『能狂言』下134 出家座頭狂言 あくたらう
▲シテ「扨も扨も、しわい亭主かな。人に酒を盛るならば、堪能する程振舞ひはせいで。あゝ。呑み足らいで、気味が悪い。いや。それについて、この間、伯父者人より、何やら用があると云うておこされた。さらば、これから伯父者人のかたへ参つて、酒をねだつてたべうと存ずる。かう参つても、お宿にござれば良いが。もし内に居られぬ時は、参つた詮もない事ぢや。いや。来る程に、これぢや。
なうなう。伯父者人。内にござるか。ござりまするか。
▲伯父「いや。悪太郎が参つたさうな。いゑ。悪太郎。おりやつたか。
▲シテ「扨、この間は久しう御無沙汰致いてござるが、何と、変らせらるゝ事もござらぬか。
▲伯父「身共も変る事もおりないが、そなたも息災で、めでたうおりやる。
▲シテ「扨、この間、用の事があると云うて、人を下されてござるによつて、それ故今日参りましたが、いかやうな御用でござるぞ。
▲伯父「用と云うて、別なる事でもおりない。和御料が大酒を好み、悪逆をするを、なぜに身共に異見を云はぬと云うて、いづれも叱らせらるゝ程に、向後はふつゝりと思ひ留めてくれさしめ。
▲シテ「なう。腹立ちや。誰がその様な事を云ひました。
▲伯父「それそれ。はや、某が前でさへ、その様に腹を立つるではないか。
▲シテ「いやいや。腹は立てませぬ。その儀ならば、これ程好きの御酒でござれども、こなたの仰せらるゝ事でござるによつて、今日よりふつゝりとたべますまい。
▲伯父「何ぢや。呑むまい。
▲シテ「中々。
▲伯父「とてもの事に、誓言で承りたい。
▲シテ「弓矢八幡、たべますまい。
▲伯父「やれやれ。嬉しや。折角某が異見をしたに、早速聞き入れておくりやつて、近頃満足致す。
▲シテ「何が扨、こなたの仰せらるゝ事を、何と致いて背くものでござるぞ。今日よりしては、一すいも呑む事ではござらぬ。
▲伯父「近頃、悦ばしい事ぢや。身共も安堵致いておりやる。
▲シテ「扨、私もこなたにちと願ひがござるが、聞いて下されうか。
▲伯父「何が扨、某が異見を聞いておくりやつたによつて、何なりとも聞かうが。いかやうな願ひでおりやる。
▲シテ「別なる事でもござらぬ。酒を一つ振舞うて下されい。
▲伯父「こゝな者は、むさとした。今誓言を立てゝ、又、酒を呑まうと云ふ事があるものか。
▲シテ「さればその事でござる。只今誓言を立てましたによつて、明日よりしてはふつゝりと呑む事はなりませぬ。今日は生涯の暇乞ひでござる程に、何とぞ一つ振舞うて下されい。
▲伯父「これは尤ぢや。その儀ならば、一つ振舞うてやらう程に、まづ下に居さしめ。
▲シテ「畏つてござる。
▲伯父「さあさあ。一つ呑うで行かしめ。
▲シテ「これは、例の大盃を持たせられてござるの。
▲伯父「暇乞ひぢやによつて、それ故おほさかづきを出いた。さあさあ。呑ましめ。
▲シテ「お酌はこれへ下されい。
▲伯父「いやいや。某が注いでやらう。
▲シテ「これは慮外にござるが、それならば、ついで下されい。
▲伯父「心得た。
▲シテ「をゝ。恰度ござる。
▲伯父「ちやうどある。
▲シテ「さらば、たべませう。
▲伯父「それが良からう。扨、風味は何とあるぞ。
▲シテ「風味の。
▲伯父「中々。
▲シテ「たべたいたべたいと存ずる処へ、つゝかけてたべましたによつて、たゞ冷やりとばかり致いて、風味を覚えませぬ。今一つたべて、風味を覚えませう。
▲伯父「それが良からう。
▲シテ「をゝ。又、恰度ござる。
▲伯父「ちやうどある。
▲シテ「これをたべたならば、風味がしれませう。
▲伯父「をゝ。今度は知るゝであらう。扨、何とでおりやる。
▲シテ「はあ。いや。こなたでたべまする御酒に、あだなごしゆはござらぬが、今日のは取り分き結構に覚えまする。
▲伯父「誠に、そなたは好く程あつて、よう呑み覚えて居る。これは、遠来ぢや。
▲シテ「や。ご遠来。
▲伯父「中々。
▲シテ「私の申さぬ事か。常の御酒ではござるまいと存じてござる。ご遠来ならば、今一つたべませう。
▲伯父「それならば、数良う今一つ呑ましめ。
▲シテ「これは、度々慮外にござる。をゝ。又、恰度ござる。
▲伯父「をゝ。恰度ある。
▲シテ「扨々、気味の良いお酌ぢや。さらば、たべませう。
▲伯父「それが良からう。又、一息に呑うだ。
▲シテ「扨、こなたは参らぬか。
▲伯父「いやいや。身共は呑まぬ。
▲シテ「それならば、ご名代に今一つたべませう。
▲伯父「酒は惜しまぬが。下地もあり、もはや過ぎようぞや。
▲シテ「いかないかな。この盃で五つや七つで、酔ふ事ではござらぬ。
▲伯父「それならば、注いで遣らう。そりやそりや。
▲シテ「をゝ。又、なみなみと受け持ちました。
▲伯父「又、なみなみとある。
▲シテ「かう受け持つて、これを呑まう呑まうと存ずる処は、何に替へられたものではござらぬ。
▲伯父「呑む者は、定めてさうであらう。
▲シテ「又、たべませう。
▲伯父「はあ。又、一息に呑うだ。
▲シテ「扨も扨も、呑めば呑む程、旨い酒でござる。とてもの事に、今一つたべませう。
▲伯父「最前も云ふ通り、酒は惜しまぬが、もはや過ぎよう程に、いらぬものでおりやる。
▲シテ「扨々、しわい事を仰せらるゝ。明日よりはふつゝりとたぶる事はなりませぬ。暇乞ひでござる程に、平に今一つ注いで下されい。
▲伯父「それならば、半盞注いでやらう。
▲シテ「あゝ。気味の悪い。恰度注いで下されい。
▲伯父「その儀ならば、ついでやらう。そりやそりやそりや。
▲シテ「をゝ。又、恰度ござる。
▲伯父「をゝ。又、ちやうどあるわ。
▲シテ「さらば、たべませう。
▲伯父「それが良からう。はあ。ちと手際が悪しうなつた。
▲シテ「もはやたべますまい。
▲伯父「もう呑むまい。
▲シテ「あゝ。もう嫌でござる。
▲伯父「それならば、取るぞや。
▲シテ「早う取らせられい。扨も扨も、結構な伯父御かな。大盃で三つ、五つ。ほつてと酔うた。
▲伯父「いや。なうなう。悪太郎。和御料は、もはや戻らぬか。
▲シテ「どこへ。
▲伯父「はて。どこへと云ふ事があるものか。内へ戻らぬかと云ふ事ぢや。
▲シテ「内への。
▲伯父「中々。
▲シテ「戻りませう、戻りませう。やつとな。
▲伯父「はあ。酔うたさうな。
▲シテ「酔ひは致しませぬが、暫く居敷いて居ましたによつて、ちとしびりがきれました。慮外ながら、手を取つて下されい。
▲伯父「心得た。さらば、立たしめ。
▲シテ「やつとな。
▲伯父「はあゝ。酔うたさうな。
▲シテ「いかないかな。酔ひは致しませぬ。
▲伯父「扨、最前あの如く誓言を立てた事ぢやによつて、明日からはふつゝりと酒を呑ましますな。
▲シテ「いや。申し。何と、この旨い酒が已めらるゝものでござるぞ。明日からは、いよいよたべねばなりませぬ。
▲伯父「こゝな者は。あの如く誓ひを立てゝ、その様なむさとした事があるものでおりやるぞ。
▲シテ「これはざれ言。あれ程までに誓言を立てゝ、それを忘れてなるものでござるか。お気遣ひなされまするな。明日からはふつゝりと呑む事ではござらぬ。
▲伯父「をゝ。それそれ。それでこそ落ち着いた。
▲シテ「扨、私はもう、かう参りまする。
▲伯父「もはやおりやるか。
▲シテ「さらばさらば。
▲伯父「ようおりやつた。
▲シテ「はあ。
扨も扨も、結構な伯父者人かな。明日から酒をたぶまいと申したれば、暇乞ひぢやと云うて、おほさかづきで三つ、五つ。ほつてと酔うた。ちと謡うて参らう。《謡》
ざゞんざ。浜松の音はざゞんざ。
あゝ。ちと酔うたさうな。いつもこの道は一筋ぢやが、今日はふた筋にもみ筋にも見ゆる。これでは中々行かれまい。ちと休んで参らう。やつとな。
▲伯父「最前、甥の悪太郎が参つて、明日よりして酒をたぶまい程に、暇乞ひに一つ呑ませてくれいと申してござるによつて、呑ませてござるが、殊の外酔うた体でござつた。心元なうござる。後から参つて見ようと存ずる。あゝ。何とぞ無事に宿へ戻れば良うござるが。心元ない事でござる。さればこそ、道の真ん中に寝て居る。扨々、苦々しい事ぢやが。何と致さう。いや。思ひ出いた。致し様がござる。
《と云うて、刀、長刀、小袖を取り、褊裰、珠数、笠を置きて》
やい。汝、良く聞け。日頃、たいしゆを好み悪逆をするによつて、今この姿になす。則ち、今日よりして汝が名を、南無阿弥陀仏と付くるぞ。ゑい。
▲シテ「はあ、はあ。
あゝ。よう寝た。誰そ、湯をくれい。茶をくれい。これはいかな事。宿ぢや宿ぢやと思うたれば、道の真ん中ぢや。何としてこの所に寝て居た事か知らぬ。をゝ。それそれ。今日もよそへ行て酒を呑うで、戻りに又、伯父者人の方ヘ行て、御酒をねだつてたべたと存じたが。すれば、たべ酔うて、この所に寝て居たものであらう。あゝ。殊の外、寒うなつたが。小袖は何としたか。はあゝ。これは何ぢや。扨々、これは薄い物ぢやが。扨、身共が刀や長刀がある筈ぢやが。これは何ぢや。何やら玉を貫いた物ぢやが。これは何といふ物ぢや知らぬ。はあ。これに笠がある。扨々、合点の行かぬ。身共が宿をづる時は、小袖を着、刀を差し、長刀を持つて出たが。その様な物はなうて、何やら見知らぬ物ばかりあるが。何とも合点の行かぬ事ぢや。はあゝ。それそれ。最前、夢心の様に、日頃悪逆をするによつて、この姿になす。則ち、今日よりしては、汝が名を南無阿弥陀仏と付くるぞ。ゑい。と承ると、その儘目が覚めたが。すれば、某が日頃、大酒を好み、酔狂を致すによつて、仏道へ引き入れんがため、仏菩薩のこの体になされたものであらう。今日よりしては、ふつゝりと思ひ切つて、仏道修行を致さうと存ずる。扨も扨も、今までは只うかうかと、益ない大酒致いて、酔狂致いてござる。これからは、随分と後生を願はうと存ずる。
《この内に、出家、出て、念仏申す》
▲出家「南無阿弥陀、南無阿弥陀。南無阿弥陀ん仏、南無阿弥陀。南無阿弥陀ん仏、南無阿弥陀。
▲シテ「扨も扨も、世の中は早う知るゝものでござる。只今付いた身共が名を、はや何者やら知つて、呼うで参る。返事をせずばなるまい。
▲出家「南無阿弥陀。
▲シテ「やあ。
▲出家「南無阿弥陀。
▲シテ「やあ。
▲出家「南無阿弥陀ん仏、南無阿弥陀。
▲シテ「やあ。
▲出家「これはいかな事。愚僧が念仏を申せば、何者やら返事を致す。道を替へて参らうと存ずる。
▲シテ「これはいかな事。今の程返事をするに、聞き付けぬ。但し、きやつは聾か知らぬ。いや。道を替へて、又呼うで参る。又、返事をせずばなるまい。
▲出家「南無阿弥陀。
▲シテ「やあ。
▲出家「南無阿弥陀。
▲シテ「やあ。
▲出家「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀。
▲シテ「やあ。
▲出家「《笑うて》又、返事をする。きやつは気違ひと見えた。今度は念仏を速めて見ませう。
《シテも、笑うて》
▲シテ「扨も扨も、疑ひもない、きやつは聾ぢや。あれ程高らかに返事をするに、聞こへぬさうな。や。今度はしきりに速めて云うて参る。速めて返事をせずばなるまい。
▲出家「南無阿弥陀。
▲シテ「やあ。
▲出家「南無阿弥陀。
▲シテ「やあ。
▲出家「南無阿弥陀ん仏、南無阿弥陀。
▲シテ「やあやあやあやあやあやあやあ。
《二、三遍も返して云うて、互に笑ふ》
▲出家「扨も扨も、疑ひもない気違ひぢや。
▲シテ「扨も扨も、可笑しいやつでござる。今の程返事をするに、聞こへぬさうな。きやつは聾には極まつた。
▲出家「いや。なうなう。
▲シテ「やあやあ。こちの事でおりやるか。
▲出家「中々。そなたの事ぢや。扨、最前から、愚僧が念仏を申せば、そなたは返事をするが、あれは何とした事ぢや。
▲シテ「いや。身共が名を呼うでおりやる程に、それ故返事をした事でおりやる。
▲出家「扨は、南無阿弥陀仏といふが、そなたの名か。
▲シテ「中々。某が名ぢや。
▲出家「これはいかな事。すれば、和御料は、南無阿弥陀仏の仔細を知らぬと見えた。
▲シテ「中々。何とも知らぬ。
▲出家「その儀ならば、云うて聞かさう。ようお聞きやれ。
▲シテ「それならば、云うて聞かしめ。
▲出家「《語》扨も、相模国田代寺の住僧尊常と云つし人、信濃国善光寺の如来に参り、一七日籠り、決定往生の祈念を致さるゝ処に、或る夜の御霊夢に、汝、誠の志あらば、河内の国土師の寺に行き、木患樹の実を取り、百八の珠数とし、念仏百万遍申さば、けつぢやう往生疑ひあるまじいとの御示現であつた。
▲シテ「ほう。
▲出家「《語》それより尊常、はじの寺に行き、もくげんじゆの実を取り、百八の珠数とし、念仏百万遍申し、つひに決定往生の素懐を遂げられた。則ち、南無阿弥陀仏といふは、西方極楽浄土の御仏の名で、中々そなたや愚僧などが付く名ではおりないぞ。
▲シテ「扨も扨も、かやうの仔細を初めて承つてござる。それならば、私が身の上を云うて聞かせませう。よう聞かせられい。
▲出家「心得た。
▲シテ「私は悪太郎と申して、日頃大酒を好み、悪逆を致いてござるが、今日も殊の外たべ酔ひ、路次とも存ぜず臥せつて居りましたれば、夢心の様に、汝、日頃悪逆をし、大酒を好くによつて、今、この姿となす。則ち、汝が名をば南無阿弥陀仏と付くるぞ。ゑい。と承つて、その儘目が覚めて、辺りを見れば、宿をづる時は、小袖を着、刀を差し、長刀を持つて出ましたが、その様な物はなうて、この様な薄い物とこの様な物と笠があつたによつて、某も不審に思うて、うかうかとして居る処へ、こなたの南無阿弥陀仏と云うてござつたによつて、それ故返事をした事でござる。
▲出家「仔細を聞けば、近頃尤ぢや。扨々、それは不思議な事でおりやる。
▲シテ「扨、かやうに出合ひまするも、他生の縁でござるによつて、何とぞこなたの弟子にして、諸国修行をさせて下されい。
▲出家「それは、奇特な事ぢや。その儀ならば、愚僧が弟子にして、諸国を修行させておまさうぞ。
▲アド「それは、忝うござる。その儀ならば、とてもの事に、この由を謡うて戻りませう。
▲出家「それが良からう。
▲シテ「《謡》げに今こそは知られけれ。扨は六字の名号を。
▲出家「《謡》夢に付きたる。
▲シテ「《謡》我が名なれば。
▲両人「《謡》今よりは思ひ切り、今よりは思ひ切り、只一心に阿弥陀を頼み、只一心に弥陀を頼みて、念仏申して帰りけり。
底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.)
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