『能狂言』下139 出家座頭狂言 きかずざとう
▲主「これは、この辺りに住居致す者でござる。某、所用あつて、二、三日の逗留に山一つあなたへ参る。それにつき、私の太郎冠者は、聾で役に立ちませぬ。こゝに菊都と申して、目を掛くる座頭がござる。これを頼うで、留守をして貰はうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。かう参つても、内に居れば良うござるが。宿に居らぬ時は、参つた詮もない事でござる。いや。参る程にこれぢや。まづ案内を乞はう。《常の如く》
▲菊都「聞き馴れた声で、表に物申とある。案内とは誰そ。どなたでござる。
▲主「身共でおりやる。
▲菊都「こなたならば、案内に及びませうか。つゝと通りはなされいで。
▲主「さう思うたれども、もし客ばしあらうかと思うて、それ故案内を乞うておりやる。
▲菊都「それは近頃、御念の入つた事でござる。扨、只今は何と思し召しての御出でござるぞ。
▲主「只今参るも、別なる事でもおりない。所用あつて、二、三日の逗留に、山一つあなたへ行くが、お知りやる通り、太郎冠者は聾で役に立たぬ程に、暇ならば、そなた来て、留守をしてくれさしめ。
▲菊都「近頃易い事でござる。幸ひ、二、三日は暇でござるによつて、参つてお留守を致しませう。
▲主「それは満足ぢや。その儀ならば、手を取つておまさう。
▲菊都「これは、慮外にござる。
▲主「さあさあ。おりやれ、おりやれ。
▲菊都「参りまする。
▲主「今日はそなたも暇で、留守に来ておくりやつて、この様な満足な事はおりないぞ。
▲菊都「たまたまの御用に私も暇で、この様な悦ばしい事はござらぬ。
▲主「いや。何かと云ふ内に、戻り着いた。まづ、つゝと通らしめ。
▲菊都「心得ました。
▲主「それに、とうどおりやれ。
▲菊都「はあ。
▲主「やいやい。つんぼ。聾は居らぬか。聾、つんぼ。
▲シテ「いや。呼ばるゝさうな。
はあ。呼ばせられまするか。
▲主「今の程、声をばかりに呼ぶに。どれに居た。
▲シテ「《聞き返し》お次に居りましてござる。
▲主「扨、某は、二、三日の逗留に、山一つあなたへ行く。よう留守をせい。
▲シテ「や。
▲主「これはいかな事。《又、右の如く云ふ》
▲シテ「誠に、二、三日は良い天気でござる。
▲主「扨々、むさとした。《又、右の通り云ふ》
▲シテ「はあゝ。何と仰せらるゝ。二、三日の逗留に、山一つあなたへ行く程に、よう留守をせいと仰せらるゝか。
▲主「中々。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「則ち、留守には菊いちを傭うて置いた。云ひ合はせて、よう留守をせい。
▲シテ「菊畑は、今朝も掃除致しました。
▲主「これはいかな事。さうではない。《又、右の如く云ふ》
▲シテ「何と仰せらるゝ。《主の通り云うて》と仰せらるゝか。
▲主「中々。
▲シテ「あの目の見えぬ者が、何の役に立つものでござる。
▲主「おのれが耳の聞こえぬ事は置いて。身共は、もはや行くぞ。
▲シテ「や。
▲主「もはや行くと云ふ事ぢや。
▲シテ「はあ。もうござるか。ゆるりと慰うで帰らせられい。申し。頼うだ人。頼うだお方。
もはや、行かれた。扨、菊都めは何として居る事ぢや知らぬ。さればこそ、あれにつゝくりとして居る。
なうなう。菊都。
▲菊都「聾か。
▲シテ「や。
▲菊都「太郎冠者か。
▲シテ「をゝ。身共ぢや。
▲菊都「今日は大切なお留守ぢやによつて、云ひ合はせて、ようお留守をせうぞ。
▲シテ「や。
▲菊都「《又、右の如く云ふ》
▲シテ「をゝ。云ひ合はせて、ようお留守をせうとも。
▲菊都「はあゝ。聾といふものは、聊爾に話もならぬ。殊の外淋しい事ぢや。いや。思ひ出いた。仕様がある。
やい。聾。太郎冠者。
▲シテ「呼ぶか。
▲菊都「中々。呼ぶ。扨、今も云ふ通り、今日は大切のお留守に、そなたは耳が聞こえず、某は目が見えず。もし、盗人……。
▲シテ「何ぢや。盗人。
▲菊都「あゝ。さうではない。まづ、よう聞かしめ。
▲シテ「何と云ふぞ。
▲菊都「大切のお留守に、そなたは耳が聞こえず、身共は目が見えず。もし、盗人が入つたならば、何とせうと云ふ事ぢや。
▲シテ「むゝ。何と云ふぞ。《右の如く云うて》何とせうと云ふか。
▲菊都「中々。
▲シテ「誠に、何としたものであらうぞ。
▲菊都「これこれ。良い仕様がある。
▲シテ「や。
▲菊都「某は、目が見えずとも耳が聞こゆるによつて、すは盗人とも云はゞ、そなたの袖をかう引かう程に、それを合図に、出てわめかしめ。
▲シテ「や。
▲菊都「《又、右の如く云ふ》
▲シテ「何と仰しやるぞ。《又、右の通り云うて》
出てわめけと仰しやるか。
▲菊都「中々。
▲シテ「これは、良い処へ気が付いた。その儀ならば、盗人が入つたらば、袖を引いてくれさしめ。
▲菊都「心得た。
▲シテ「扨も扨も、目の見えぬ者は、勘の深いものでござる。
▲菊都「扨々、聾といふものは、聊爾に話もならぬ。あゝ。淋しうなつた。ちと誑いてやらう。
そりや、そりや、そりや。
▲シテ「心得た、心得た。
やいやいやい。盗人は大勢ぢや。裏へも門へも人を廻せ。この所は某が受け取つた。出合へ、出合へ、出合へ{*1}。
はて、合点の行かぬ。人影もさゝぬ。何とした事ぢや知らぬ。
《この内》
▲菊都「何ぢや。盗人は大勢ぢや。裏へもかどへも人を廻せ。この所は某が受け取つた。《笑ふ》扨々、聾といふものは、悲しいものぢや。盗人も這入らぬに、盗人は大勢ぢや。《笑うて》扨々、良い慰みを致いた。
▲シテ「見れば、菊都めが笑うて居る。定めて、たらいたものであらう。扨々、腹の立つ。何としてくれうぞ。
やいやい。菊都。盗人の事は扨置き、人影もさゝぬ。
▲菊都「何ぢや。人影もさゝぬ。それは、そなたの威勢に恐れて、逃げたものであらう。
▲シテ「や。
▲菊都「《又、云ふ》
▲シテ「その様な事もあらう。扨、某はこの間、小舞を稽古するが、そなたが目が見ゆるならば、舞うて見せたい事ぢや。
▲菊都「これは一段と良からう。身共は、目は見えずとも、謡を聞いてなりとも慰まう。一つはそなたの稽古にもならう程に、ひとさし舞はしめ。
▲シテ「や。
▲菊都「《又、云ふ》
▲シテ「何ぢや。稽古にもならう程に、舞へ。
▲菊都「中々。
▲シテ「さりながら、出来た処や済んだ時分には、褒めてくれねばならぬが、それが知れまい。
▲菊都「誠に、これは何としたものであらうぞ。
▲シテ「菊都。良い事を思ひ付いた。出来た処や済んだ時分には、そなたの顔を撫でうによつて、それを合図に褒めてくれい。
▲菊都「心得た。早う舞へ。
▲シテ「や。
▲菊都「心得た、早う舞へと云ふ事ぢや。
▲シテ「心得た。
《「一天四海波」を舞ふ。二度程、撫づる》
▲菊都「やんやゝんや。いつの間に、きやつは覚えた事か知らぬ。
▲シテ「《笑うて》扨も扨も、目の見えぬ者は、浅ましいものぢや。おのれが顔を足で撫づるは知らいで、やんやゝんやゝんや。《笑ふ》扨々、良い慰みぢや。
▲菊都「これはいかな事。身共が顔を足で撫でた。扨々、憎い事でござる。何としてくれうぞ。
▲シテ「やいやい。菊都。何と、面白うあつたか。
▲菊都「殊の外、出来たさうな。
▲シテ「や。
▲菊都「《又、云ふ》
▲シテ「をゝ。殊の外出来た。
▲菊都「やいやい。つんぼ、聾。
▲シテ「呼ぶか。
▲菊都「中々。某は、この間、平家を。
▲シテ「何ぢや。下手ぢや。
▲菊都「いやいや。さうではない。この間、某は平家を稽古するが、そなたが耳が聞こゆるならば、ひと節語つて聞かせたい事ぢや。
▲シテ「むゝ。何と云ふぞ。《又、右の通り云うて》語つて聞かせたいと云ふか。
▲菊都「中々。
▲シテ「これは良からう。某は、聞かずとも、口の動くを見てなりとも慰まう。一つはそなたの稽古にもならう程に、語らしめ。
▲菊都「さりながらこれも、出来た時分や面白い処をば、褒めて貰はねばならぬ
▲シテ「や。
▲菊都「《又、云ふ》
▲シテ「誠に、これは何として褒めうぞ。
▲菊都「合図には手を上げう程に、それを合図に褒めてくれさしめ。
▲シテ「むゝ。何と云ふぞ。《又、右の通り云ふ》それを合図に褒めてくれいと云ふか。
▲菊都「をゝ。その通りぢや。
▲シテ「中々。褒めてやらう程に、早う語れ。
▲菊都「心得た。
まづ一つ、誑いてやらう。《手を上ぐる》
▲シテ「やんやゝんや。
▲菊都「まだ語りもせぬに。
▲シテ「面白さうな口元ぢや。
▲菊都「《平家》そもそも、これの聾めは、耳の聞こえぬのみならず、臆病者の阿房めなり。
▲シテ「やんやゝんやゝんや。
▲菊都「おのれが身の上の事を云ふは知らいで。やんやゝんや。
《笑ふを、シテ、見て》
▲シテ「これはいかな事。又、笑ひ居る。定めて、身共が身の上の事を云うたものであらう。扨々、憎い奴の。致し様がある。
やいやい。菊都。その返報に、今一番舞はうか。
▲菊都「一段と良からう。
▲シテ「合図は最前の通りぢやぞ。
▲菊都「心得た。ぬかる事ではない。
▲シテ「《小歌》いたいけしたるものあり。張り子の顔や塗り児。しゆくしや結びに笹結び。山科結びに風車。瓢箪に宿る山雀。胡桃にふける友鳥。虎まだらの犬ころ。起き上がり小法師、振り鼓。手毬や踊る鞠、小弓。
▲菊都「やつとな。
▲シテ「何とするぞ。
▲菊都「おのれ、憎い奴の。よう身共が顔を、足で撫で居つたな。おのれ、憎い奴の。目の見えぬ者ぢやと思うて、誑し居つた。おのれが様な奴は、まづかうして置いたが良い。
▲シテ「目くらぢやと思うて侮つて居たれば、方領もない。やあやあやあ。やあ。お手。勝つたぞ、勝つたぞ。
▲菊都「やいやいやい。目の見えぬ者をこの様にして。将来が良うあるまい。どちへ行くぞ。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞやるまいぞ。
校訂者注
1:底本は、「出合い(二字以上の繰り返し記号二つ)」。『狂言全集』(1903)に従い改めた。
底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.)
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