『能狂言』下142 集狂言 れんがぬすびと

▲シテ「これは、この辺りに住居致す者でござる。某、いやしくも和歌の道に好き、辺りの若い衆と寄り合うて、連歌の初心講を取り結んでござれば、近日、頭に当たつてござる。私の事でござれば、この度のとうを営まう様がござらぬ。私ばかりでもござらぬ。今いち人、相頭がござるによつて、今日はあれへ参り、相談を致さうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。かう参つても、お宿にござれば良うござるが。もしお宿にござらぬ時は、参つた詮もない事でござる。いや。参る程にこれぢや。さらば、案内を乞はう。《常の如く》
▲アド「何と思し召しての御出でござるぞ。
▲シテ「只今参るも、別なる事でもござらぬ。扨、頭も近々になりましてござる。
▲アド「誠に、近日になりましてござる。定めてこなたには、御用意が出来たでござらう。
▲シテ「私も、用意致さぬではござらぬ。かいしきなどがいらうかと存じて、南天や杉の葉を、七、八十人前も用意致いてござる。
▲アド「かいしき。いち、いる物でござる。扨、何でござる。
▲シテ「まづ、これまでゞござる。
▲アド「はや、それまでゞござるか。
▲シテ「中々。こなたは定めて、色々ご用意なされたでござらう。
▲アド「私も、用意致さぬでもござらぬが、杉楊枝などがいらうかと存じて、七、八十人前も用意致いてござる。
▲シテ「杉楊枝。いち、いる物でござる。扨、何でござる。
▲アド「はや、これまでゞござる。
▲シテ「いや。申し。この度の頭が、杉楊枝やかいしきなどでは営まれますまい。
▲アド「仰せらるゝ通り、杉楊枝やかいしきなどでは営まれますまいが、何と致いて良うござらうぞ。
▲シテ「扨、今日参るも、別なる事でもござらぬ。それにつき、御相談あつて参りましたが。こゝ元は、つゝとはし近にござる。何と、奥へ通りませうか。
▲アド「誠に、最前から心付きませなんだ。つゝと通らせられい。
▲シド「その儀ならば、通りませう。
▲アテ「つゝと通らせられい。
▲シテ「心得ました。
▲アド「それにゆるりとござれ。
▲シテ「扨、こゝ元は、人遠い所でござるか。
▲アド「中々。つゝと人遠い所でござる。扨、御用と仰せらるゝは、いかやうの事でござるぞ。
▲シテ「別なる事でもござらぬが、この事を申し出いて、こなたの御承引あれば、良うござるが、もし御承引ない時は、私の迷惑致す事でござる。
▲アド「これは、改まつた仰せられ様でござる。あひ頭の事でござれば、承引致さぬと申す事がござらうか。平に仰せられて御らうぜられい
▲シテ「それならば、申しませうが、もし御承引ない時は、当座の笑ひ草になされて下されい。
▲アド「何が扨、笑ひ草に致しませう程に、早々仰せられい。
▲シテ「その儀ならば、申しませう。あの下の町の。《笑うて》中々申さるゝ事ではござらぬ。
▲アド「これはいかな事。なぜに左様に仰せらるゝぞ。相頭の事でござれば、良い事は良い、悪しい事はあしいと申しませう程に、是非とも仰せられい。
▲シテ「それならば、もし御承引ない時は、必ず当座の笑ひ草でござるぞや。
▲アド「中々。もし悪しい事ならば、笑ひ草に致しませう。
▲シテ「それならば、申して見ませう。あの下の町の誰殿。《又、笑うて》いかないかな。申さるゝ事ではござらぬ。
▲アド「扨々、こなたは聞こえぬお方でござる。なぜに左様に心を置かせらるゝぞ。思ひ切つて云うて見させられい。
▲シテ「その儀ならば、今度こそ思ひ切つて申しまする程に、もし御承引なくば、必ず当座の笑ひ草でござるぞや。
▲アド「いかにも。笑ひ草でござるとも。
▲シテ「あの、しものちやうの誰殿をご存じでござるか。
▲アド「あれは、大有徳人でござる。
▲シテ「その、有徳についての事でござる。
▲アド「とは、耳よりにござるが。それは又、いかやうな事でござるぞ。
▲シテ「さればその事でござる。私の存じまするは、最前も申す通り、この度の頭が、中々杉楊枝やかいしきの類では営まれますまい程に、今夜、こなたと私と致いて、あれへ参り、何ぞ道具のひと色ふた色も、案内なしにそつと。《笑うて》これは、ざれ事でござる。
▲アド「あゝ。皆まで仰せらるゝな。私も内々は、左様の手立てならではござるまいと存じてござる。
▲シテ「扨は、御同心でござるか。
▲アド「いかにも同心でござる。
▲シテ「誠に、相頭なれば、心までが一つでござる。
▲アド「左様でござる。
▲シテ「扨、この様な事は、宵からつけたが良いと申すによつて、いざ、参りませう。
▲アド「こなたはいかう、お功者にござる。
▲シテ「扨々、むさとした事を仰しやる。まづ、和御料からおりやれ。
▲アド「いや。まづ、そなたから行かしめ。
▲シテ「その儀ならば、身共から参らうか。
▲アド「それが良からう。
▲シテ「さあさあ。おりやれ、おりやれ。
▲アド「参る参る。
▲シテ「何と思はしますぞ。そなたや某が、朝夕の煙さへ立てかぬる身代で、連歌に好くといふは、片腹痛い事ではないか。
▲アド「仰しやる通り、片腹痛い事でござる。
▲シテ「さりながら、追つ付け、天神の御納受ない事はあるまいぞ。
▲アド「中々。御納受ない事はあるまいとも。
▲シテ「いや。なうなう。来る程に、これでおりやる。
▲アド「誠に、これぢや。
▲シテ「扨も扨も、用心厳しい体かな。これでは中々、這入る事はなるまい。
▲アド「中々。忍び入る事はなるまい。
▲シテ「それにつき、下心あつて、この間裏道を通つて見たれば、まだ塀の手の合はぬ所があつた。いざ、裏道へ廻らう。
▲アド「一段と良からう。
▲シテ「さあさあ。おりやれ、おりやれ。
▲アド「心得た、心得た。扨々、そなたはどれからどれまでも、気の付いた人ぢや。
▲シテ「むさとした事を仰しやる。さればこそ、この葦垣一重ぢや。
▲アド「誠に、よし垣一重である。
▲シテ「これを切りあくれば、則ち表の座敷ぢや。和御料は何ぞ、刃物を用意したか。
▲アド「いや。身共は何も用意せぬ。
▲シテ「扨々、不嗜みな人ぢや。身共は、この様な事もあらうかと思うて、鋸を用意した。
▲アド「扨々、良い心掛けぢや。
▲シテ「又、むさとした事を仰しやる。扨、某はこれを切りあくる程に、和御料は、辺りを気を付けてくれさしめ。
▲アド「心得た。
▲シテ「ずかずかずか、ずかずかずか、ずかずかずかずか、ずつかり。なうなう。これを引きめくらう。
▲アド「一段と良からう。
▲シテ「これへ寄らしめ。
▲アド「心得た。
▲両人「めりゝめりゝめりゝめりゝめりゝ。
▲シテ「鳴つたり鳴つたり。したゝかな鳴り様であつた。はあ。某はうろたへた。人に聞かすまいと思うて、我が耳をちやつと塞いだ。扨、今一人の者は、何としたか知らぬ。定めてきやつも、肝を潰いたでござらう。
▲アド「扨も扨も、夥しい鳴り様かな。誰そ、聞き付けはせぬか知らぬ。扨、今一人の者は、いづ方へ逃げたか。きやつも定めて、うろたへたでござらう。
▲シテ「ゑい。こゝな者。
▲アド「和御料か。
▲シテ「そなたか。扨、今のは夥しい鳴り様ではなかつたか。
▲アド「仰しやる通り、したゝかな鳴り様であつた。
▲シテ「身共はうろたへた。人に聞かすまいと思うて、我が耳をちやつと塞いだ。
▲アド「身共とても、その通りぢや。
▲シテ「まづ、人は聞き付けぬと見えた。
▲アド「中々。聞き付けぬと見えた。
▲シテ「さらば、これをくゞらう。
▲アド「一段と良からう。
▲シテ「はあ。しつけぬ事をすれば、胸がだくめく。
▲アド「仰しやる通り、胸がだくめく。
▲シテ「いや。これが則ち、表の座敷ぢや。
▲アド「誠にさう見えた。
▲シテ「身共が戸をあけて参らう。
▲アド「それが良からう。
▲シテ「さらさらさら。
▲アド「何とした。
▲シテ「灯がともつてある。
▲アド「誠に、灯がともつてある。
▲シテ「まづ、落ち着いた。
▲アド「落ち着いたとは。
▲シテ「はて。人が居るならば、取つて出うが、人は居らぬと見えた。
▲アド「さりながら、だますかも知れぬ。
▲シテ「こは物ながら、見届けて参らう。
▲アド「早う見て渡しめ。
▲シテ「心得た。なうなう。人は居らぬぞ。
▲アド「何ぢや。人は居らぬ。
▲シテ「中々。さらさらさら。はあ。扨も扨も、結構な普請かな。又、有徳人の普請は、違うたものではないか。
▲アド「誠に、どれからどれまでも手の込うだ普請でおりやる。
▲シテ「あの欄間の透かしなどは、扨々、良い細工ではないか。
▲アド「誠に見事な事でおりやる。
▲シテ「いや。何かと云ふ内に、はや、これに何やら道具が取り散らいてあるわ。
▲アド「誠に、何やら取り出いてある。
▲シテ「はゝあ。これは、茶の湯の道具ぢや。
▲アド「その通りぢや。
▲シテ「風炉、釜、茶碗、茶入れ。はあ。この釜は、定めて芦屋であらう。
▲アド「誠に、芦屋であらう。
▲シテ「この茶碗は、高麗であらう。
▲アド「いかさま、高麗であらう。
▲シテ「扨又、この茶入れの姿形のしほらしさ。これは、何を取つても、この度の頭は楽々と営まるゝと云ふものぢや。
▲アド「誠に、宝の山へ入つたといふものぢや。
▲シテ「はゝあ。武具、馬具。
▲アド「鞍、鎧。
▲シテ「扨も扨も、きらびやかな事ぢや。いや。なうなう。
▲アド「何事ぢや。
▲シテ「この床に、懐紙がある。
▲アド「読うで見さしめ。
▲シテ「心得た。十月ひと日。水に見て月の上なる木の葉かな。この葉かな。これは先月、わたましがあつたが、その時の発句であらう。
▲アド「いかさま、その時の発句であらう。
▲シテ「扨、身共が思ふは、そなたや某が分として、この様な結構な座敷で連歌をする事はなるまい程に、これに添へ発句をせうではあるまいか。
▲アド「これは一段と良からう。
▲シテ「それならば、まづ下におりやれ。
▲アド「心得た。
▲シテ「まづそなた、発句をさしめ。
▲アド「まづ、和御料からさしめ。
▲シテ「その儀ならば、出合ひに致さう。
▲アド「それが良からう。
▲シテ「何とであらうぞ。
▲アド「されば、何とが良からうぞ。
▲シテ「かうもあらうか。
▲アド「はや出たか。
▲シテ「梢散り。
▲アド「梢散り。
▲シテ「顕はれやせん下紅葉。と致さう。
▲アド「《吟じて》この間に承らぬ発句でおりやる。
▲シテ「その様に云はずとも、身共も初心な事ぢやによつて、悪しい処があらば、直いてくれさしめ。
▲アド「さう仰しやるによつて、云うても見ようか。
▲シテ「それが良からう。
▲アド「この発句には、差し合ひがある。
▲シテ「発句に差し合ひはおりやるまいがの。
▲アド「中々。発句に差し合ひはなけれども、今夜これへ来て、顕はれやせんが、何とやら心掛かりな。
▲シテ「これは尤ぢや。それならば、顕はれやせぬ下紅葉と直さう。
▲アド「せぬ下紅葉。
▲シテ「中々。
▲アド「一段と良う直つた。それならば、脇を致さう。
▲シテ「それが良からう。
▲アド「何とが良からうぞ。
▲シテ「されば、何とであらうぞ。
▲アド「かうもあらうか。
▲シテ「早出たか。
▲アド「時雨の音を盗む松風。と致さう。
▲シテ「《吟じて》これは、この間に承らぬお脇でおりやる。
▲アド「身共も稽古の事ぢやによつて、悪しい処があらば、云うてくれさしめ。
▲シテ「さう仰しやるによつて、云うても見ようか。
▲アド「それは尚々ぢや。
▲シテ「今夜これへ来て、盗むが耳に立つ様な。
▲アド「いや。まだ楊枝を一本盗まぬによつて、苦しうあるまい。
▲シテ「いかさま、苦しうあるまい。それならば、第三を致さう。
▲アド「それが良からう。
▲シテ「何とであらうぞ。
▲アド「何とが良からうぞ。
《この内に、亭主、聞き付けて、立つて》
▲亭主「表の座敷に人影が差すが。誰も行かぬか。何ぢや。誰も行かぬ。それならば、盗人であらう。
《と云うて、肩脱ぎ、太刀を持つて》
やいやい。盗人は大勢ぢや。裏へも門へも人を廻せ。この所は某が受け取つた。出合へ出合へ出合へ。
▲シテ「これはいかな事。聞き付けられたさうな。
▲アド「扨々、苦々しい事ぢや。
《と云うて、亭主の方へ逃げて行く》
▲亭主「おのれら、一人も逃がす事ではないぞ。
▲シテ「あゝ。申し申し。盗人ではござらぬ。お座敷を見物に参りました。
▲亭主「何の、夜中に座敷を見物とは。
▲アド「途に迷うて参りました。
▲亭主「まだそのつれな亊を云ふ。おのれら、胴斬りにしてやらう。
▲アド「申し申し。聊爾をなさるゝな。盗人でない証拠には、お床に懐紙がござつたによつて、それへ添へ発句をつかまつりました。
▲亭主「扨々、それは優しい盗人ぢやが。何と添へ発句をしたぞ。
▲シテ「懐紙には、水に見て月の上なる木の葉かな。とござりましたによつて、私の、梢散り顕はれやせん下紅葉。とつかまつりましてござれば、これに小盗人がござつて、脇をつかまつりましてござる。
▲亭主「何と脇をしたぞ。
▲シテ「そなた、申し上げさしめ。
▲アド「とてもの事に、和御料、申し上げさしめ。
▲亭主「どれからなりと、早う云へ。
《この前とも、「そなた、申し上げさしめ」。「和御料、申し上げさしめ」と云うて、せり合ふなり。書き落としゝ故、これに記す》
▲シテ「時雨の音を盗む松風。とまではつかまつりましたが、両人ともに、まだ楊枝を一本。
▲両人「盗みは致しませぬ。
▲亭主「扨々、奇特な盗人ぢや。それならば、身共が第三をせう程に、汝ら、四句目を付けい。句柄によつて、命を助けてやらうぞ。
▲シテ「それは。
▲両人「ありがたうござる。
▲亭主「何とであらうぞ。
▲シテ「何とでござらうぞ。
▲亭主「かうもあらうか。
▲シテ「はや出ましたか。
▲亭主「闇の頃。
▲シテ「闇の頃。
▲亭主「月を哀れと忍び出で。
▲シテ「天神ぞ、ござりますまい。
▲アド「玉津島も、ならせられますまい。
▲亭主「さあさあ。汝ら両人して、四句目を付けい。句がらによつて、命を助けてやらうぞ。
▲シテ「それならば、和御料、申し上げさしめ。
▲アド「そなたから申し上げさしめ。
▲亭主「さあさあ。どちからなりとも、早う云へ。
▲シテ「醒むべき夢ぞ。
▲アド「許せ鐘の音。
▲両人「と、つかまつりませう。
▲亭主「醒むべき夢ぞ許せ鐘の音。一段とよう付けた。命を助くる程に、早う出て行け。
▲シテ「ありがたうはござりまするが、それに御出なされては、出にくうござる程に、ちとくつろいで下されい。
▲亭主「これは尤ぢや。くつろいでやらう。
何者か、顔を見ようと存ずる。
▲アド「なうなう。顔を見られぬ様にさしめ。
▲シテ「心得た。
▲亭主「ゑい。誰。
▲シテ「面目もござらぬ。
▲亭主「ゑい。そなたか。
▲アド「面目もござらぬ。
▲亭主「和御料達ならば、肝を潰すまいものを。何としておりやつたぞ。
▲シテ「さればその事でござる。私は参るまいと申してござるを、あの者が、たつて参る様にと申してござる。
▲アド「申し申し。あの者は、鋸を用意致いてござる。
▲シテ「これこれ。その様な事は、云はぬものでおりやる。
▲亭主「いやいや。少しも苦しうおりない。扨、夜寒なによつて、御酒を一つ申さう。下におりやれ。
▲シテ「もはや、な。
▲両人「お暇申しませう。
▲亭主「いやいや。手間を取らする事ではない。平にしもにおりやれ。
▲シテ「その儀ならば。
▲両人「畏つてござる。
▲シテ「これは、こは物でおりやる。
▲アド「だますかも知れぬ。
▲亭主「さあさあ。一つ呑うで行かしめ。
▲シテ「これは忝うござる。これへ下されい。
▲亭主「身共が酌をしておまさう。
▲シテ「これは慮外にござる。それならば、一つたべませう。
▲亭主「一つ呑ましめ。
▲シテ「恰度ござる。
▲亭主「ちやうどある。
さあさあ。そなたも参れ。
▲アド「これは慮外にござる。をゝ{*1}。恰度ござる。
▲亭主「その通りぢや。
▲シテ「お蔭で、胸のだくめきを已めました。今一つたべませう。
▲亭主「いか程も参れ。
▲アド「私も、今一つたべませう。
▲亭主「何程なりとも参れ。
▲シテ「数良う、三献下されませう。
▲亭主「それが良からう。
▲アド「私も三献たべませう。
▲亭主「そなたも三献呑ましめ。扨、もはや参らぬか。
▲シテ「もう。
▲両人「たべますまい。
▲亭主「それならば、取らう。扨、何がなと思へども、折節、何もない。これは重代なれども、そなたへ進ずるぞ。
▲シテ「このお太刀を私へ下されまする。
▲亭主「中々。
▲シテ「まづ以て、ありがたうはござれども、これは辞退致しませう。
▲亭主「折角、心ざいて遣る事ぢや。平に取つて置かしめ。
▲シテ「よう思し召しても御らうぜられい。今夜これへ参つたを、命を助けて下さるゝさへあるに、何とこれが申し受けらるゝものでござるぞ。幾重にも辞退つかまつりまする。
▲亭主「扨々、和御料は義理の堅い事を仰しやる。その様に云はずとも、平に取つて置かしめ。
▲シテ「何程に仰せられても、辞退つかまつりまする。
▲アド「あゝ。これこれ。下さるゝ物を頂戴せねば、かへつて無礼になる。めでたう頂戴したならば、良からう。
▲シテ「むゝ。誠にその通りぢや。それならば、めでたう頂戴つかまつりませう。
▲亭主「をゝ。それそれ。それでこそ、良うおりやる。
▲アド「はあ。扨、あの者は、結構なお太刀を頂戴つかまつゝてござる。
▲亭主「いや。そなたへも何ぞと思へども、持ち合はせぬ。これは、わざよしなれども、これをそなたへおまするぞ。
▲アド「これを私へ下されまする。
▲亭主「中々。
▲アド「まづ以て、ありがたうはござりますれども、あの者が頂戴致せば、同じ事でござる。これは、辞退つかまつりまする。
▲亭主「あの人は、あの人。これは、そなたへ心ざいておまする程に、平に取つて置かしめ。
▲アド「いや。どうあつても、これは返上致しまする。
▲シテ「あゝ。これこれ。そなたは最前、下さるゝものを申し受けねば、かへつて無礼になるとは仰しやらぬか。
▲アド「その通りぢや。これは、めでたう申し受けませう。
▲亭主「をゝ。それでこそ良けれ。扨、かやうに致すも、別なる事でもおりない。お知りやる通り、身共も連歌に好けども、似合はしい相手がない。これからは、そなた達、再々来て、連歌の相手をしてくれさしめ。
▲シテ「何が扨、これからは再々来て、お連歌の。
▲両人「お相手を致しませう。
▲亭主「さりながら、今宵の様に裏から見えては、迷惑な程に、以来は、表から案内を乞うて来てくれさしめ。
▲シテ「裏から案内なしに参る者は、私ども両人ならでは、な。
▲両人「ござりますまい。
▲亭主「いやいや。表から来てくれさしめ。
▲シテ「何が扨、重ねてからは、表から案内を。
▲両人「乞うて参りませう。
▲亭主「扨、某もこれに居て、話したけれども、勝手に用の事がある程に、ゆるりと休んで行かしめ。
▲シテ「その儀ならば、両人ともに、もはや。
▲両人「お暇申しませう。
▲亭主「もはや、おりやるか。
▲両人「さらばさらば。
▲亭主「ようおりやつた。
▲両人「はあ。
▲シテ「いや。なうなう。
▲アド「何事ぢや。
▲シテ「夢のさめたやうな事ぢや。
▲アド「その通りでおりやる。
▲シテ「これと云ふも、天神の御納受あつての事であらう。
▲アド「誠に、御納受あつての事であらう。
▲シテ「只戻る処ではない。急いで和歌をあげて戻らう。
▲アド「それが良からう。
▲シテ「《イロ》げにや、和歌の言葉には、おにがみまでも納受とは、かゝる事をや申すらん。
▲両人「《謡》げに、世の常の習ひには、盗人を捕らへては、斬るこそ法と聞くものを、この盗人は、さはなくて、連歌に好ける優しさに、呼び入れて見参し、酒一つ呑ませて。
▲シテ「《謡》太刀。
▲アド「《謡》刀。
▲両人「《謡》賜びにけり。これかや、事の譬へにも、盗人に負ひと云ふ事は、かゝる事をや申すらん、かゝる事をや申すらん。
▲シテ「なう。お聞きやるか。
▲アド「何事ぢや。
▲シテ「そなたと某は、寿命は長からう。
▲アド「をゝ。長からうとも。
▲シテ「五百八十年。
▲アド「七廻りまでも。
▲シテ「それこそめでたけれ。こちへ渡しめ、こちへ渡しめ。
▲アド「心得た、心得た。

校訂者注
 1:底本は、「を、」。

底本『能狂言 下』(笹野堅校 1945刊 国立国会図書館D.C.

前頁  目次  次頁