『能狂言』下135 出家座頭狂言 おちやのみづ
▲住持「これは、この寺の住持でござる。明日は晴れいな茶の客がござるによつて、新発知を呼び出し、野中へ清水を汲みに遣はさうと存ずる。
なうなう。新発知。おりやるか。居さしますか。
▲シテ「いや。呼ばせらるゝさうな。
はあ。呼ばせられまするか。
▲住持「中々。呼ぶ。別なる事でもない。明日は晴れいな茶の湯をするが、茶は水が詮ぢやによつて、そなたは大儀ながら、今から野中へ行て、清水を汲んで来てくれさしめ。
▲シテ「畏つてはござれども、私はつひに水を汲んだ事はござらぬによつて、いつもの通り、門前のいちやを遣らせられい。
▲住持「中々。いつもいちやを遣れども、今日は日も暮れに及うだによつて、やられぬ程に、是非とも行て、汲んでわたしめ。
▲シテ「いかやうに仰せられても、これは御免なされて下されい。
▲住持「すれば、身共が云ふ事を、お聞きやらぬか。
▲シテ「こなたの仰せらるゝ事を背きは致しませぬが、似合はぬ事は、御免なされて下されい。
▲住持「それならば、ようおりやる。すつ込うで居さしめ。
▲シテ「あゝ。
▲住持「扨々、憎いやつでござる。さらば、いちやが所へ行て、頼うで遣はさうと存ずる。かう参つても、宿に居れば、良うござるが。いや。参る程に、これぢや。
なうなう。いちや。おりやるか。居さしますか。
▲いちや「いゑ。お寺様。何と思し召して、御出なされてござる。
▲住持「さればその事ぢや。明日、晴れいな客があるによつて、新発知に野中へ行て水を汲んで来いと云へば、とやかうと云うて行かぬ。何とぞそなた行て、汲んで来てくれさしめ。
▲いち「それは、気の毒な事でござる。もはや日も暮れに及うで、妾ひとり参るは何とも迷惑にはござれども、妾は参らずば、お茶の水に事を欠かせられう程に、行て汲んで参りませう。
▲住持「やれやれ。嬉しや。それならば、大儀ながら汲んで来てくれさしめ。
▲いち「心得ました。
▲住持「頼むぞや。
▲いち「はあ。
扨も扨も、迷惑な事でござる。はや日も暮れ掛かつてござるに、清水を汲んで来いと仰せらるゝ。まづ、少しも明かい内、参らう。男でさへ夜はひとりでは参らぬ所へ、女の身として参ると申すは、迷惑な事なれども、是非もござらぬ。いや。参る程に、野中へ参つた。もはや日も暮るゝ。人遠い所でござる程に、小歌を歌うて汲まうと思ひまする。
▲シテ「なうなう。嬉しや。何かと申して、いちやを遣つてござる。私が参る分は易けれども、ちと仔細あつて、いちやを遣はしてござる。後から参つて見ようと存ずる。ひとりでさぞ淋しうござらう。さればこそ、いちやが声で、小歌を歌うて居る。
▲いち「《小歌》清水寺なる地主の桜は、散るか散らぬか、見たか水汲み。散るやら散らぬやら、嵐こそ知れ。
▲シテ「やんややんや。扨々、いちや。聞き事でおりやるわ。
▲いち「なう。恥づかしや。こなたはこれへ、何しにござつたぞ。
▲シテ「何しに来たとは曲もない。推量して見さしめ。
▲いち「妾は、誰も人はないと思うて、むさとした事を云うて。なう。恥づかしや、恥づかしや。
▲シテ「何が恥づかしいぞ。身共も歌うて聞かせう。《小歌》
水を掬べば月も手に宿る。花を折れば、香、衣に移る習ひの候ふものを、袖を引くに引かれぬは、あら憎やの。
▲いち「なう。物狂や、ぶつきやうや。この体を、御師匠の見させられたならば、良いとは仰せられまい。
▲シテ「少しも苦しうない。又、歌はしめ。
▲いち「《小歌》小松かき分け清水汲みにこそは来に来たれ。今に限らうか、まづ放せ。
▲シテ「《謡》いざいざ。潮を汲まうよ、しほを汲まうよ。
▲いち「《謡》まづ、潮の満つ時は。
▲シテ「《謡》浜辺に待つて汲まうよ。
▲いち「《謡》又、潮の引く時は。
▲シテ「《謡》行き連れ立ちて汲まうよ。
▲いち「《謡》汀の波の夜の潮。
▲シテ「《謡》月影ながら汲まうよ。
▲いち「《謡》つれなく今にながらへて。
▲両人「《謡》秋の木の実の色づきて。や。いつまで汲むべきぞ。あぢきなや候ふ。
▲シテ「会うたが幸ひぢや。放しはせぬぞ。
▲いち「《謡》お茶の水が遅うなり候ふ。
▲シテ「《謡》のかい。
▲いち「《謡》放さい。
▲両人「《謡》帯切らさいな。又来うかと問はれたよの。なんぼうこじやれたお新発知やの。
▲住持「最前、清水へいちやを遣はしてござるが、殊の外遅うござる。参つて見ようと存ずる。もはや日も暮れて、女の事でござれば、心元なうござる。《見付けて》
や。これはいかな事。扨々、憎いやつでござる。
やいやいやい。これはまづ、何とした事ぢや。もし旦那衆の見られたならば、身共ともに寺を追い出さりよう。おのれ、憎いやつの。
《と云うて、新発知を取つて引き廻し、折檻するを見て、「いかに弟子ぢやと云うて、背丈伸びた者を、その様にあらけなう折檻するといふ事があるものでござるか」と云うて、いちや、取りさふる。住持、腹を立て、「おのれまで新発知が贔屓をする」と云うて、いちやを折檻するを、新発知見て、「いちやが咎ではござらぬ」と云うて、取りさふるを、腹を立て、又引き廻す時、いちや、見かねて、住持の足を取り、両人して打ち倒いて、「なう。愛しの人。こちへござれ、こちへござれ」と云うて、いちや、先に立つて入る。「心得た、心得た」と云うて、新発知入る》
やいやい。おのれらは、身共をこの様にして。将来が良うあるまいぞ。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。
底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.)
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