『能狂言』下141 集狂言 こぬすびと
《初めに、乳母子を抱いて》
▲女「扨も扨も、よう御寝なるお子様かな。さらば、表のお座敷へ連れまして、休ませませう。申し申し。こゝにゆるりと休ませられい。妾は勝手へ行て、茶をたべて参りませう。
《と云うて、中入り》
▲シテ「名誉のこれしやでござる。この間、辺りの若い者どもと寄り合うて、しゝの角を揉む程に揉む程に、縄に綯ふ程致いてござれば、散々揉み損なうて、家いつせきは申すに及ばず、女共が身の廻りまで打ち込うでござるによつて、宿へ戻る事もならず、何とも致さう様がござらぬ。誠に、世話に申す如く、相撲の果ては喧嘩になり、博奕の果ては盗みを致すより他はないと申すが、某も、只今は左様の手立てならでは、致さう様がござらぬ。それにつき、下の町に誰殿と申して、大有徳な人がござるが、殊ない道具好きで、ふだん道具が取り散らいてあると申すによつて、今夜あれへ参り、何ぞ道具のひと色ふた色も、案内なしにそつと借つて参り、それを元手に致し、何とぞ打ち返さうと存ずる。総じて、かやうの事は、宵からつけたが良いと申すによつて、時分も良うござる程に、まづそろりそろりと参らうと存ずる。誠に、かやうの事を致せば、後には面白うなつて、ほんのものになると申すが、私は中々、左様の事ではござらぬ。参る程に、これでござる。扨も扨も、用心厳しい体かな。これでは中々、這入られまい。それそれ。先度、裏道を通つたれば、まだ塀の手の合はぬ所があつた。さらば、裏道へ参らう。何とぞ、先度の儘であれば、良うござるが。さればこそ、この葭垣一重ぢや。これを切りあくれば、則ち表の座敷ぢや。この様な事があらうと存じて、鋸を用意致いた。さらば切りあけう。づかづかづか、づかづかづか、づゝかり。さらば、これを引きめくらう。めりゝめりゝ、めりめりめり。鳴つたり鳴つたり。したゝかな鳴り様であつた。身共はうろたへた。人に聞かすまいと思うて、我が耳をちやつと塞いだ。人は聞きつけぬか知らぬ。誰も聞きつけぬと見えて、静かな。さらばくゞらう。ゑいゑい。やつとな。はあ。しつけぬ事をすれば、胸がだくめいて気味が悪い。いや。又、これに塀がある。この分の塀は、飛び越えて参らう。やつとな。さればこそ、これが表の座敷ぢや。まづ、戸をあけて見よう。さらさらさら。《肝を潰して、退きて》火がともつてある。まづ、落ち着いた。人が居るならば、その儘取つて出うが。人は居らぬと見えたが、だますかも知れぬ。見届けて参らう。あゝ。これは、こは物ぢやが。《抜き足にて行き、のぞき見て》なうなう。嬉しや嬉しや。誰も居らぬ。さらさらさら。扨も扨も、結構な普請かな。いや。又、有徳人の普請は、違うたものぢや。隅から隅までも手の込うだ、良い普請ぢや。さればこそ、これに早、いろいろ道具が取り散らいてある。これは何ぢや。はゝあ。茶の湯の道具ぢや。風炉、釜、茶碗、茶入。扨も扨も、結構な道具ぢや。この釜は、定めて芦屋であらう。又、この茶碗は疑ひもない、高麗であらう。扨又、この茶入れの姿形のしほらしさ。これは、何をひと色取つても、一かどの元手ぢや。はゝあ。武具、馬具。扨も扨も、美々しい事かな。や。これに、結構な小袖がある。これは、こちらの道具とは取り合はぬ物ぢやが。何として、これに小袖を置いたか知らぬ。それはともあれ、この間、女共が機嫌が悪しうござつた程に、さらば、これを取つて行て、女共に遣はさうと存ずる。
《と云うて、小袖を取り、子を見付けて》
はゝあ。これに、子が寝させてある。これは定めて、誰殿の幼いでござらうが、何として、この様な人遠い所へ寝させて置いたか知らぬ。定めて、乳母めがこの子をこれへ寝させて、おのれは勝手へ行て、雑談がな云うて居るでござらう。や。目をぽつちりとあいて。何ぢや。手を出いて。抱からう。をゝ。抱きませう、抱きませう。さらば、抱きませう。やつとな。扨も扨も、こなたは良い子ぢや。総じて、下々の子は、知らぬ者を見ては、必ず泣くものぢやが、和御料は有徳人の子程あつて、このむくつけな者を見て、ようお笑やるの。何ぞ芸はないか。手打ち手打ち手打ち。《笑ひて》もうないか。かぶりかぶりかぶり。《笑》扨々、そなたは芸者ぢや。や。余り声高に云うたによつて、機嫌が損ねた。ちとすかしませう。こそこそこそ。や。愛し子でござるを、誰が又、泣かいた。いたちが来るに、よ。な泣いそや、な泣いそ。《返して云ふ》さればこそ、機嫌が直つた。某も、子を持つて覚えがござるが、眉目の悪しい子でさへ、親の身では可愛うござるに、誰殿は果報な人ぢや。そなたの様な良い子を持つて、さぞ嬉しうござらう。総じて、狐の子はつらじろと云ふが、そなたは誰殿にようお似やつて、良い子ぢや。良い器量ぢや。もはや、何も芸はないか。や。何ぢや。合点合点合点。もうないか。にぎにぎにぎにぎ。《笑うて》扨々、芸者ぢや。あの余念もない顔は。ちと、こそぐりませう。こそこそこそこそ。《笑ふ》扨々、良い機嫌ぢや。あゝ。余り声高に申すによつて、又、ちと機嫌が損ねた。今度は肩車に乗せて、すかしませう。《子を肩に乗せて》はあ。愛し殿御を肩に乗せて。乗せて乗せて、御所へ参らう、御所へ参らう。《いくつも返し、云ふ》
▲女「最前、わ子様を表の座敷に寝さしましてござるが、ようぎよしんなると見えて、お声が致さぬ。参つて見ようと思ひまする。
《と云うて、盗人を見付けて》
申し。ござりまするか。
▲亭主「何事ぢや。
▲女「表のお座敷へ盗人が入つて、お子様のお守りを致しまする。
▲亭主「心得た。
《と云うて、肩ぬぎ、太刀持つて》
やいやい。表の座敷へ盗人が入つた。この所は某が受け取つた。裏へも背戸へも人を廻せ。出合へ出合へ出合へ。
▲シテ「これはいかな事。見付けられたさうな。
《と云うて、子を脇座へ置いて、シテ柱の方へ逃ぐる》
▲亭主「やい。おのれ、憎い奴の。胴斬りにしてやらう。
▲シテ「お座敷を見物に参りました。
▲亭主「何の、夜中に座敷を見物。唐竹割りにしてやらう。
▲シテ「あゝ。申し申し。聊爾をなさるゝな。私は盗人でない証拠には、こなたの御大切のわ子様を、乳母めが人遠い所へ寝さしまして、おのれはどれへやら雑談に参つてござるによつて、則ち、お守りを致いて居りました。
▲亭主「何の、子の守りをするものか。胴斬りにしてやらう。
▲シテ「すれば、どうあつても斬らせらるゝか。
▲亭主「斬らいで何とするものぢや。
▲シテ「それならば、まづこの子から斬らせられい。
▲亭主「その子をそこに置け。
▲シテ「さあ。斬らせられい。
▲亭主「置かずば、その子ともに斬つて仕舞はう。
《乳母、もだえて、「あゝ。危ない。まづ待たせられい。早くそのお子を置いて、逃げて行け」と云うて、主へ止める》
▲シテ「さあ。斬らせられい、斬らせられい。
《と云うて、段々廻りて、シテ柱の際へ子を下ろし、逃げて入る》
あゝ。許させられい、許させられい、許させられい。
▲亭主「憎い奴の。あの横着者。その盗人を捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。《と云うて、追ひ入る》
《乳母は、後にて子を抱き上げ、「扨々、危ない目に遭はせられた。あまの命を拾はせられた程に、御寿命は長からう。なう。愛しのわ子様や。五百八十年、七廻りまでも生き延びさせられう。なうなう。嬉しや嬉しや」と云うて、入る》
底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.)
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