『能狂言』下136 出家座頭狂言 はくやう
▲伯養「これは、この辺りに住居致す、伯養と申す座頭でござる。近日、都の涼みでござつて、私の師匠も出られまするが、師匠の琵琶は四の糸が切れて、役に立ちませぬ。それにつき、こゝに良い琵琶を持たせられたお方がござるによつて、今日はあれへ参り、借つて参らうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。かう参つても、お宿にござれば良うござるが。お宿にさへござつたならば、貸して下さらぬと申す事はござるまい。いや。参る程に、これぢや。まづ案内を乞はう。《常の如く》
扨、只今参るも、別なる事でもござらぬ。《名乗りの如く云うて》それにつき、こなたには良い琵琶を持たせられてござるによつて、何とぞ貸して下されうならば、忝うござる。
▲アド「易い事。貸しておまさう。かう通らしめ。
▲伯養「それは、忝うござる。
▲アド「身共が手を取つて遣らう。
▲伯養「これは慮外にござる。
▲アド「それにとうどおりやれ。
▲伯養「はあ。
▲シテ「これは、この辺りに住居致す勾当でござる。近日、都の涼みでござつて、私も出まするが、私の琵琶は、ちと損ねて役に立ちませぬ。それにつき、等閑なう致すお方がござるが、これに、かねて良い琵琶を持たせられてござるによつて、今日はあれへ参り、何とぞ借つて参らうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、涼みはつゝと晴れいな事でござる。誰殿の琵琶は、私の琵琶よりも一段と良い琵琶でござるによつて、あれを貸してくれらるれば、晴れを致す事でござる。いや。参る程に、これぢや。まづ案内を乞はう。
《常の如く、アド、同断。伯養よりは、少し慇懃に云ふなり》
只今参るも、別なる事でもござらぬ。近日、都の涼みでござるが、私の琵琶は、散々に損ねて、役に立ちませぬ。それにつき、こなたには予て良い琵琶を持たせられてござる程に、何とぞ貸して下されうならば、忝うござる。
▲アド「近頃易い事ではござれども、最前伯養が参つて、貸さうと約束致いてござる程に、なりますまい。
▲シテ「何ぢや。伯養が借りに参つた。
▲アド「中々。
▲シテ「いや。あれは平家は語らず、琵琶はいらぬ筈でござるが。
▲伯養「申し申し。
▲アド「何事ぢや。
▲伯養「表に琵琶算段がござるが、誰でござるぞ。
▲アド「勾当の坊の見えて、貸せと仰しやるによつて、和御料に先に貸したと云うて、断りを云うておりやる。
▲伯養「いかにも私がせんでござる程に、私に貸して下されい。
▲シテ「やいやい。それへ来たは、伯養ではないか。
▲伯養「勾当の坊。出させられてござるか。
▲シテ「おのれは、琵琶はいらぬ筈ぢやが、何として借りに来たぞ。
▲伯養「仰せらるゝ通り、私はいりませぬが、師匠の琵琶が、四の糸が切れてござるによつて、それ故借りに参つてござる。
▲シテ「あゝ。いや。申し申し。すれば、きやつは又借りと申すものでござる。私は自身参りました程に、何とぞ私に貸して下されい。
▲伯養「いやいや。私がせんに約束致いてござる程に、どうあつても私に貸して下されい。
▲シテ「おのれ、憎いやつの。身共に向かうて色々の事を云ふ。散々に打擲してやらう。憎いやつの、憎いやつの。
▲伯養「勾当の坊ぢやと云うて、負くる事ではない。やつとな、やつとな。
▲アド「あゝ。まづ、勾当の坊、待たせられい。伯養も、待て待て。これではとかく理非が分からぬ程に、どちへも貸されぬ。某が思ふは、何ぞ勝負をして、勝ち負けによつて、どちらへなりとも貸さうと思ふが、何とあらうぞ。
▲伯養「これは、一段と良うござりませう。まづ、その通り勾当の坊へも、仰せられて見させられい。
▲アド「扨、勝負には何をするぞ。
▲伯養「歌を詠みませう。
▲アド「これは、一段と良からう。その通り云うて見よう。
申し申し。
▲シテ「何事でござる。
▲アド「扨、これではとかく理非が分かりませぬによつて、何ぞ勝負をして、勝つた方へ貸さうと申してござれば、伯養は歌を詠まうと申すが、こなたにも詠ませられうか。
▲シテ「いや。申し。何と勝負に及ぶものでござるぞ。是非とも私へ貸して下されい。
▲アド「いやいや。勝負をなされねば、こなたの負けになりまする。
▲シテ「何ぢや。私が負けになりまする。
▲アド「中々。
▲シテ「それならば、歌を詠みませう。伯養が歌を詠むと申す事は、つひに承つた事がござらぬが。まづ、あれから先へ詠めと、仰せられて下されい。
▲アド「心得ました。
いや。なうなう。そなたから先へ詠めと云はるゝ。
▲伯養「畏つてござる。何とでござらうぞ。
▲アド「何とであらうぞ。
▲伯養「かうもござらうか。
▲アド「はや出たか。
▲伯養「振舞の。
▲アド「《吟ずる》
▲伯養「座敷へ人の呼ばざれば。
▲アド「《吟ずる》
▲伯養「犬勾当は門に佇む。と致しませう。
▲アド「これは、一段とよう詠んだ。
▲シテ「やいやい。おのれ、憎いやつの。身共を犬に喩へ居つた。おのれ、打擲してやらう。憎いやつの、憎いやつの。
▲アド「あゝ。まづ待たせられい。
▲シテ「でも、私を犬に喩へました。
▲アド「それならば、こなたもその様な返歌をなされたが、良うござる。
▲シテ「その儀ならば、返歌を致しませう。何とでござらうぞ。
▲アド「何とが良うござらうぞ。
▲シテ「かうもござらうか。
▲アド「はや出ましたか。
▲シテ「庭中に。
▲アド「庭ぢゆうに。
▲シテ「歯欠けの足駄脱ぎ棄てゝ。
▲アド「脱ぎ棄てゝ。
▲シテ「はくやうなくて谷へはうかす。と致しませう。
▲アド「これも、一段とようござる。
▲伯養「いや。申し。勾当の坊。私を履物に喩へさせられたの。
▲シテ「おのれは犬にさへ喩へ居つたではないか。憎いやつの、憎いやつの。
▲伯養「負くる事ではない。やつとな、やつとな。
▲アド「あゝ。まづ待たせられい。伯養も、まづ待て。これでも勝負が分からぬ程に、今ひと勝負せい。
▲伯養「それならば、走りこくらを致しませうが、勾当の坊にもなさるゝか、問うて下されい。
▲アド「心得た。
申し申し。
▲シテ「何事でござる。
▲アド「今ひと勝負と申してござれば、走りこくらを致さうと申しまするが、こなたもなされうか。
▲シテ「これは、なりますまい。
▲アド「それは、なぜにでござる。
▲シテ「伯養は、目が見えまする。
▲伯養「いやいや。見えは致しませぬ。
▲アド「それならば、余の事をさしめ。
▲伯養「相撲を取りませうが、勾当の坊も取らせらるゝか、問うて見させられい。
▲アド「心得た。
申し申し。他の事をせいと申してござれば、相撲を取らうと申しまするが、取らせらるゝか。
▲シテ「これは、一段と良うござらう。伯養に、これへ出いと仰せられい。
▲アド「心得ました。
その通り云うたれば、取らう程に、あれへ出いと仰せらるゝ。
▲伯養「心得ました。
▲アド「勾当の坊も、これへ出させられい。
▲シテ「心得ました。
▲アド「某が行事を致しませう。
▲シテ「それが良うござらう。
▲アド「やあ。お手。
▲伯養「やあやあ。
▲シテ「やあやあ。
申し申し。伯養は、卑怯なやつでござる。どれへやら逃げました。
▲伯養「申し申し。勾当の坊は、臆病なお方でござる。どちへやら行かれました。
《アド、笑ふ。伯養も勾当も、行き違ひ、行き違ひて、尋ぬる》
▲アド「勾当の坊。まづ待たせられい。伯養も、まづ待て。互に逃げも走りもせねども、目が見えぬによつての事ぢや。今度は、身共が手と手を取り組んでやらうが、何とあらうぞ。
▲伯養「これは、一段と良うござりませう。
▲アド「申し申し。この度は、手と手を取り組んで進じませう程に、今一番取らせられい。
▲シテ「心得ました。
▲アド「伯養。つゝとこれへ御出やれ。
▲伯養「心得ました。
▲アド「勾当の坊も、これへ出させられい。
▲シテ「心得ました。
▲アド「伯養。手を出せ。
▲伯養「心得ました。
▲アド「こなたも、手を出させられい。
▲シテ「心得てござる。
▲アド「必ず、放すまいぞ。
▲シ伯「心得ました。
▲アド「やあ。お手。
▲シ伯「やあやあ。
▲アド「これは、何とするぞ。
▲シ伯「やあやあ。
《と云うて、両人して、アドの足を一本づゝ取つて廻り、打ち倒いて、互に》
▲シ伯「私が勝ちました程に、琵琶を私に貸させられい。
《と云うて、入る》
▲アド「やいやい。某をこの様に打ち倒いては、両方ともに貸す事はならぬぞ、ならぬぞ。
▲シ伯「私が勝ちでござる。琵琶は、こちへ借りまする。
▲アド「いやいや。どちへも貸す事はならぬ。
▲シ伯「なうなう。嬉しや。勝つたぞ、勝つたぞ。
《と云うて、両人ともに、入るなり》
底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.)
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