『能狂言』下130 出家座頭狂言 ほねかは
▲住持「これは、この寺の住持でござる。今日は最上吉日でござる程に、新発知を呼び出し、寺を譲らうと存ずる。
なうなう。新発知。おりやるか。居さしますか。
▲シテ「いや。呼ばせらるゝさうな。
申し。呼ばせられまするか。
▲住持「中々。呼ぶ。そなたを呼び出すも、別なる事でもおりない。愚僧も年が寄つて、朝夕の勤行も、旦那あしらひも難しい。則ち、今日は最上吉日ぢやによつて、そなたにこの寺を譲る程に、さう心得さしめ。
▲シテ「近頃、忝うは存じまするが、遅うても苦しうない事でござる。その上、私もいまだ若輩にござる程に、今少し待たせられて下されい。
▲住持「近頃、尤ぢや。さりながら、旦那衆も一段良からうと仰せらるゝ。その上、隠居すると云うて、よそへ行くでもなし、則ち、眠蔵に求聞持をくつて居る程に、何なりとも、知れぬ事があらば、聞きにおりやれ。
▲シテ「畏つてござる。
▲住持「扨、寺を持つてからは、随分と旦那衆の気に入る様にせねばならぬ程に、さう心得さしめ。
▲シテ「何が扨、随分気に入る様に致しませう。
▲住持「それならば、用があらば、何どきなりとも仰しやれや。
▲シテ「心得ました。
なうなう、嬉しや嬉しや。いつ寺を譲らるゝと存じてござれば、今日譲られて、この様な悦ばしい事はござらぬ。これからは、随分と旦那衆を大切に致いて、気に入る様に致さうと存ずる。
▲アド一「これは、この辺りの者でござる。山一つあなたへ参るが、何とやら降りさうになつてござる。こゝに、旦那寺がござるによつて、これへ参り、傘を借りて参らうと存ずる。参る程に、これぢや。まづ、案内を乞はう。
物申。案内申。
▲シテ「表に物申とある。案内とは誰そ。どなたでござる。
▲ア一「私でござる。
▲シテ「いゑ。こなたへ只今人を進ずる処でござつた。
▲ア一「それは又、いかやうの事でござるぞ。
▲シテ「今日は最上吉日ぢやとあつて、師匠の、この寺を私へ譲られてござる。
▲ア一「やれやれ。それはめでたい事でござる。存ぜいで、お悦びをも申しませなんだ。重ねてお悦びを申しませう。
▲シテ「今日の事でござるによつて、ご存じないは、尤でござる。
▲ア一「扨、只今参るも、別なる事でもござらぬ。山一つあなたへ参りまするが、何とやら降りさうにござる程に、何とぞ傘を貸して下されうならば、忝うござる。
▲シテ「易い事。貸して進じませう。それに待たせられい。
▲ア一「心得ました。
▲シテ「申し申し。この傘は、師匠のまだ差し初めもせられぬ傘でござれども、これを貸して進じませう。
▲ア一「これは、忝うござる。それならば、私はもう、かう参りまする。
▲シテ「もはやござるか。
▲ア一「さらばさらば。
▲シテ「ようござつた。
▲ア一「はあ。
▲シテ「さらば、この由を云うて、褒められうと存ずる。
申し。ござりまするか。
▲住持「誰ぢや。
▲シテ「私でござる。
▲住持「をゝ。和御料か。
▲シテ「只今、誰殿の見えましてござる。
▲住持「何ぢや。誰のわせた。
▲シテ「中々。
▲住持「はあ。あの人は、常は来ぬ人ぢやが。何と思うて見えたぞ。
▲シテ「山一つあなたへ参りまするが、俄かに降り掛かつてござる程に、傘を貸してくれいと申されてござるによつて、則ち、貸して遣はしてござる。
▲住持「何ぢや。傘を貸した。
▲シテ「中々。
▲住持「はあ。貸す様な傘はないが。どの傘を貸してやらしました。
▲シテ「こなたの傘を貸しましてござる。
▲住持「あの新しい傘を。
▲シテ「中々。
▲住持「なう。こゝな人。あれは、身共がまだ差し初めもせぬ傘を、人に貸すといふ事があるものでおりやるか。
▲シテ「でも、こなたは、旦那衆の気に入る様にせいとは仰せられぬか。
▲住持「いかに気に入る様にせいと云へばとて、あの傘を貸すといふ事があるものか。今度もあらう事ぢや。重ねてから、さう云うて来たらば、貸さいでも如才にならぬ挨拶がおりやる。
▲シテ「それは、何と申しまする。
▲住持「近頃、易い事ではござれども、この間、師匠の差いて出られましたれば、散々辻風に遭はれまして、骨は骨、皮は皮になつて、何の役に立ちませぬによつて、真ん中を引つ括つて、天井へ打ち上げて置きました。あれでは御用に立ちますまいと云へば、如才にならぬ挨拶でおりやる。重ねて借りに来たならば、その通り云うてやらしめ。
▲シテ「畏つてござる。
これはいかな事。定めて褒められうと存じたれば、したゝかに𠮟られた。今度借りに参つたならば、只今の通りを申さうと存ずる。
▲アド二「これは、この辺りの者でござる。今日、山一つあなたへ所用あつて参るが、途中より、俄かに持病の脚気が起こつて、ひと足も引かれませぬ。則ち、これが旦那寺でござるによつて、馬を借つて参らうと存ずる。
物申。案内申。
▲シテ「又、表に物申とある。案内とは誰そ。どなたでござる。
▲ア二「私でござる。
▲シテ「こなたならば、案内に及びませうか。つゝと通りはなされいで。
▲ア二「左様には存じてござれども、もしお客ばしござらうかと存じて、それ故案内を乞ひましてござる。
▲シテ「それは近頃、念の入つた事でござる。扨、こなたも悦うで下されいわ。今日は最上吉日ぢやとあつて、師匠よりこの寺を譲られてござる。
▲ア二「扨々、それはめでたい事でござる。存じませいで、人を以てお悦びも申しませなんだ。
▲シテ「今日の事ゆゑ、ご存じないは、御尤でござる。扨、只今は、何と思し召しての御出でござるぞ。
▲ア二「さればその事でござる。山一つあなたへ所用あつて参らうと存じてござれば、途中より俄かに脚気が起こつて、ひと足も引かれませぬ。何とぞ、お寺の馬を貸して下されうならば、忝うござる。
▲シテ「近頃、易い事ではござれども、この間、師匠の差いて出られましてござれば、散々辻風に遭はれて、骨は骨、皮は皮になつて、何の役に立ちませぬによつて、真ん中を引つ括つて、天井へ打ち上げて置きました。あれでは御用には立ちますまい。
▲ア二「いや。私の申すは、馬の事でござるぞや。
▲シテ「をゝ。いかにも馬の事でござるとも。
▲ア二「扨々、それは、是非もない事でござる。その儀ならば、私はもう、かう参りまする。
▲シテ「もはやござるか。
▲ア二「さらばさらば。
▲シテ「ようござつた。
▲ア二「はあ。
▲シテ「今度こそ褒めらるゝであらう。
申し。ござりまするか。
▲住持「いや。又、おりやつたか。
▲シテ「只今、誰殿の見えましてござる。
▲住持「それは、何と云うて見えたぞ。
▲シテ「山一つあなたへ参りまするが、途中より俄かに脚気が起こつてござるによつて、馬を貸してくれいと申して見えました。
▲住持「やれやれ。それはさぞ、難義であらう。定めて貸してやらしましたであらうの。
▲シテ「いや。最前の通り申しました。
▲住持「むゝ。最前、馬の挨拶は、何とも云はなんだが。何と仰しやつたぞ。
▲シテ「この間、師匠の差いて出られましてござれば、散々辻風に遭はれて、骨は骨、皮は皮になつて、何の役に立ちませぬによつて、真ん中を引つ括つて、天井へ打ち上げて置きました。あれでは御用に立ちますまいと申してござる。
▲住持「なうなうなう。そこな人。
▲シテ「何事でござる。
▲住持「何事とは。それは、からかさを借りに来た時の挨拶でこそあれ。どこにか、馬を借りに来た時、その挨拶をするといふ事があるものか。
▲シテ「すれば、傘と馬とは違ひまするか。
▲住持「はて。違はいで、何とするものぢや。又、馬も、貸すまいと思へば、これも、如才にならぬ云ひやうがおりやる。
▲シテ「それは、何と申しまする。
▲住持「この間、ちと痩せが見えまするによつて、上の山へ青草に付けて置きましたれば、散々駄狂ひを致いて、腰の骨をしたゝかに打ちぬいて居りまする。あれでは御用に立ちますまいと云へば、貸さいでも如才にならぬ挨拶でおりやる。
▲シテ「今度人が参つたならば、その通り申しませう。
▲住持「必ず、むさとした事を仰しやるな。
▲シテ「畏つてござる。
これはいかな事。今度こそ褒められうと存じたれば、又、したゝかに𠮟られた。今度、人が参つたならば、今の通り申して、褒められうと存ずる。
▲アド三「この辺りの者でござる。明日は、こゝろざす日に当たつてござるによつて、旦那寺の御住持をも、お新発意をも、斎に申し入れうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。かう参つても、お寺にござれば良うござるが。御留守の時は、参つた詮もない事でござる。いや。参る程に、これぢや。さらば、案内を乞はう。
物申。案内申。
▲シテ「今日の様に、人の来る日はない。案内とは誰そ。どなたでござる。
▲ア三「私でござる。
▲シテ「いゑ。追つ付けこなたへ人を進ずる処でござつた。
▲ア三「それは、いかやうな事でござるぞ。
▲シテ「今日は日がらも良いとあつて、師匠よりこの寺を、私へ譲られてござる。
▲ア三「扨々、それはめでたい事でござる。存じませいで、お悦びをも申しませなんだ。
▲シテ「ご存じないは、御尤でござる。
▲ア三「扨、只今参るも、別なる事でもござらぬ。明日は、こゝろざす日に当たつてござる程に、御住持様にもこなたにも、御出なされて斎を召し上がられて下されうならば、近頃忝うござる。
▲シテ「やれやれ。それは、忝うござる。さりながら、私は参りませうが、師匠は、え参られますまい。
▲ア三「それは又、いかやうな事でござるぞ。
▲シテ「さればその事でござる。この間、ちと痩せが見えまするによつて、上の山へ青草に付けて置きましたれば、散々駄狂ひを致いて、腰の骨を打ち抜きましたによつて、厩の隅に菰を着せて寝させて置きましたれば、まじりまじりと致いて居りまする。あの体では明日はえ参られますまい。
▲ア三「いや。私の申すは、お師匠様の事でござるぞや。
▲シテ「中々。師匠の事でござるとも。
▲ア三「扨々、それは近頃、お気の毒な事でござる。その儀ならば、是非に及びませぬ。こなたばかり、御出なされて下されい。
▲シテ「何が扨、私は参りませう。
▲ア三「扨、私はお暇申しまする。
▲シテ「もはやござりまするか。
▲ア三「さらばさらば。
▲シテ「ようござつた。
▲ア三「はあ。
▲シテ「なうなう、嬉しや嬉しや。まんまと最善の通り、申してござる。今度は定めて褒めらるゝであらう。
申し。ござりまするか。
▲住持「又、何ぞ用でもあるか。
▲シテ「只今、誰殿の参られてござる。
▲住持「はあ。あの人は、つゝと信者で、寺へもよう再々わするが。そなたへ寺を渡いた事を聞かれたならば、さぞ悦うで戻られたであらう。
▲シテ「殊の外、悦うで戻られました。
▲住持「さうであらう。他に何ぞ用でもあつたか。
▲シテ「さればその事でござる。明日は、こゝろざす日に当たつてござるによつて、こなたにも私にも、斎に来てくれいと申されてござる。
▲住持「扨々、奇特人ぢや。定めて身共も行かうと云うてやつたであらう。
▲シテ「いや。最前の通り申しました。
▲住持「最前、斎の挨拶は何とも教へぬが。それはまづ、何と仰しやつたぞ。
▲シテ「この間、ちと痩せが《前の通り云ふ》まじりまじりと致いて居りまする。あの体では明日はえ御出なされまいと申してござれば、肝を潰いて戻られましてござる。
▲住持「やいやいやい。そこなやつ。
▲シテ「やあ。
▲住持「やあとは。おのれ、憎いやつの。それは、馬の挨拶でこそあれ。斎の挨拶に、それを云ふといふ事があるものか。
▲シテ「でも、こなたは今度、誰そ見えたならば、今の通り云へとは仰せられぬか。
▲住持「まだそのつれな事を云ふか。その上、身共がいつ駄狂ひをした事があるぞ。
▲シテ「云うたならば、恥をかゝせられうが。
▲住持「恥をかく覚えはない。あらば、仰しやれ。
▲シテ「それならば、申しませう。それ。先度、門前のいちやが来たではござらぬか。
▲住持「それが、駄狂ひか。
▲シテ「まづ、聞かせられい。こなたは手招きをして、いちやを連れて眠蔵へ行て、駄狂ひを召されたではござらぬか。
▲住持「いや。あれは、衣のほころびを縫うて貰うた。
▲シテ「ほころびを縫うて貰うた者が、ふたりともに鼻の上へしつぽりと汗をかくものでござるか。
▲住持「いや。おのれは憎いやつの。云はせて置けば、方量もない。師匠に恥をかゝせ居る。おのれが様なやつは、まづかうして置いたが良い。
▲シテ「いや。師匠ぢやと云うて、負くる事ではない。
▲住持「何とするぞ。
▲シテ「やあやあやあ。やつとな。勝つたぞ、勝つたぞ。
▲住持「やいやい。師匠をこの様にして。将来が良うあるまいぞ。あの横着者。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。
底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.)
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