『能狂言』下138 出家座頭狂言 さるざとう
▲シテ「これは、この辺りに住居致す勾当でござる。承れば、四方山の花盛りぢやと申すによつて、今日は花見に参らうと存ずる。まづ、女共を呼び出いて、談合致さう。
いや。なうなう。これのは内に居さしますか。
▲女「妾を用ありさうに呼ばせらるゝは、何事でござる。
▲シテ「ちと用の事がある程に、かう通らしめ。
▲女「心得ました。扨、御用と仰せらるれば、心元なうござるが、それは又、いかやうの事でござるぞ。
▲シテ「別なる事でもおりない。聞けば、四方の花が盛りぢやと云ふによつて、今日はそなたを同道して、花見に行かうと思ふが、何とあらうぞ。
▲女「これは一段と良うござりませうが、こなたは花を見させらるゝ事はならず、お慰みにもなりますまい。
▲シテ「そなたの仰しやる通り、身共は花を見る事はならねども、花を嗅いでなりとも、慰まうと思ふ。
▲女「これはいかな事。花は見るとこそ申せ、嗅ぐとは申しますまい。
▲シテ「いやいや。嗅ぐと云うても苦しうない古歌がある。
▲女「それは、何と申す古歌でござる。
▲シテ「この春は知るも知らぬも玉鉾の行きかふ袖は花の香ぞする。とある時は、嗅ぐと云うても苦しうない事でおりやる。
▲女「左様の古歌を、初めて承つてござる。
▲シテ「扨、追つ付け行かう程に、小筒さゝえを云ひ付けてやらしめ。
▲女「心得ましてござる。
やいやい。勾当の坊の、花見に出させらるゝ程に、地主の辺りへ小筒を持つて行け。ゑい。
申し申し。さゝえを申し付けましてござる。
▲シテ「その儀ならば、追つ付けて行かう。さあさあ。おりやれ、おりやれ。
▲女「参りまする、参りまする。
▲シテ「扨、今日は天気が良いによつて、ゆるりと慰うで戻らう。
▲女「それが良うござりませう。妾も方々より誘はせらるれども、こなたはどちへも出させられず、妾ばかり参つても、面白うもござらぬによつて、断りを申して参りませぬ。
▲シテ「その様な事もあらう。扨、余り賑やかで、これでは道のはかゞ行かぬ程に、杖の先を取つてくれさしめ。
▲女「誠に、最前から、妾が気が付きませなんだ。これから妾が、お杖を取つて参りませう。
▲シテ「それが良からう。扨、あの音は何でおりやる。
▲女「あれは、四條五條の橋を通る人音でござる。
▲シテ「扨も扨も、夥しい人でおりやるの。
▲女「その通りでござる。さあさあ。ござれござれ。
▲シテ「参る参る。はあ。最前から、かやうにして行たならば、はかゞ行くであらうものを。
▲女「誠に、かやうに致いたならば、もはや清水へ参り着くでござらうものを。残念な事を致いてござる。
▲シテ「扨、もはや清水近うなつたと見えて、殊の外、人足が繁うなつた。
▲女「もはや清水近うなりましてござる。
▲シテ「さうであらう。
▲女「いや。何かと申す内に、清水へ参り着いてござる。
▲シテ「いかさま、清水へ来たと見えて、殊の外賑やかにもあり、その上、花も盛りと見えて、良い匂ひが致す。
▲女「誠に、今が盛りでござる。
▲シテ「さうであらう。扨、そなたは花の良い、人遠い所を見立てさしめ。
▲女「心得ました。はあ。どの辺りが良からうぞ。いや。こゝ元が、花も良し、人遠い所ぢや。これに致さう。
いや。申し申し。これに、人遠い花の良い所がござる。。
▲シテ「それは一段の事ぢや。それへ連れて行かしめ。
▲女「心得ました。申し申し。これでござる。
▲シテ「誠に、辺りに人音もせず、花も良いと見えて、むゝ。良い匂ひでおりやる。
▲女「咲きも残らず、散りも初めずと申しまするが、誠に今が盛りでござる。
▲シテ「さうであらう。扨、小筒を開かしめ。
▲女「心得ました。小筒を開きましてござる。
▲シテ「これへつがしめ。
▲女「心得ました。
▲シテ「をゝ。恰度あるさうな。
▲女「ちやうどござる。
▲シテ「むゝ。今日はそなたの、念を入れて云ひ付けたと見えて、殊の外良い酒でおりやるわ。
▲女「今日はこなたの、たまたま花見に出させらるゝ事でござる程に、随分念を入れて、申し付けましてござる。
▲シテ「さうであらう。殊の外良い酒ぢや。今一つ呑うで、そなたへさゝう。又、注がしめ。
▲女「心得ました。恰度ござる。
▲シテ「をゝ。あるさうな。さらば呑まう。扨、これをそなたへおまさう。
▲女「妾が戴きませう。
▲シテ「恰度呑ましめ。
▲女「恰度たべまする。
▲シテ「扨、今日は誰そ、他に誘うて参らうかと思うたれども、他の人があれば、そなたも{*1}心使ひをする。さうあれば、遊山にならぬと思うて、誰も同道せなんだ程に、うちくつろいで、ゆるりと慰ましめ。
▲女「誠に、他に人もござらぬによつて、妾も心使ひなしに、良い遊山を致しまする。
▲シテ「扨又、それをこちへおこさしめ。
▲女「上げませう。さらば参れ。
▲シテ「心得た。
▲女「又、恰度ござる。
▲シテ「をゝ。又、恰度ある。扨、一つ受け持つた程に、小歌を歌はしめ。
▲女「いや。申し。何と、この様な所で歌はるゝものでござるぞ。これは許させられい。
▲シテ「扨々、和御料はむさとした。辺りに人はなし、遊山の事ぢや程に、平に歌はしめ。
▲女「それならば、歌ひませう。
《初め、小筒を開く時分、猿引き、出る》
▲猿引「これは、この辺りに住居致す猿引でござる。今日は天気も良うござる程に、東山、清水の辺りへ参らうと存ずる。
やい。まし。行け行け。
誠にこの節は、ぢしゆの花が盛りでござるによつて、定めて夥しい花見でござらう。いや。何かと申す内に、清水へ参つた。扨も扨も、賑やかな事かな。誠に、花も今が盛りぢや。扨々、見事な。いづれもいづれも、真つ盛りでござる。いや。あれに、座頭が花見をして居る。扨々、むさとした。目も見えいで、花見はいらぬものぢや。見れば、美しい女が居るが。あれは、きやつが妻か知らぬ。はあ。小歌を歌ふ{*2}。これは、聞き事ぢや。
▲女「《小歌》清水寺なる地主の桜は、散るか散らぬか、見たか水汲み。散るやら散らぬやら、嵐こそ知れ。
▲シテ「やんややんや。
▲女「あゝ。恥づかしや、恥づかしや。
▲シテ「扨も扨も、久しうて聞いたが、いつ聞いても、良い声でおりやる。
▲女「又、むさとした事を仰せらるゝ。
▲シテ「扨、これをそなたへやらう。
▲女「又、戴きませう。
▲シテ「一つ呑ましめ。
▲女「心得ました。
《この内に》
▲猿引「扨も扨も、良い声かな。あの良い女を、目くらに添はするといふは、惜しい事ぢや。まづ、呼うで見よう。
《手招きし、手を叩きて呼ぶ。女、見て、かぶりを振るを、しきりに呼ぶ》
▲女「何事でござるぞ。
▲猿引「聊爾な申し事なれども、あれはそなたの内の人か。
▲女「中々。恥づかしながら、妾が内の人でござる。
▲猿引「扨々、そなたはその美しい姿で、あの様な目の見えぬ者に、添うて居るといふ事があるものか。
▲女「さりながら、幼馴染でござるによつて、是非もござらぬ。
▲猿引「某が良い処へ肝煎つておまさう程に、某がゝたへおりやれ。
▲女「なう。ぶつきやうや。その様な事は、嫌でござる。
《と云うて、行く》
▲シテ「扨も扨も、面白い事ぢや。かやうに出て呑めば、又、宿とは違うて気が晴々として、ひとしほ面白い。そなたも珍しう花見をする程に、随分とうちくつろいで、慰ましめ。や。女共、女共。どちへ行たか{*3}知らぬ。女共、女共。
▲女「呼ばせられまするか。
▲シテ「中々。呼ぶ。そなたはどれへ行たぞ。
▲女「只今、肴を取りに参つた。
▲シテ「それならば良い。又、そなたへおまさう。
▲女「又、戴きませう。
▲シテ「恰度呑ましめ。
▲女「心得ました。
《この内》
▲猿引「扨々、見れば見るほど、良い女ぢや。何とぞ誑いて、連れて行きたいものぢやが。《又、呼ぶ》
こちへおりやれ。
▲女「何事でござる。
▲猿引「最前も云ふ通り、良い処がある程に、平に某次第におりやれ。
▲女「妾も、参りたうはござれども、今の通り、少しも側を離されませぬによつて、行く事がなりませぬ。
▲猿引「そなたさへ合点すれば、いかやうともなる事ぢや。
▲女「又、呼ばれまする。行て参らう。
▲シテ「誠に、そなたが良い所を見立てたによつて、人が来いで、一段と心使ひがなうて、良うおりやる。女共、女共。又、どちへやら行た。女共、女共。
▲女「呼ばせられまするか。
▲シテ「又、どれへおりやつた
▲女「只今、加へに参つた。
▲シテ「加へに行くと云うて、その様に手間を取るものか。
▲女「あれに見事な花がござるが、それに短冊がござつた程に、読うで見ましてござる。
▲シテ「扨々、そなたはむさとした。この目の見えぬ者をひとり置いて、他へ行くといふ事があるものか。折角面白うあつたれども、和御料が立つゝ居つする程に、酒が染まいで面白うない。仕様がありさうなものぢやが。いや。仕様がある。
《と云うて、袂より紐を出して、女の腰へ結ひ付け、又、我が腰帯へも結ひ付くる》
▲女「いや。申し申し。扨々、むさとした。逃げも走りも致しませぬに。その様な事をなされたならば、人が笑ひませう。
▲シテ「いやいや。人が笑うても、某さへ落ち着けば、少しも苦しうない。又、これへおこさしめ。
▲女「心得ました。
▲シテ「恰度ある。をゝ。これこれ。最前から、かやうにして置いたならば、落ち着いて酒が呑まるゝものを。残念な事をした。
▲女「扨々、こなたはむさとした事を仰せらるゝ。
《この内、猿引き見て、「扨々、座頭と申す者は、勘の深い者ぢや。はや咎めて、女を結ひ付けた。扨々、利根な者でござる」。女呼び、酒を見する。うなづきて、猿をシテ柱へつなぎ、さし足して行き、酒を受け呑みて、「扨々、これは良い酒ぢや。今一つたべう」と云うて、又、さし足して、受けて呑む》
扨、妾はこなたに願ひがござる。
▲シテ「それは又、いかやうな事ぢや。
▲女「別の事でもござらぬ。こなたの平家を久しう承りませぬによつて、一節語つて聞かさせられうならば、忝うござる。
▲シテ「何ぢや。平家を語れ。
▲女「中々。
▲シテ「なう。そなたはむさとした。身共が平家は、語る座敷が極まつて居て、この様な辻山道で語る平家ではおりない。
▲女「それも存じて居りまするが、こゝ元は、つゝと人遠うござり、一つはお慰みにもなりませう程に、平に一節語らせられい。
▲シテ「何ぢや。辺りに人はない。
▲女「誰も居りませぬ。
▲シテ「それならば、語つて聞かせう。
▲女「それは嬉しうござる。
《平家は、「どぶかつちり」同断。この内に、猿引き、女を呼ぶ。女、腰の紐を見する。猿引き、うなづいて、猿をシテの腰へ結ひ付けて、女を連れ立つ。
「なうなう。嬉しや嬉しや。まんまと外いた。扨、これからは、某が良い処へ世話をせう程に、さう思はしめ」。
「それは、妾も一段と嬉しうござる」。
「こちへ渡しめ、こちへ渡しめ」。
「心得ました、心得ました」。
と云うて、引つ込む。初めの内は、平家を処々褒むるなり。シテ、平家を語り仕舞うて》
「なうなう。嬉しや嬉しや。まんまと外いた。扨、これからは、某が良い処へ世話をせう程に、さう思はしめ」。
「それは、妾も一段と嬉しうござる」。
「こちへ渡しめ、こちへ渡しめ」。
「心得ました、心得ました」。
と云うて、引つ込む。初めの内は、平家を処々褒むるなり。シテ、平家を語り仕舞うて》
▲シテ「女共。何と、面白いか。や。女共。そなたは最前まで褒めたが、なぜに褒めぬぞ。なう。女共。
《そろそろと、紐をたぐりて》
こちへ寄らしめ。今まで機嫌が良うあつたが、何として機嫌が悪しうなつたぞ。はあ。身共が結ひ付けたによつて、腹が立つか。よう思うてもお見やれ。これも、そなたを大切に思ふ故に、この様にして置く。必ず腹を立てずに、こちへ寄らしめ。
《と云うて、引き寄する。猿、「きやあ」と云ふ》
何ぢや。きやあ。なう。そなたは猿の真似をするか。はあ。酒に酔うたと見えた。その様な事を云はずとも、こちへ寄らしめ。
《「きやあ、きやあ、きやあ」と云うて、掻き付く》
あ痛、あ痛。なう。そこな人。あゝ。そなたは不嗜みな。女がその様に、爪を生やいて置くといふ事があるものか。あゝ。むさとした。猿の真似をせずとも、こちへおりやれと云ふに。
《と云うて、引き寄せて、手を取る》
▲猿「きやあ、きやあ、きやあ」
《と云うて、しきりに掻き付く故》
▲シテ「なう。悲しや。女共に毛が生えて、猿になつた。誰もござらぬか。この猿を追ひ放いて下されい。あゝ。痛や、痛や。助けてくれい、助けてくれい。なう。悲しや、悲しや。
《と云うて、こけこけして、逃げ入る。猿は、しきりに掻き付く》
校訂者注
1:底本は、「そなた」。『狂言全集』(1903)に従い補った。
2:底本は、「小歌は歌ふ」。『狂言全集』(1903)に従い改めた。
3:底本は、「ゐたか」。『狂言全集』(1903)に従い改めた。
底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.)
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