『能狂言』下133 出家座頭狂言 あくばう

▲出家「これは、西近江に住居致す出家でござる。今日は所用あつて、東近江へ参る。まづ急いで参らうと存ずる。誠に、今日は空が曇つてござるによつて、傘を持つてござる。何とぞ、途中で雨に遇はぬ様に致したい事でござる。
《と云うて、一遍廻る内に、出る》
▲シテ「《謡》ざゞんざ。浜松の音はざゞんざ。
はあゝ。酔うた、酔うた。いや。これへ出家が参る。
なうなう。御坊。
▲出家「はあ。
▲シテ「御坊は、どれへおりやるぞ。
▲出家「西近江から東近江へ参る者でござる。
▲シテ「何ぢや。西近江が東近江へ歪うだ。
▲出家「いや。左様ではござらぬ。西近江から東近江へ参る者でござる。
▲シテ「むゝ。何ぢや。西近江から東近江へ行く。
▲出家「中々。
▲シテ「お供致さう。
▲出家「いや。見ますれば、ご仁体でござる。お連れには似合ひますまい。御先へ参りませう。
▲シテ「あゝ。これこれ。連れには似合うた連れもあり、又、似合はぬ連れもあるものぢや。是非ともお供申さう。
▲出家「その儀でござらば、御意次第でござる。
▲シテ「それならば、先へおりやれ、先へおりやれ。
▲出家「まづ、こなたから御出なされませい。
▲シテ「あゝ。勿体ない。尊い御出家を、何と後にさるゝものぢや。平に先へおりやれ、先へおりやれ。
▲出家「それならば、お先へ参りませう。さあさあ。ござれござれ。
▲シテ「参る参る。はあゝ。扨、御坊は、どれからどれへやら行くと仰しやつたの。
▲出家「西近江から東近江へ参りまする。
▲シテ「をゝ。それそれ。西近江から東近江へ行くと仰しやつた。なう。御坊。
▲出家「はあ。
▲シテ「この長刀を、かう、かいこうだ処は、早からうか、遅からうか。
▲出家「出家の事でござるによつて、早うござらうも、遅うござらうも、存じませぬ。
▲シテ「さう云ふは、遅いと云ふ事か。
▲出家「はあ。
《と云うて、傘で受くる》
▲シテ「その傘で受けた処は、この長刀が切れまいと思ふか。おそらく、その傘の十本や廿本は、切り折つてお目に掛けう。
▲出家「あゝ。切れませう、切れませう。
▲シテ「何ぢや。切れう。
▲出家「中々。
▲シテ「それならば、堪忍をしてやらう。
《立つてみても、立たれぬ故》
いや。なう。御坊。
▲出家「はあ。
▲シテ「身共はちと酔うたさうな。慮外ながら、手を取つてくれさしめ。
▲出家「畏つてござる。さらば、立たせられい。
▲シテ「やつとな。いや。なうなう。怖い事はない。さあさあ。手を取つておくりやれ。
▲出家「畏つてござる。さあさあ。ござれござれ。
▲シテ「参る参る。扨、御坊は、どれへ行くとやら云うたの。
▲出家「西近江から東近江へ参りまする。
▲シテ「をゝ。それそれ。西近江から東近江。いや。来る程に、某が定宿ぢや。一飯を云ひ付けう。かう通らしめ。
▲出家「いや。私はもはや、お暇申しませう。
▲シテ「はて。一飯を云ひ付けうと云ふに。
▲出家「それならば、通りませう。
▲シテ「つゝと通らしめ。
▲出家「畏つてござる。
▲シテ「それにゆるりとおりやれ。
▲出家「心得ました。
▲シテ「やいやい。亭主、亭主。
▲宿「はあ。いゑ。悪坊様。今日も良いご機嫌でござる。
▲シテ「いつ、おのれが酒を盛つた事があるぞ。
▲宿「はあ。
▲シテ「出家をいち人同道した程に、一飯の云ひ付けい。
▲宿「畏つてござる。
▲シテ「早う拵へい。
▲宿「心得ました。
▲シテ「ゑい。
▲宿「はあ。
▲シテ「いや。なうなう。御坊。
▲出家「何事でござる。
▲シテ「御坊は、この長刀が怖さうな。
▲出家「殊の外、怖ろしうござる。
▲シテ「あの柱へ寄せ掛けて置かう。
▲出家「それが良うござらう。
▲シテ「いや。なうなう。御坊、御坊。
▲出家「はあ。
▲シテ「身共はちと酔うたと見えて、あの柱が十本にも廿本にも見ゆる。これでは中々、寄せ掛くる事はなるまい。只、下に置かう。
▲出家「それが良うござらう。
▲シテ「扨、この刀も怖さうな。
▲出家「中々。怖うござる。
▲シテ「これも下に置かう。
▲出家「それが良うござる。
▲シテ「扨、身共は殊の外草臥れた程に、これへ寄つて、腰を打つてくれさしめ。
▲出家「畏つてござる。
▲シテ「やつとな。
▲出家「この辺りでござるか。
▲シテ「をゝ。その辺りでおりやる。
▲出家「これで良うござるか。
▲シテ「をゝ。良うおりやる。
▲出家「これで良うござるか。
▲シテ「良うおりやるとも。
《幾つも云ふ。段々と、シテ、寝入る》
▲出家「これで良うござるか。
《と云うて、強く打つ》
▲シテ「がつきめ。やるまいぞ。
《と云うて、起き返り、刀を取つて、反り打つ》
▲出家「旅疲れに疲れまして、ちと眠りまして、それ故、強う当たつたものでござる。真つ平許させられい。
▲シテ「何ぢや。旅疲れで眠つて、強う当たつたと云ふか。
▲出家「左様でござる。
▲シテ「それならば、堪忍をせう。扨、今度はこちらを打つてくれさしめ。
▲出家「畏つてござる。
▲シテ「とてもの事に、この小袖を上へ掛けてくれさしめ。
▲出家「心得ましてござる。
▲シテ「必ず眠るまいぞ。
▲出家「今度こそ、眠る事ではござらぬ。この辺りでござるか。
▲シテ「をゝ。その辺りが良うおりやる。
▲出家「これで良うござるか。
▲シテ「それで良うおりやる。
《又、幾つも云ふ。初めの内は、一度一度にシテ、挨拶する。段々と寝る。出家、篤と見澄まして、強く打つてみても起きぬ故、脇へのきて》
▲出家「なうなう。怖ろしや。あまの命を拾うた。
申し。御亭主。ござりまするか。
▲宿「何事でござる。
▲出家「あれは、何と申す人でござる。
▲宿「こなたは、あの人を御存じござらぬか。
▲出家「いゝや。何とも存じませぬ。
▲宿「あれは、六角殿の童坊に、悪坊と申して、大の酔狂人でござつて、あの人に逢うて疵を蒙らぬ者はござらぬが。こなたは、疵は蒙らせられぬか。
▲出家「いやいや。仕合せと、疵は蒙りませぬ。扨、私はもう、かう参りまする。
▲宿「一飯を申し付けられて、もはや出来ました。参つてござれ。
▲出家「いや。一飯も二飯もいりませぬ。私をば、往なせて下されい。
▲宿「それならば、ともかくもでござる。
▲出家「後を良い様に、くろめて下されい。
▲宿「心得ました。
▲出家「頼みまする。
▲宿「はあ。
▲出家「なう。怖ろしや。急いで参らう。が、余り憎い事でござる。何と致さう。いや。致し様がござる。
《傘と長刀と取り替へ、助老と刀と取り替へ、衣と小袖を取り替へ、刀を差し、壺折をして、長刀を持つて》
やい。最前、身共をなぶつたが良いか。これが良いか。今起きて見居れ。この長刀にのせてくれうぞ。ゑい。
なう。怖ろしや。急いで罷り帰らう。
▲シテ「はあ。よう寝た事かな。誰そ、湯をくれい。茶をくれい。これはいかな事。内ぢや内ぢやと思うたれば、これは、定宿ぢや。定めて又、たべ酔うて、これへ来て寝たものであらう。はあ。殊の外、寒うなつたが。小袖は何とした知らぬ。はあ。これは何ぢや。これは、衣ぢや。何として、衣がこれにある事ぢや知らぬ。又、身共が刀がある筈ぢやが。はゝあ。これは何ぢや。をゝ。それそれ。これは、禅僧の座禅をする時かうする、助老といふ物ぢや。このぢよろが、何としてこれにある事か。合点の行かぬ事ぢや。又、長刀がある筈ぢや。はあ。これに傘がある。身共が宿をづる時は、小袖を着、刀を差し、長刀を持つて出たが、その様な物は、ひと色もなうて、衣や助老や傘があるは、何とも合点の行かぬ事ぢや。はゝあ。それそれ。最前、夢心の様に、出家を一人同道したと思うたが、日頃、身共が大酒を好み、悪逆を致すによつて、仏道へ引き入れんがため、定めて、釈迦か達磨の変化させられて、この姿になされたものであらう。今日よりしては、ふつゝりと思ひ切つたぞ。《謡》
思ひ寄らずの遁世や、思ひ寄らずの遁世や、小袖に替へしこのころも、刀に替へしこの助老、長刀に替へたる傘を、かたげて頭陀に出でうよ、かたげて頭陀に出でうよ。
行脚の僧に、鉢を申さう。はつちはつち。

底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.

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