもう、かう参りませう。
▲アド「いや。申し。ちと待たせられい。
▲シテ「いや。何も御用はござるまいがの。
▲アド「いやいや。用の事がござる。ちと待たせられい。
▲シテ「心得ました。
やうやう思ひ出いたさうな。
▲アド「これはいかな事。最前より、再々小戻りを致さるゝが、何とも合点の行かぬ事ぢやと存じたれば、いつも十疋の布施物を進上致すを、はつたと失念致いた。それ故、小戻りを召さるゝと見えた。急いで進上致さうと存ずる。
申し申し。近頃面目もない事がござる。
▲シテ「それは又、いかやうの事でござるぞ。
▲アド「いつも布施物を進上致すを、はつたと失念致いてござる。何とぞ、持つて戻つて下されい。
▲シテ「御用と仰せらるゝは、その事でござるか。
▲アド「中々。左様でござる。
▲シテ「私は又、他に何ぞ御用があるかと存じてござる。その事ならば、かう参りませう。
▲アド「申し申し。その様な事があるものでござるか。平に持つて戻つて下されい。
▲シテ「近頃忝うはござれども、今日はちと、申し受けにくい事がござる。
▲アド「それは又、いかやうな事でござるぞ。
▲シテ「最前から、教化致さうの、袈裟を落といたのと申して、度々小戻りを致いたも、畢竟、この御布施が欲しさの儘ぢやと思し召す処が、迷惑にござる。
▲アド「私が何しに左様に存ずるものでござる。毎月進上致し付けたものでござるを、今日に限つて進上致さいでは、心掛かりにござる。平に取らせられて下されい。
▲シテ「それならば、来月一緒に申し受けませう。
▲アド「来月は来月、今日は是非とも、持つて戻つて下されい。
▲シテ「いやいや。どうあつても、今日は申し受けますまい。
▲アド「その儀ならば、御懐へ入れませう。
▲シテ「どうあつても、今日は申し受けますまい。
▲アド「申し申し。これへ御袈裟が出ましてござる。
▲シテ「誠に、御布施が出ましたれば、袈裟までが出ましてござる。
▲アド「あのやくたいなし。とつとゝござれ。
▲シテ「面目もござらぬ。
底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.)
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