『能狂言』下131 出家座頭狂言 そうはち

▲主「これは、この辺りに住居致す者でござる。某、存ずる仔細あつて、出家と料理人を抱へうと存ずる。まづ、この由を高札に打たう。一段と良うござる。
▲出家「これは、この辺りに住居致す出家でござる。某、二、三年以前までは俗で、料理人でござつたが、浮世を味気なう存じて、出家になつてござれば、俄か坊主の事なれば、斎非時のくれ手はなし。迷惑致す処に、山一つあなたに大有徳な人がござつて、何者にはよるまい、出家と料理人を抱へうと、たかふだを打たれたと申すによつて、あれへ参り、御扶持を貰うてたべうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。かう参つても、御扶持を下さるれば良うござるが。下されぬ時は、参つた詮もない事でござる。いや。参る程に、これに高札がある。まづ、この辺りから案内を乞はう。《常の如く》
▲主「誰そ。どなたでござる。
▲出家「高札の表について参つた出家でござる。
▲主「易い事。扶持をして進じませう。かうお通りやれ。
▲出家「それは忝うござる。
▲主「つゝと通らしめ。
▲出家「心得ました。
▲主「それに、とうどおりやれ。
▲出家「はあ。
▲シテ「これは、この辺りに住居致す、惣八と申す料理人でござる。某、近い頃までは出家でござつたが、出家と申すものは、朝夕の勤行の、旦那あしらひのと申して、事難しいものでござるによつて、ふと落堕致いてござれば、出家の時分には、斎非時のくれ手もござつたれども、今は左様の事はなし、行き当たつて、ほうど迷惑致す処に、山一つあなたに大有徳なお方がござつて、出家と料理人を抱へうと高札を打たれたと申す。私も、出家の時分に精進料理を手掛けた事がござるによつて、料理人になつて参り、御扶持を貰うてたべうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、有徳人の事でござるによつて、定めて料理人もあまたござらう程に、行く行くは見習うて、魚類の料理をも致さうと存ずる。いや。参る程に、これに高札がある。さらば、この辺りから案内を乞はう。《常の如く》
▲主「誰そ。どなたでござる。
▲シテ「高札の表について参つた料理人でござる。
▲主「何ぢや。高札の表について来た、料理人ぢや。
▲シテ「中々。
▲主「扶持をして取らせうが、名は何と云ふぞ。
▲シテ「惣八と申しまするが、お気に入らずば、いかやうにも変へませう。
▲主「惣八。良い名ぢや。扶持をせう程に、かう通れ。
▲シテ「それはありがたうござる。
▲主「つゝと通れ。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「それにとうど居よ。
▲シテ「はあ。
▲主「まんまと出家と料理人を抱へてござる。銘々に役を申し付けう。
なうなう。何と窮屈かな。
▲出家「いや。左様にもござらぬ。
▲主「扨、そなたの前にあるは、持仏堂ぢや。随分綺麗に掃除して、毎日香はなを手向けてくれさしめ。
▲出家「畏つてござる。
▲主「扨、これは法華経ぢや。これを、日経に読うでくれさしめ。
▲出家「心得ました。
▲主「居間に居て聞く程に、いかにも高らかに読うでおくりやれ。
▲出家「畏つてござる。
▲主「頼むぞや。
▲出家「はあ。
▲主「やいやい。惣八。
▲シテ「はあ。
▲主「何と窮屈なか。
▲シテ「いや。左様にもござらぬ。
▲主「扨、晩程俄かに客がある程に、料理をしてくれさしめ。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「この鯛は、汁にするによつて、背切りにしておくりやれ。
▲シテ「心得ました。
▲主「又、この鯉は、刺身にする程に、随分手際良う細造りにしてくれい。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「出来たならば、さうをさしめ。
▲シテ「心得ました。
▲主「頼むぞや。
▲シテ「はあ。
▲出家「はあ。
頼うだ人は、もはや奥へ行かれたか知らぬ。扨々、これは迷惑な事かな。定めて、持仏の掃除なりとしたならば、済む事ぢやと存じたれば、何やらこの様な難しい経を出いて、読めと仰しやる。まづ、あけて見よう。扨も扨も、皆四角な文字で、これは一字も読めぬ。何としたものであらうぞ。
《この内に》
▲シテ「はや、頼うだ人は行かれたか知らぬ。扨も扨も、迷惑な事かな。有徳人ぢやによつて、料理人も多うあらう程に、行く行くは見習うて、魚類の料理をもせうと存じて参つたれば、来るや否や、この様な赤い魚や黒いうをゝ出いて、何やら難しい料理を云ひ付けられたが。これはまづ、何としたものであらうぞ。扨も扨も、長い薄刃ぢや。この又、火箸は何になる事ぢや知らぬ。何にもせよ、この赤い魚の、目がぎろぎろとして、気味が悪い。この火箸で目をくり抜かうか。
▲出家「あゝ。
▲シテ「いやいや。この薄刃で、かぶを離さう。
▲出家「あゝ。
▲シテ「いや。こゝな御出家は。魚類の料理はお知りやるまいに。料理人の料理するに、なぜにあゝとは仰しやるぞ。
▲出家「近頃尤ぢや。定めてそなたは、高札の表について来た料理人であらう。
▲シテ「中々。その通りでおりやる。
▲出家「さう見えた。それならば、まづ、身共が身の上から話いて聞かさう程に、よう聞かしめ。
▲シテ「心得た。
▲出家「某、二、三年以前までは俗で、料理人であつたが。
▲シテ「あの、そなたがの。
▲出家「中々。
▲シテ「ほう。
▲出家「浮世を味気なう思うて、ふと出家になつたれば、俄か坊主の事なれば、斎非時のくれ手はなし、迷惑する処に、こゝ元で出家と料理人を抱へうと、高札を打たれたと云ふ程に、定めて持仏の掃除なりとしたならば、済む事であらうと思うて、これへ来て、御扶持を貰うたれば、来るとその儘、この様な難しい経を出いて、読めと云はれて、殊の外迷惑する処に、今、和御料の体を見れば、魚類などをつひに手掛けた事はないと見ゆるによつて、それ故、あゝと云うた事ぢや。
▲シテ「やれやれ。そなたの話を聞いて、落ち着いた。扨々、世に似た事も、あればあるものぢや。それなら身共が身の上も、話いて聞かさう。ようお聞きやれ。
▲出家「心得た。
▲シテ「某は、近い頃までは、出家であつたが。
▲出家「ほう。
▲シテ「出家といふものは、朝夕の勤行の、旦那あしらひのと云うて、事難しいものぢやによつて、ふと落堕したれば、出家の時分には、斎非時のくれ手もあつたれども、今では左様の事はなし、行き当たつて、ほうど迷惑する処に、そなたの仰しやる通り、こゝ元で出家と料理人を抱へうと聞いたによつて、某も出家の時分、精進料理を少し致し覚えて居る程に、有徳人の事なれば、料理人もあまたあらう程に、行く行くは見習うて、魚類の料理をも致さうと存じてこれへ参つたれば、来るや否や、まだ居直りもせぬに、この様な赤い魚や黒い魚を出いて、何やら難しい料理を云ひ付けられて、ほうど迷惑致す処でおりやる。
▲出家「仔細を聞けば、尤ぢや。扨々、世には似た事もあるものでおりやる。
▲シテ「その通りぢや。扨、そなたは、二、三年以前まで料理人であつたならば、魚類の料理をば、何なりともするであらう。
▲出家「をゝ。魚類の料理は、何なりともする事ぢや。
▲シテ「それならば、良い相談があるわ。
▲出家「何とするぞ。
▲シテ「某は、もと出家であつたによつて、経は何なりとも読む程に、その経を身共が読うでやらうず。又、そなたは、この魚を料理してくれさしめ。
▲出家「誠に、これは良い分別ぢや。
▲シテ「まづ、かやうにして今日の間を合はせ、行く行くは、経をば身共が教へてやらう程に、料理をば、そなた教へておくりやれ。
▲出家「中々。教へておまさうとも。
▲シテ「扨、その経は何経ぢや。
▲出家「はあゝ。何とやら云はれたが。をゝ。それそれ。ひぎやうと仰しやつた。
▲シテ「これはいかな事。日経といふ経があるものか。これへ見せさしめ。
▲出家「さあさあ。見てくれさしめ。
▲シテ「はあ。これは、法華経ぢや。
▲出家「誠に、法華経であつた。
▲シテ「定めて、これを日経に読めと云ふ事であらう。
▲出家「をゝ。それそれ。居間に居て聞く程に、いかにも高らかに日経に読めと云はれた。
▲シテ「さうであらう。それならば、経を読まう程に、そなたはこの魚を料理しておくりやれ。
▲出家「心得た。まづ、身拵へをせう。そなたは手伝うてくれさしめ。
▲シテ「心得た。
▲出家「まづ、この衣に襷を掛けておくりやれ。
▲シテ「心得た。扨々、料理といふものは、甲斐甲斐しいものでおりやるの。
▲出家「中々。甲斐甲斐しうなうてはならぬ事でおりやる。さあさあ。そなたは早う、経を読ましめ。
▲シテ「心得た。妙法蓮華経。にやむにやむにやむ。
▲出家「はゝあ。扨も扨も、読むわ、読むわ。立て板に水を流す様に読む。
いや。なうなう。
▲シテ「何事ぢや。
▲出家「この鯛は、何になるぞ。
▲シテ「鯛とは。
▲出家「この赤い魚ぢや。
▲シテ「その赤いうをゝ、鯛と云ふか。
▲出家「中々。
▲シテ「その鯛は、汁にする程に、輪切りとやら云はれた。
▲出家「こゝな者は。汁になるならば、背切りであらう。
▲シテ「をゝ。その、背切りであつた。
▲出家「心得た。さあさあ。随分高らかに読うでくれさしめ。
▲シテ「心得た、心得た。
《又、経読む。出家、鯛の鱗をふくを、シテ、見て》
はゝあ。皮を剥くわ、皮をむくわ。
▲出家「これはいかな事{*1}。皮を剥くとは云はぬ。鱗をふくと申す。
▲シテ「鱗をふく。
▲出家「中々。
▲シテ「難しい事でおりやるの。
▲出家「よう覚えさしめ。
▲シテ「心得た。
《又、経を読む。出家、魚頭を突く》
はゝあ。かぶを離いたわ。
▲出家「《笑うて》扨々、そなたはむさとした。それは皆、精進料理の言葉ぢや。これは、魚頭を突くと申す。
▲シテ「何ぢや。魚頭を突く。
▲出家「中々。
▲シテ「扨々、色々難しい事がある事でおりやるの。
▲出家「その通りでおりやるとも。さあさあ。随分高らかに読ましめや。
▲シテ「心得た、心得た。
《又、経を読む。鯛を背切りにする》
ほう。輪切りにするわ。
▲出家「これはいかな事。これが、背切りでおりやる。
▲シテ「それが、背切りでおりやるか。
▲出家「中々。さあさあ。随分精を出いて読ましめ。
▲シテ「心得た。
《又、経読む。鯛を切り済まして》
▲出家「扨も扨も、高らかに読むわ、読むわ。
いや。これこれ。
▲シテ「何事ぢや。
▲出家「この鯉は、何になるぞ。
▲シテ「はあ。その黒い魚を、鯉と云ふか。
▲出家「中々。
▲シテ「それは確か、酢和へにするによつて、細かう刻めとやら云はれた。
▲出家「《笑うて》最前から和御料の云ふは、皆、精進料理の言葉ぢや。定めて、刺身になるによつて、切り目尋常に、細造りであらう。
▲シテ「をゝ。その、細造りであつた。
▲出家「定めてさうであらう。さあさあ。又、読ましめ。
▲シテ「心得た、心得た。
《又、経を読む。出家、鱗をふく》
はゝあ。鱗をふくわ。
▲出家「はあ。和御料は、はや覚えたの。
▲シテ「中々。覚えたとも。
▲出家「さりながら、この鯉に限つて、鱗をふくとは申さぬ。毛をふくと申す。
▲シテ「毛をふく。
▲出家「中々。
▲シテ「すれば、魚によつて、違ふ事でおりやるか。
▲出家「中々。違ふ事ぢや。
▲シテ「扨々、それは難しい事でおりやる。
▲出家「色々難しい事ぢや程に、よう覚えさしめ。
▲シテ「心得た。
《経読む。魚頭を突くを見て》
はゝあ。魚頭を突いたわ。
▲出家「よう覚えたの。
▲シテ「随分気を付けて、覚ゆる事ぢや。
《三枚におろすを見て》
はゝあ。へぐわ、へぐわ。
▲出家「これはいかな事。これは、三枚におろすと申す。
▲シテ「三枚におろす。
▲出家「中々。
▲シテ「色々の事がおりやるの。
▲出家「その通りぢや。早う読ましめ。
《又、経読む。細造りを見て》
▲シテ「刻むわ、刻むわ。
▲出家「《笑うて》これが、細造りでおりやる。
▲シテ「それが、細造りでおりやるか。
▲出家「中々。
▲シテ「これは、難しさうな事ぢや。
▲出家「いかにも。これは、つゝと手際ものでおりやる。
▲シテ「さう見えた。
▲出家「さあさあ。経を読ましめ。
▲シテ「心得た、心得た。
《細造りの時分、主、立つて》
▲主「出家の経を読む声は聞こえまするが、惣八が料理が出来るか、参つて見ようと存ずる。これはいかな事。惣八が経を読む。出家が料理をする。定めてすつぱであらう。
やいやいやい。
▲出家「これはいかな事。見付けられたさうな。
《と云うて、出家は、鯛を持つて脇座へ行き、経にして読む。惣八は、経を持つて笛の上へ行て、「苦々しい事ぢやが、何とせう」と云うて居る》
▲主「やいやい。おのれ。それは、鯛ではないか。
▲出家「これは日経でござる。
▲主「何の日経。
▲出家「あゝ。許させられい、許させられい。
▲主「やるまいぞやるまいぞ。
《この内、惣八、「致し様がござる」と云うて、経を切つて居る》
▲主「やいやい。勿体ない。それは、法華経ではないか。
▲シテ「これは、背切りでござる。
▲主「何の背切り。
▲シテ「あゝ。許させられい、許させられい。
▲主「あの横着者。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。

校訂者注
 1:底本は、「これはいかな。」。

底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.

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