『能狂言』下137 出家座頭狂言 どぶかつちり
▲シテ「これは、辺土に住居致す勾当でござる。今日は、都に座頭の寄り合ひがござる程に、参らうと存ずる。まづ、菊都を呼び出いて、申し付けう。
やいやい。菊いち。あるかやい。
▲菊都「はあ。
▲シテ「居たか。
▲菊都「お前に居りまする。
▲シテ「汝を呼び出す事、別なる事でもない。今日は都に座頭の寄り合ひがあつて。某も行く程に、供をせい。
▲菊都「畏つてござる。
▲シテ「路次の慰みにする程に、さゝえを用意せい。
▲菊都「畏つてござる。はあ。さゝえを用意致しましてござる。
▲シテ「何ぢや。用意した。
▲菊都「中々。
▲シテ「その儀ならば。追つ付けて行かう。さあさあ。来い来い。
▲菊都「参りまする、参りまする。
▲シテ「扨、世上で某が平家をば、何と云ふぞ。
▲菊都「こなたの平家をば、世上で殊の外褒めまする。
▲シテ「さうであらう。官をせねば、平家を語る事がならぬ程に、汝をも官をさせたい事ぢや。
▲菊都「私もその願ひでござる。
▲シテ「さりながら、近々には下稽古をば、してとらせうぞ。
▲菊都「それは近頃、忝い事でござる。扨、こなたにちと願ひがござる。
▲シテ「それは又、いかやうな事ぢや。
▲菊都「私はこなたの平家を、しかと承つた事がござらぬ。それにつき、こゝ元はつゝと人遠い所でござるによつて、何とぞひと節、語つて聞かさせられうならば、ありがたうござる。
▲シテ「扨々、そちはむさとした事を云ふ。身共が平家は語る座敷が定まつて居て、この様な辻山道で語る平家ではないやい。
▲菊都「その事も存じて居りまするが、辺りに人もなし、一つは路次のお慰みにもなりませうず。又、都へ上らせられて、旦那衆へ御出なされたならば、定めて御所望もござりませう。さうあれば、お稽古でもござる程に、何とぞひと節語つて聞かさせられい。
▲シテ「むゝ。これは尤ぢや。それならば、語つて聞かせうが、辺りに人はないか。
▲菊都「いや。この辺りに人はござらぬ。
▲シテ「その儀ならば、語つて聞かせう。よう聞け。
▲菊都「畏つてござる。
▲シテ「《平家》そもそも一の谷の合戦破れしかば、源平互に入り乱れ、かゝる者は頤を切らるゝもあり、又、逃ぐる者は踵を斬られて逃ぐるもあり。何が急がはしき時の事なれば、きびすを取つておとがひに付け、頤を取つて踵に付けたれば、生えうず事と、踵に髭がむくりむくりと生えたるなり。又、冬にもなれば切れうず事と、頤に皸がほかりほかりと切れたるなり。
▲菊都「やんややんや。扨も扨も、世上で褒むるは、近頃尤でござる。お蔭で初めて承つてござる。
▲シテ「やい。菊都。
▲菊都「何事でござる。
▲シテ「川へ出たと見えて、瀬の音がする。
▲菊都「誠に、瀬の音が致しまする。
▲シテ「これは、渡り瀬が知れぬ。礫を打つて見よ。
▲菊都「畏つてござる。
《この内に、アド、出て、一の松にて名乗る》
▲通り「これは、この辺りの者でござる。今日は所用あつて、川向かひへ参る。急いで参らうと存ずる。いや。見れば、あれに座頭がふたりして、何やら致いて居る。はあ。つぶてを打つて、渡り瀬を見る。扨々、利根な者でござる。
▲菊都「ゑいゑい。やつとな。どんぶり、づぶづぶづぶづぶ。
▲シテ「をゝ。その辺りは深さうな。今少し下へ打て。
▲菊都「畏つてござる。この石が手頃な石ぢや。さらば打たう。ゑい。やつとな。どんぶり、かつちり。
▲シテ「をゝ。その所が浅い。
▲菊都「誠に、こゝ元が浅うござる。
▲シテ「さあさあ。身共を負うて渡れ。
▲菊都「畏つてはござりまするが、私ひとりでさへ、渡りかねまするに、何とこなたを負うて、渡らるゝものでござるぞ。これは、御免なされて下されい。
▲シテ「こゝな者は。汝を連るゝは何のためぢや。この様な時のためではないか。是非とも負うて渡れ。
▲菊都「その儀でござらば、畏つてござる。
▲通り「これは、良い処へ参つた。某が負はれて渡らう。
《と云うて、アド、菊都に負はるゝ》
▲菊都「きつと捉へてござれ。渡りまするぞ。やつとな、やつとな。
▲シテ「菊都めは、何をして居る事ぢや知らぬ。
▲菊都「さあさあ。これへ下りさせられい。やつとな。
▲シテ「やいやい。菊都、菊都。おのれは何をして居るぞ。
▲菊都「や。こなたは早、それへござつたか。
▲シテ「それへござつたかと云うて。おのれ、一人渡るといふ事があるものか。
▲菊都「今の程、負うて渡りましたに。又、それへござつた。
▲シテ「さあさあ。早う負うて渡れ。
▲菊都「只今それへ参りまする。
▲シテ「扨々、憎い奴の。一人渡るといふ事があるものか。
▲菊都「さあさあ。今度こそ、きつと負はれさせられい。
▲シテ「心得た。
▲菊都「渡りまするぞや。
▲シテ「早う渡り居ろ。
▲菊都「やつとな、やつとな。あゝ。今度はちと深うなつてござる。
▲シテ「あゝ。その辺りは深い。下を渡れ。
▲菊都「心得ました。やつとな。あゝ。余程深うござる。
▲シテ「扨々、苦々しい。しもを渡れと云うに。
▲菊都「やつとな。あゝ。悲しや、悲しや、悲しや。
▲シテ「これはいかな事。ひと絞りになつた。扨々、憎い奴の。おのれ一人渡る時は、浅い所を渡つて。身共を川へはめた。耳へも水が入る。
▲菊都「扨々、こなたはむさとした。最前の程、負うて渡りましたに。意地の悪い事をなさるゝによつて、私までひと絞りになりました。
▲シテ「まだそのつれな事を云ふ。殊の外寒うなつたが、さゝえは流しはせぬか。
▲菊都「いや。さゝえは流しませぬ。
▲シテ「それならば、注いでくれい。
▲菊都「畏つてござる。
《この内、アド、一の松にて笑うて、「見れば、さゝえを呑むさうな。さらば、調儀致さう」と云うて、さし足して、扇出して》
▲通り「扨も扨も、良い酒ぢや。
▲菊都「どぶどぶどぶ。
▲シテ「をゝ。恰度あるさうな。
▲菊都「誠に、ちやうどござる。
▲シテ「これはいかな事。いつすいもない。
▲菊都「今の程、注ぎましたが。
▲シテ「皆、外へこぼれたものであらう。今度はこぼれぬ様に注げ。
▲菊都「畏つてござる。どぶどぶどぶ。
▲シテ「をゝ。今度こそ、又、恰度あるさうな。
▲菊都「今度こそ、恰度あるさうにござる。
《又、アド、さし足して取る》
▲シテ「又、一水もない。
▲菊都「これはいかな事。今の程{*1}、注ぎましたが。
▲シテ「皆、おのれが呑うだものであらう。
▲菊都「何として、私が呑むものでござるぞ。こなたが呑み隠しをなさるゝものでござらう。
▲シテ「何しに呑み隠しをするものぢや。
▲菊都「でも、今の程注ぎましたに。合点の行かぬ事でござる。又、注ぎませう。
▲シテ「さあさあ。早う注げ。
▲菊都「心得ました。どぶどぶ。ちよろちよろ。早ござらぬ。
▲シテ「何ぢや。はや、ない。
▲菊都「中々。
▲シテ「扨々、おのれは憎い奴の。路次の慰みにせうと思うて持たせたを、おのれ一人して呑み居つて。某には一水も呑ませぬ。おのれ、何としてくれうぞ。
▲菊都「何しに私がたぶるものでござるぞ。こなたの呑み隠しをなさるゝものでござらう。
▲通り「扨々、面白い事ぢや。ちと喧嘩をさせう。
《これより、「居杭」の如く、鼻を引き、耳を引き、打擲して、アド、笑ひ、悦うで入る。シテ、腹を立て、菊都を取つて引き廻し、打ち倒す。菊都、「師匠ぢやと云うて、負くる事ではない」と云うて、引き廻し、打ち倒して入る》
▲シテ「やいやい。師匠をこの様にして、将来が良うあるまい。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。
校訂者注
1:底本は、「今ほど」。
底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.)
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